第2章・絶海の一族

文字数 28,491文字

 島は水平線から姿を消しつつあった。
 行く事はなかったが、森や沼もあり、耕作地や放牧地も、集落も幾つもあった。人々は集落間を移動するにも馬を使うような、北海で最も大きな島だった。だが、何も遮る物のない、ただ波ばかりの北海では小さく見えた。
「これで、何も思い煩う事は無い」海狼(かいろう)は言った。「ここから、新しい人生を歩み出せば良い。これから、幸福を手に入れれば良い事なのだから」
 海狼は言葉の通り、菫に二人の娘を選ばせた。
 誰かを選ぶとするなら――と、菫はすぐりと杏を選んだ。
 湯浴みを済ませるや海狼はエルガドルを呼び、二人を探させた。
 襤褸屑のように家畜小屋に放り込まれていたすぐりを探し当てたのも、エルガドルだった。海狼とエルガドルは、すぐりの有様を見ても愕く事がなかった。
 エルガドルに抱えられて海狼の部屋に連れて来られたすぐりの清拭と着替えは、菫が行った。まだ痛々しい痣が体中に残っていた。無言でされるがままのすぐりには生気がなかった。食事も与えられていなかったようだ。傷の事を考えれば、良くこの数日を生き残れたものだった。傷が化膿していなかったのが幸いしたのだろう。菫は、赤毛の娘に降りかかった悲劇を思わずにはいられなかった。
 身を清めたすぐりと菫は、夜の内に海狼の他の部下が連れて来た杏と共に、その船に乗った。歩けぬすぐりをエルガドルが抱え、海狼が先導した。船の夜番の者以外はいない浜は静かで、松明の炎に、陸を向いた各族長船の舳先の獣が睨み付けているようだった。事前に報されていたのだろうか、船に残っていた海狼の部下達は菫達が乗船する際にも特に気にする様子もなかった。急遽、島の療法師の館から呼び戻された男が薬湯を沸かす為の指示をするにも、黙々と従っていた。
 菫達が落ち着いたのを見届けると、海狼は力付けるような笑みを向け、一人で館に戻った。心細かった。だが、杏は何も言われずに連れ出されたらしく、少し震えていた。その手を取り、この経緯を話すと、俄には信じられないようだったが、それでも、この島にいるより悪い事は起こらないだろう、と弱々しく笑った。
 夜が明ける頃、三人に朝食を供してくれたのはエルガドルだった。五日の間、何も口にしていなかったすぐりは療法師の指示で違った物を口にする事になったが、温かな薬草茶と食事に菫は感謝した。外見からは想像できない程に、この海狼の副官は細やかな心遣いを見せてくれた。
 陽が高くなるとやがて、島の人々に見送られて海狼とエルガドルが乗船して来た。その長櫃が菫達のいる(とも)に置かれた。
 男達が船を浜から押し出し、乗船して来た。これは、本来ならば奴隷の仕事であったはずだ。だが、この船の者達は当然のような顔をしていた。濡れた脚の舵取りは、位置に付くと菫達に笑みを浮かべた。男達は船長の合図で櫂を手にした。
 一斉に櫂が使われると、船体は向きを変え、舳先が外洋を向いた。
 艫に身を潜めて菫は船上の動きを見ていた。細長い軍船(いくさぶね)では、海狼は遠く見えた。
 どのくらい島から離れたのか、海風が強くなると男達は櫂をしまい、帆柱を立てた。
 海狼が、男達の間を縫って菫に近付いて来た。
 何と堂々とした姿なのだろうか。
 そう思わずにはいられなかった。
 丈の長い海老茶色の正装に身を包み、風にはためく緋色の外衣を銀の大きな留め具で留めている。その肩には、あの白い獣の毛皮。最初に見た時の、神々の一人ではないかという思いが、再び興った。そう、海の神のようだ。
 海狼は微笑むと菫に屈み込んだ。と思うや、声を上げる間もなく抱き上げられた。軽々と。思わず、菫は海狼の首に齧り付いた。
 そのまま海狼は舷側に立ち、傍らを航行する族長船に片手を上げて見せた。その船の舳先は竜ではなく鷲だった。
 多くの海鷲が、その鷲頭(しゅうとう)船の周りを舞っていた。
「お前を手にするのに、口添えを頂いたディオン殿だ」
 せり上がった舳先の甲板(こうはん)に、鷲の一族の族長の姿があった。返礼に黒鷲も片手を上げた。
「まだまだ私も族長の中では若造に過ぎんからな。年長者の力を借りねばならない事も多い」
「でも――」
「ディオン殿とて、私がお前を妻にしようとしているとは御存知ない。あの方には昔から随分と目を掛けて頂いているが、北海では通用しない事まで話す事はない。恐らく、側女として連れ帰るのだと思っておられるだろう。私の母の事も、あの方は御存知ない。もし、母の事が知れたら、私は族長ですらなくなるだろう」
 北海の法では、特別な場合を除いて奴隷の子は奴隷でしかないという事を、菫も長い奴隷生活で知っていた。それだけの危険を冒してまで、この人の父は奴隷であったという女性を正妻に選んだのだ。また、この人も。
「案ずるな。皆はお前を受け入れている」
 考えを察したかのように海狼は言った。そして、再び舳先に鷲の彫り物を施した軍船に向かって手を上げた。
 それを合図とするかのように、二隻は離れた。それが、つい先程の事。
「あの船は西の涯へ行く。この船は北の涯だ」
 海狼は菫を甲板に下ろした。
「見ろ、もう島は遠い。(じき)に見えなくなるだろう。何もかも忘れろ。あの島であった事は、全て、忘れるのだ」
 それが困難である事も分かっているかのような口調だった。そして、海狼はすぐりに目をやって眉を顰めた。
「あの島の奴隷の扱いは、極めて酷いものだったからな」
 その言葉に、菫は安心した。少なくとも、あのような扱いは受けずに済むという事なのだ。
「だが、あの娘を――」と海狼は杏に眼を移した。「あの娘を、お前の側に置くのは賛成しかねるのだが」渋い顔をして海狼は言った。「約束だからな、致し方あるまい」
 誰よりも思いやりのある杏を、何故(なにゆえ)そのように評するのか、菫には分からなかった。美しい女は不和の種になる、というのは、物語では良くある話だった。だが、それを気にする必要もない程に、海狼の部下達は統率が取れているように思えた。
「さて、まずはこの鎖を何とかしなくてはな」
 海狼は菫の首の鎖を手にし、暫し弄んでいた。
「よし、こちらに来ると良い」
 海狼は帆柱の近くの切り株様の物の所へ菫を連れて行った。「跪いて、首を置いてみろ」
 言われた通りにしたが、まるで斬首されるような格好だった。
 ぐいと鎖が引っ張られた。
「決して、動くな。目を閉じた方が良いかもしれない。大丈夫だ、私を信じろ」
 この人の言葉に偽りのあった事があっただろうか。菫はその姿勢のまま、眼を閉じた。
 首の鎖が引かれ、二人の娘が息を呑む音が聞こえた。
 こつこつと、何かで鎖が叩かれた。
 ひゅっと空気を切り裂く音がしたかと思うや、鎖を通じて全身に衝撃が走った。
「御見事」
 男達の感歎の声が上がった。
「終わったぞ」
 その声と共に、菫は海狼に腕を取られて立ち上がった。膝が震え、目を開ける事も出来なかったが、首からずるりと鎖が滑り落ちるのが分かった。
 恐る恐る目を開けると、切り株様の物の上に、壊れた鎖があった。海狼はそれを拾い上げると、にやっと笑って海へと放り投げた。
「さすがは海狼殿。ひと打ちだ」誰かが言った。「さ、他の二人も解き放ちましょう」
 菫が見ていると、杏も同じ姿勢をとらされ、誰かが長剣の柄でその鎖を思い切り叩いた。一度、二度…三度目にして、ようやく、鎖が壊れた。
 すぐりも同じだった。
 菫は、部下達の仕事を見やっている海狼を見上げた。
 体格では海狼を上回っている屈強な男ですら何度も叩かねばならなかったところを、海狼は一度で菫を解放してくれた。思った以上に、見かけ以上に力があるのだろう。
「さて、では、天幕を張るので、そこで着替えられるが良い」海狼は少し(おど)けたような口調で三人に言った。「長櫃の中に、衣が入っているので、好きな物を選ばれよ。むくつけき男共はしっかりと見張っておくので、ゆっくりと吟味されると良い。支度が整ったならば、出て来られたい」
「我々はそんなに信用がありませかねえ」苦笑しながらエルガドルが言った。「

以上の興味があるとは思って頂けない」
「そういう軽口を叩くからこそな」
 海狼が返し、皆が笑った。族長に対してそのような口をきく程に、一族の結束が固い事が見て取れた。
「お前の分は別に、私の長櫃に入っている」艫に天幕が張られるのを待つ間に、海狼は言った。漕ぎ座のある上甲板の板を外し、下甲板――その下には脚荷石(ばらすと)があると後に教わった――で、男達が作業を始めていた。「私の物には紋章が彫られているから、分かるだろう」
 随伴の積荷船に大半の荷は積まれている為、族長船には航海中に必要な物――蜜酒と麦芽酒(エール)、水の樽と幾つかの長櫃しか載ってはいなかった。それらが全て、天幕に収められた。戦士達の個人的な荷物は、櫂を使う際の座席になっている。既にそれを開けて濡れた服を着替えようとしている者もいたが、さすがに菫達の存在を気にしてか新しい物を取り出すに留まっていた。
 作業を終えた男達に促されて中に入ると、天井は低かったが、着替えには支障はないようだった。
 長櫃を開けると、食糧の他には衣服の入った物は一つしかなかった。そこには、集落の女性達が晴れ着にするような一式に加え、帯や靴などもぎっしりと入っていた。
「これって」杏が息を呑んで言った。「一族の人へのお土産じゃないの」
「こちらの長櫃には、族長の紋章があるわ」菫はもう一つの櫃に触れて言った。「だから、そこから自由に、という事ではないかしら」
 杏が衣を広げている間に、菫は海狼の長櫃を開けた。こちらも海狼の私物に加えて、いつの間に入れ込んだのか、女物の衣服が相当枚数入っていた。合わせ具合については良く分からなかったが、おかしくはない色を選んだ。島では履く事のなかった靴も、足にぴったりだった。
「これで、いいかしらね」
 少し浮かれたように、杏が言った。その気持ちは良く分かった。何しろ、今まで襤褸同然の物ばかりを与えられて来たのだ。着飾る事とは無縁だった。島に来る以前の杏の生活は知らなかったが、自由人の娘であったのならば、嬉しくもあるだろう。
「とてもよく、似合うわ」
 菫は微笑んだ。晴れやかな杏の様子に、自然と笑みがこぼれた。
 だが、動く素振りのないすぐりに気付くと、その笑みも消えた。すぐりの表情は暗かった。
 菫は櫃の中から、すぐりの赤い髪に似合いそうな色柄の物を見つけた。
「これが、あなたには似合いそうだわ」
「でも――」
 すぐりは躊躇っていた。あの事が、この娘を決定的に変えてしまっていた。
「海狼さまは、わたしたちに着替えて来るようにとおっしゃったわ」菫は衣をすぐりの手に持たせた。「今は、海狼さまがわたしたちの族長なのだから、従わなくては」
「そうね」
 すぐりは溜息を付き、菫はその着替えを手伝った。薬湯と食事のおかげか、昨夜よりは力も出るようだった。
 ようやく姿を整えたすぐりの髪を、菫は海狼から贈られた、北の涯の島で鯨の骨から作られたという櫛で軽く梳いた。
 あの勝ち気な娘はどこにもいなかった。それが、菫を余計に心配にさせた。体力は仕方がない。回復もしよう。だが、生きる気力をなくした者をどうすれば良いのかを、菫は知らなかった。あの島では、それは即、死を意味したからだ。ようやくの希望にも、すぐりは関心がないようだった。
 それに較べて、杏は明らかに輝きを増していた。生きる力に溢れ、元から美しかったものが、清潔できちんとした衣服に身を包む事によって、その魅力を倍加しているように見えた。
「さあ、行きましょう」
 すぐりの支度が終わると、杏は自ら天幕の出口を引き開けた。
 明るい光の中で、近くにいた舵取りが呆けたように杏を見送った。それ程の、変わりようだった。菫はすぐりを助けながら外に出た。
 エルガドルが菫達に気づき、背を向けていた海狼を小突いた。
 ゆっくりと、海狼が振り向いた。じっくりと吟味するように菫を上から下まで眺めた。その顔には満足そうな笑みが浮かび、他の二人には目もくれなかった。それは、嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。
「皆、集まってくれ」
 海狼は部下達に言った。帆を操る手を止め、舵取り以外の男達が海狼の周囲に集まって来た。
 海狼は菫に向かって手を伸ばした。来い、と言われているのだと感じ、菫は海狼に近付いた。
「皆に、証人になって貰いたい」
 そう言うや、海狼は菫の前に跪いた。そして、菫の靴に触れた。
 愕いて引っ込めようとした足を、海狼の手は離さなかった。それどころか、(こうべ)を垂れ、新しいとはいえ、靴に唇付けた。
「我、ベルクリフはここに誓う」海狼は頭を垂れたまま言った。「これより(のち)は我が運命、其方もし、我が手を取りたれば、この生命、その足下にありと。我が心は其方に捧げられたりと。知り給え、我が(いさおし)と名誉は其方の為にあり。我が愛、我が魂を受け入れ賜うならば、この手を取り、さもなくばこの場にて死を命じよ」
 そう言うと、海狼は顔を上げ、すらりと長剣を抜いて切っ先を自らの胸に向けた。黒々とした刃が、陽の光を受けて輝いた。
「もし、求婚を受けられるのでしたら、剣を収めるように仰言って下さい。拒否されるのでしたら、立ち去られるだけで宜しいのです。恥をかかせるとか、そのような事はお考えにならなくとも構いません。どうぞ、御心(みこころ)に正直に」
 エルガドルが小声で、言った。
「どうぞ、剣をおおさめくださいませ、ベルクリフさま」
 菫の声は震えていた。平静でなど、いられなかった。
 海狼は長剣を鞘に収めたが、跪いたまま菫を見上げ、片手を差し伸べた。
「では、この手を取り賜え」
 言われるがままに、菫は手を取った。
 ようやく海狼は立ち上がり、今度は菫を見下ろす格好となった。
 ゆっくりと海狼は身を屈めた。髭が触れたと感じる間もなく、海狼はぐいと菫を抱き寄せて唇付けた。余りに急に強く抱き締められた為、息が詰まった。
 くらくらする頭に、乗組員達の歓声が響いた。
 ようやく海狼が菫を解放すると、男達が二人の周囲に群がった。
「御婚約の儀、御目出度う御座います」
 エルガドルが言った。
「有り難う、エルガドル」海狼が応えた。「荒事よりも勇気のいるものだな。もう少しで、全て忘れてしまう所だった」
「貴方にしては上出来だったと思いますが」エルガドルはそう言って、菫に向き直った。「決して浮ついた所のない御方です。どうか、御安心を」
「いつも一言、多い奴だ」海狼は苦笑した。「我が一族にとり、海での誓いは神聖なものだろうが」
 それに――と海狼は菫の腰に腕を回して引き寄せた。
 それに、この女は真実、私の運命だ――そう、付け加えた。


 夕食も男達によって料理された簡単なものだったが、温かだった。下甲板の板も外し、脚荷石の上に置いた鉄鍋に火をおこして男達は調理した。航海用の堅焼き麵麭は、食事の汁か麦芽酒に浸さなくては喉を通らない代物であったが、それでも、奴隷の食事とは較べ物にならなかった。だが、すぐりも杏も酷く気分が悪いようだった。船酔いでしょう、と療法師は言い、薬草茶を作った。
 確かに、最初の緊張がほぐれると、船の揺れと(よじ)れとに眩暈がするようだった。その感覚に菫は直ぐに慣れたのだが、二人はそうではなかった。
 薄明の中、積荷船の角灯に灯りが点った。暮れゆく海の上で、その火は心許なかった。族長船の角灯も、船上では明るかったが、暗い海の上では星の一つのようにしか見えないのだろうかと、菫は思った。
 すぐりの傷は療法師が診てくれたが、やはり右眼は失明していた。後は、島に着く迄に腫れも痣も引くだろうとの事だった。ただ――と黒髪に白い物の混じった男は言った――心の方は、ずっと時間が掛かるでしょう。
 療法師にすら怯える様は、確かに常軌を逸していた。
 だが、そういう女ならば幾らでもいる、島で女療法師の元でゆっくりと養生するのが一番だろうと、療法師は付け加えた。
 また、すぐりは菫の側を離れたがらなかった。族長の妻となる事を約された自分といる方が安全だと思っているのではないかと、杏は言った。
 そうであろうとなかろうと、菫はすぐりを守ろうと思った。頼って来る者を、どうして拒む事が出来るだろうか。また、すぐりは自分であったのかもしれないのだ。出来る限りの手助けを、したかった。
 舳先近くで、海狼は皆とは離れて一人で食事を摂っていた。時折、空に眼をやるその姿は、統べる者だった。何故(なにゆえ)に、そのような人が自分を運命と呼び、この一族にとっては神聖だという海の誓いを為したのか、菫は理解できずにいた。求婚の作法も、荒々しい北海の部族とは思えなかった。
 一体、この部族はどういった人達なのだろうか。
 荒くれの印象を与える者も多かったが、どこか違った感じの者もいる。
 海狼やエルガドル、療法師のような、柔らかで穏やかな物腰の人々だ。そのような男は、イルゴールの島の戦士にはいなかった。品の無い冗談も聞えない訳ではなかったが、それでも、男ばかりの船にいるというのにどこか安心できるのは、そういった人が中心にいるからかも知れなかった。
 自分への視線を感じたのか、海狼は座している長櫃を軽く叩いて菫に来い、と促すような仕種をした。
 立ち上がった菫を、すぐりは縋るような眼で見た。それを、療法師が話し掛けて気を逸らし、頷いて見せた。
 男達は、菫が通って行くのにも注意を払う様子はなかった。
 海狼は菫に、自分の隣に座るよう言った。
「お前は不思議な女だ」海狼は感心したように言った。「船には慣れていないだろうに、まるで船乗りのように歩くのだな。まさに海神の娘だ」
 と、艫を見やった。
「あの娘の事は大丈夫だ。この船であろうと島であろうと、何が起こったのかを詮索する者はいない。不心得者もな。だから、安心するが良い」海狼は言った。「女性には何かと不自由だろうが、天幕で過ごす事で許して貰いたい。我々は甲板で寝るからな」
「族長のあなたも、甲板でお休みになるのですか」
 菫は愕いて訊ねた。
「私の寝床も、ここだ」そう言って、海狼は踵で甲板を軽く蹴った。「他部族でも、そんなものだろう。我々は、夜の舵取りや星の観測をしながら航海を続ける。族長や副官は、戦士としてだけではなく、航海を司る者でもある」
 海狼は夜空を見上げた。
「お前に話したい事は、余りにも多い。その全てを語るには、一生をかけても足りまい。だが、これだけは憶えておいて欲しい。もし、私が海で生命を落とすような事があったとしても、決して哀しむな。海で死ぬのは、我々にとっては自然で名誉な事だ。その時には、お前は次の族長が決まるまで代理を務めねばならないが、自由に生きろ。それが、私の望みだ」
 ふと、菫は海狼の五歳になるという男子の事を思い出した。
 手許を見て、海狼は顔を歪めた。
「求婚したばかりだというのに、死の話を持ち出すなど、酷い男だと思うだろう。だが、これは大事な――我ら海に生きる者にとり、最も大事な話だ。死は、誰にでも(おとな)

だ。ただ、それが早いか遅いかの違いしかない。だが、お前は決して、私を置いて逝くな」
 先に亡くなった奥方を思わずにはいられなかった。
「故郷を持たぬお前の故郷に、私はなろう。お前が安心できる場所に、私はなりたい。お前は、何かあれば私の腕の中に逃げ込めば良い。それだけの度量を、私は持ちたい。長期の猟や遠征の際には心細くもあろうが、私の心は、常にお前と共にある事を忘れるな」
 それは、静かではあったが、力強い口調だった。


 北の涯の島までは、順風で五日かかった。
 徐々に空気が肌寒くなって行き、確かに北に向かっているのだと分かった。海は穏やかであったが、青から緑がかった色へと変化していった。
 目印になる物が何もない海上でも、船は躊躇いなく進んだ。喫水も浅く、手を伸ばせば海面に触れられるのではないかと思うくらい舷側の低い軍船(いくさぶね)は、海面を滑るようだった。海狼の船は、集会のどの族長船よりも細長く思われた。およそ十六間半の長さと二間半の幅だという。その舷側には色とりどりの乗組員の楯が据えられていた。入り船の際の儀礼に使われたのか、槍も置かれており、表面上は如何に穏やかに見えようとも、乗組員が戦士である事を物語っていた。
 毎夜のように舵取りに立つ海狼は、朝食時には寝ている事が多かった。なかなか目醒めないので起こして欲しいとエルガドルに言われた。舳先近くで毛皮にくるまって眠る海狼はどこか窮屈そうであったが、その顔は美しいと思った。天幕の外から聞える交替の声から、恐らくは二、三刻しか眠ってはいないようだった。それでも、菫が声を掛けると跳ね起き、エルガドルを苦笑させた。
 全てが目新しく、輝いて見えた。
 男達が遊戯盤を挟んだり、骰子で遊ぶ姿でさえ、集落で眼にしていた光景とは異なって見えた。武器の手入れをしていても、それを怯える事もなかった。
 南風をはらんだ帆は、常に満帆だった。風と波の力で、細長い船体はぎしぎしと軋み、その身を(よじ)った。それが恐ろしいと杏は言った。今にもばらばらになってしまうのではないか。この船の外は、どこまでも深い海だ。もし、船に何かあれば、生きてはいられまい、と。
 だが、菫は同じ音に安らぎを感じていた。
 海神の大きな懐に抱かれているような気がした。それは、怒りは恐ろしくあろうが、優しく包み込むものだった。
 菫は、見渡す限りの波の世界で、この船が迷う事がないのを不思議に思った。星の観測や太陽の位置だけでなく、海鳥や魚の種類によってもそれが分かるのだと聞いても、船旅の記憶のない菫には皆目、理解できなかった。船には海狼のように不思議な器具――星や太陽を観測する為の物だと言い、少し使い方を教わった――を携帯している者が他にもおり、その者達の中でも年長者が舵や帆の操作を指示している事くらいは、分かった。若者は学びの途中にあり、経験と学習とが肝なのだという事だった。
 島影が見えると、海狼は例の白い獣――狼の毛皮を菫の肩に掛け、せり上がった舳先に共に立つよう促した。
 女が自分の島を離れるのは、輿入れか売られる時と決まっていた。それ故に、これは島を外から眺める最初で最後の機会になるだろう。これからの人生を、自分はこの島で送る事になるのだから。
 海狼の妻として。
 それは、大変な重圧だった。海狼の正妻に迎えられる、というのは、最早海狼とは離れ難いと感じていた菫にとり、喜ばしい事だと言わねばならなかった。だが、前の奥方の忘れ形見を育て、海狼の不在の折には、その代理も務めねばならないのは、荷が勝ちすぎていると思った。命令される事に慣れた自分に、それが可能だろうか。また、元奴隷の自分が、如何に海狼の言葉があろうとも、族長の妻となる事を皆はどう思うのだろうか。側女として置いて貰えるだけでも有り難いのに。
 その不安を感じ取ったかのように、海狼は自らの外衣の中に菫を引き入れた。体温が伝わり、その事で菫は少し心が静まった。
 切り立った崖ばかりが見える島に、船を着けるような場所はなさそうだった。だが、近付くにつれ、その崖には幾つもの亀裂がある事が分かった。船は、そこへ向かっていた。
 族長船を先に、両側を崖に挟まれた水路へと進んで行った。帆と帆桁が降ろされた。
 その時、菫は目の隅に、崖の中腹で動くものを捉えた。再び目をやっても、そこには何もなかった。鳥だったのだろうか。
 甲高い音が、空気を切り裂いた。
 それは、峡海を次々に伝わっていくようだった。
「鳥――いえ、人の声、ですか」
 菫は訊ねた。
「そうだ。島の番人でもある女戦士が、私の帰還を伝えているのだ。歓迎の歌、だな」
「女戦士――」
 そのような存在を、初めて知った。あの島には女の戦士はいなかった。荒事は、男の領域だった。
 菫は断崖を見回したが、そこに人の姿を認める事は出来なかった。
「女戦士達は、優れた水先案内人でもある。集会の際には、他部族の船を無事に導くのが役目だ。また、今までそのような事例はないが、敵意を持ってこの島に近付く者を惑わせ、沈めるのも役目の内だ。遠征の際には部族を守る。員数の多い他の部族には存在しない者達だ」
 何でもない事のように海狼は言った。
「当然、武器の扱いにも慣れている。並の男では勝てまい。男と同じ格好をしているので、実際に会えば、女と言うよりは少年に見えるだろう。咄嗟の場合には区別はつかんだろうな。兜に付けた

の翼が、目印だ。私や部族に忠実なのは唯論の事、女戦士の忠誠は族長の妻と女達にある」
 水路は狭くなって行き、岩礁も危険な程に近かった。
「心配する事はない」
 そう言って、海狼は先を示した。「あの隘路(あいろ)を抜ければ、到着だ」
 船長の、櫂を仕舞えの掛け声に、がたがたと大きな音がした。
 舷側がぶつかるのではないかと思うような、ひときわ狭い水路を、舵取りは難なく船を進めた。
 ぶわっと風が吹き通り、海狼の厚い外衣をはためかせた。一瞬、その風の勢いに顔を背けた菫だったが、視線を戻して息を呑んだ。
 そこには、想像もしなかった大きな空間が広がっていた。
 族長集会の全船が入っても猶、充分な奥行きがあった。そこには小船が何艘も浮かんでいた。
 素早く近付いてきた二艘の小船から太い綱が投げられ、乗組員がそれを舳先に括り付けた。その間も、海狼は微動だにしなかった。その小船――曳航船、というのだと海狼は言った――に引かれる格好で、船は行き止まりにぽっかりと口を開けた洞窟へと向かった。気付けば、帆柱も倒されていた。
 ゆっくりと、船は洞窟の中へと進んで行った。
 中は、恐らく鯨油であろう、非常に明るく煙も臭いもない火が灯されており、大勢の人がいた。
「女戦士の先触れを聞いて、集まったのだな」
 人々が自分を見ている事に気付き、菫は思わず海狼の胴着の胸を摑んだ。脚が、震えた。
 先に小船の漕ぎ手達が水際で降り、舳先の綱を引いた。様々な年齢の者がいた。少年と言っても良いくらいの年頃の者や老いた者もいた。身なりも良い上に、その表情は明るく、嬉々として力仕事をこなしているようで、とても奴隷とは思えなかった。
 海狼の言ったように、やはり、あの島の奴隷扱いは特に酷かったのだろうか。
 族長船の横に、積荷船も引き上げられようとしていた。
 船体の半分が浜に上がると、下船の為の板が渡された。
「お前がいるから、気を遣ったようだな」
 その言葉に、身体が震えた。だが、海狼は平然として菫を渡し板に抱き下ろすとその手を取り、(おか)へと導いた。
 久し振りの地面に眩暈を覚えた。少し足許がふらついた。
(おか)酔いだな。お前はやはり、海神の民だな」
 海狼が微かに笑って言った。菫は赤くなった。船では、他の二人とは違って平気だったのに。
「兄上」
 小船に乗っていた若い男の一人が、駆け寄って来た。金色の髪を後ろで束ねており、目の青も少し淡かった。だが、どことはなしに海狼に通ずるものがその顔にはあった。この若者も左に長剣と小太刀を佩いていた。髭は顎のみで、その点では海狼よりも表情が良く見て取れた。
「兄上、お帰りなさいませ。御苦労様でした」
 と、菫に目を留めて戸惑ったように言った。「その御方は…」
「私の妻になる女性だ。名代、御苦労だった」
 海狼を兄、と呼んだ若者は、少し愕いた様子を見せながらも菫に向き直った。胸に手を当て、(こうべ)を垂れると海狼よりも高く涼しい声で言った。
「ベルクリフが弟、エルドと申します」
「儀式は支度が整い次第に、最も近い日に行おうと思っている」
「して、御名(みな)は何と仰言るのでしょうか」
 不意を突かれて、海狼と菫は顔を見合わせた。そう言えば、名乗った憶えはなかった。二人の間に、今まで名前は必要なかったのだ。
 海狼が口を開く前に、一人の娘が子供を連れて走り寄って来た。
(にい)さま」その娘は弾んだ声でそう言うや、海狼の首に齧り付いた。「お帰りなさいませ。お待ちしておりましたわ」
「ああ」
 海狼は娘を離すと、菫を見た。
「早くに亡くなった叔父夫妻の娘で、幼い頃から妹のように育ったソエルだ。ソエル、私の妻になる女性だ」
 ソエル、と呼ばれた娘は、強い眼差しで菫を見た。兄弟と同じ金色の髪に青い目の、美しい娘だった。もしかしたら、この従妹の娘は海狼の事を異性として好きなのではないかと思う程に、その目は厳しかった。だが、ソエルは礼儀正しく軽く膝を沈めた。
「さあ、イルガス、ご挨拶を」
 菫には一言もなく、ソエルは金髪の幼い少年をぐいと海狼の前に押し出した。
「おつとめ、ご苦労さまでした、父上」
 少年は小さな声で言った。
 海狼はそれに鷹揚に頷いて見せた。
「お前の母上になられる方だ、イルガス」海狼は言った。「御挨拶申し上げるのだ」
 イルガスと呼ばれた少年の目が、見開かれた。青い目で少年は菫を見た。だが、直ぐに、無言でソエルの後ろに隠れた。どうして良いのか分からず、菫は微笑みを浮かべるしかなかった。
 その子が海狼の幼い頃に似ているのか、それとも亡くなった奥方に似ているのか、菫には分からなかった。
 四人はそれぞれに似通った容貌をしており、血縁関係があることは明白だった。だが、誰一人として海狼の輝かしさには及ばないと菫は思った。
 やはり、族長は特別な存在なのか、それとも、自分の目にそう見えるだけなのかは、分からなかった。
「イルガスさま」年配の女性が走り出てきて、少年を自分の方に引き寄せた。そして、海狼に向かって頭を垂れた。「お帰りなさいませ、族長」
 海狼は頷いた。
「イルガスの母親になられる方だ」女はようやく、菫の存在に気付いたかのように顔を向けた。「息子の世話を任せているマイアだ」
 マイアは、どこか憐れむような目で菫を見た。
「マイアと申します、奥方さま」
「まだ奥方ではないわ」ソエルが口を挟んだ。「それに、あなたはこの子を甘やかしすぎだわ。きちんと挨拶も出来ないなんて、兄さまの恥よ」 
 怯えたようにマイアは海狼を見たが、海狼よりもは関心なさそうに肩を竦め、後方を見やった。エルガドルに手を取られて、すぐりが下船するところだった。
「さて、私にはまだやらねばならぬ事がある。ソエル、客人達を部屋に案内してくれると助かるのだが」

 
 地上への道は長かった。灯りが点されているとは言え、自然に出来た段差と人の手による物とが混在している為に幅や高さが一定ではなく、歩き難かった。傾斜が緩やかだったのが幸いだった。足許ばかりを見ていたせいか、ようやく外に出られた時には眩しい光が目に痛かった。
「族長の館はそこよ」
 ソエルは、出口から程近い灌木に囲まれた長屋を示した。屋根には青々とした草が生えており、外観はあの島の族長の館と変わらなかった。重厚な扉の前までは石が敷かれている所も同じだった。
「住んでいるのは、兄さまとイルガス、エルドとわたし、マイアに独り身の使用人達ね」
 ソエルが扉を開けると、直ぐにもう一つの扉があった。その空間は狭く、石が敷き詰められていた。このような様式の建物は初めてだった。壁の厚みだけの空間のようだった。そこを開けると今度は余り生活感のない広い内部が眼に入った。恐らく、集会の際に使用される大広間なのだろう。奥の一角には高座が設けられていた。
「さ、入って。今のところ、あなたは婚礼の儀を済ませていないから、客間ね。他の二人にはあなたの向かいの二部屋を使ってもらうわ」
 ソエルに従って、菫は館に足を踏み入れた。
「右が一族と使用人の住まい、厨房になっているわ。客間は滅多に使わないのだけれど、左よ」左奥の扉の前に、ソエルは帯に下げた鍵を探った。族長家の唯一人の女性として、女主人の役割を担っているのだ。「集会の時くらいにしか使わないのだけど、手入れは毎日しているから心配はないわ」
 扉が開けられると、微かに薬草の香りがした。
「二人はあなたの付き添いと聞いたけれど、三日間は慣例通り、客人(まろうど)としていてもらって、その後、使用人部屋へ移ってもらうわ」
「この二人は、わたくしの友人です。使用人ではありません」
「それなら、兄さまに話してちょうだい」関心なさそうにソエルは言った。「わたしはただ、案内を頼まれたに過ぎないのだし」
 それでも、菫はもう一度、思い切って言った。
「赤毛の人を、できるだけ早く、女性の療法師に診せていただきたいのですが」
「いいわ、案内が終わったら、すぐに部屋に行かせるわ」
 何でもない事のように、ソエルは言った。そして、すたすたと歩いて行くと、奥の二部屋を指した。廊下の突き当たりにある扉は、外へと通じており、集会の際に族長達が泉水や湯殿を使う為の扉だとソエルは言った。
「こちらが二人。どちらにするかは適当に決めてちょうだい。必要な物は一応、そろってはいるわ。でも、潮臭さを取るためにも、まずは湯を使った方がいいでしょうね。着替えもすぐに持ってこさせるわ」
 あなたはこっち――と向かいの部屋をソエルは開けた。イルゴールの館で海狼が使っていた部屋より広かった。
「まったく、兄さまは勝手で急なんだから」
 背後で扉を閉じるや、ソエルは言った。独白めいていたが、菫に向けられた言葉であるのは明白だった。
「まさか、あなた、本当は無理矢理つれてこられた、なんてことはないでしょうね」
 勢い込んで言うソエルに、菫はたじろいだ。そうだ、という返事を期待しているのだとしても、自分の心に嘘をつく事は出来なかった。それは、海狼に対する裏切りだった。
「そのようなことは、ございません。むしろ――」と菫は言った。「むしろ、助けていただきました。わたくしのような者で…」
「あなたって、いらいらする」
 ソエルは菫の言葉を遮った。「そういうところ、前のお義姉(ねえ)さまにそっくりだわ。はっきりしないし、何を考えているのか、わかりやしない。あの兄さまが同じような女性(ひと)を選ぶとは思えないのだけど」
 本当は、違うのでしょう。
 そう言って、ソエルは菫の顔を覗き込んだ。じっと見つめる青い目は海狼と同じ色で、心の中まで見透かされるようだった。
「わたくしは」菫は言った。「わたくしは、前の奥方さまではありませんし、その代わりになれるとも思ってはおりません」
「ならなくて、いいわよ」あっさりとソエルは言った。「それに、わたしに遠慮は無用よ。そんな丁寧な話し方をされるのは好きじゃないの。特に、あなたが自分で前のお義姉さまと違う、と言うならなおさらね」
 ソエルは菫から視線を外した。
「亡くなった人のことをあれこれ言うのはよくない、と言われるでしょうけど、あの人は弱すぎたのよ、何もかも。だから、兄さまも捨てておけなかったのでしょうけれど、海狼の長子のイルガスには強くあってほしいものだわ。マイアは本当はお義姉さまの乳母だったから、甘やかしすぎて弱い男に育ててしまうんじゃないかしらね」
 弱い人間に、族長は務まらない。
 それは菫にも分かった。戦士を率いるのには、それなりの強さや厳しさが必要だ。そうでなければ統率が取れず、この北海で部族を守る事は出来まい。ましてや、他の部族長と対等に渡り合うなど、論外だ。あの子の年齢から思うに、イルゴールの息子達と対峙せねばならないだろう。
「あなたがあの子の母親になるのだったら、マイアから引き離すのは大変でしょうね。なにしろ、マイアの大切なお嬢さま、の忘れ形見ですもの」
 でも――とソエルは続けた。
「でも、あなたに子が産まれたら、イルガスは用済みでしょ」
「そんな――」
 菫は絶句した。どうしたら、自分の身内をそのように言えるのだろうか。
「だって、誰だって、自分の子は可愛いものでしょう。族長を継ぐ機会があれば、母親は最大限に利用するものじゃなくて。とくに、あなたは海神の娘の目をしているのだし、他の人だって、頼りがいのない族長は選びはしないわ」
 菫はソエルを凝視した。何故、共に暮らして来た自分の甥に対してそれ程までに意地悪な事が言えるのか。
「イルガスさまは、まだ五歳でいらっしゃいます。これから、どのように成長なさるか、誰にもわかりませんわ。それに、わたくしに子が授かりましょうとも、ベルクリフさまのご長子を差し置くなど、もっての他のことと存じます」
 ソエルは一瞬、大きく眼を見開いた。そして、くすくすと笑った。
「ほら、やっぱり、あなたは違うじゃない。はっきりと物が言えるし、自分の意見を持っている」ソエルは面白そうに言った。「そうね、確かにあなたは亡くなったお義姉さまとは違うわ。他の誰とも、違っているみたいね。でも、あのマイアは手強いわよ。あなたのこと、誤解しなきゃいいけど。普通はわたしの言ったように、自分の子を族長にしたいでしょうからね。特に、ここでは実力のある者が、その地位に就くのよ。充分に、あなたの子にも機会はあるのだから」
 ともかく、湯殿の支度をさせるわ。
 そう言って、ソエルは部屋を出て行った。
 緊張の糸が切れて、菫は床に座り込んだ。
 奴隷の生活は過酷だった。生き残る事だけを、考えて来た。だが、自由を手に入れても、違った意味で過酷なのかもしれない。


 使用人達は皆、明るい顔をしていた。年配の女性が監視している為か、口数は多くはなかったが、イルゴールの館の下女より上等なお仕着せではない衣服を身に着け、靴も履いていた。待遇も違うのか血色も良く、目を見合わせては笑いを堪えている様子から、普段は陽気であろう事まで容易に見て取れた。イルゴールの館の者達は、一様に厳しい顔をしていたというのに、何という違いであろうかと思わずにはいられなかった。
 着替えに用意されたのは、色や模様は地味であったが、生地はかなりの上物で菫は愕いた。
「本日は族長船の帰還とお披露目ということで、夕食時に他の方々も同席されますので、その際にはお召し替えをしていただきます。衣装は族長より言い付かってはおりますが、なにぶん、そこは殿方のなさること、特に、族長のことでございますから、お気に召さない場合には、どうぞご遠慮なく、おっしゃってくださいませ」
 監視役のような女性が言った。
「わたくしは使用人頭のミルドでございます。ご用の向きは、何なりとお申し付けください」
 仕事に対する矜持すら感じさせるその言葉は、菫の方が気後れしてしまう程だった。
 ミルドが一礼して出て行くと、海狼の長櫃に入っていた女物のあれこれを片付けていた娘達が笑いを漏らした。
「愕かれまして」菫の髪を梳っている娘が言った。「でも、ミルドに任せておけば、心配はいりませんわ。新しい奥方さまになられる方がいらした、というので張り切っておりますもの。それに、あの族長ですもの、ミルドの信用はありませんわ」
 楽しげに娘達は笑った。
 このような世界の涯の地であっても、ここに住まう人々は幸せなのだろうと菫は思った。それにしても、海狼はどのように思われているのだろうか。娘達にまで笑われるとは。
「なんて見事なお(ぐし)なのでしょう」
 溜息をつくように娘は言った。菫の髪は、他の人々よりも薄い金色をしていたが、それを称えたのは海狼しかいなかった。北海の人々は、黄金色の髪を好むのだ。
「紫の目をしていらっしゃるなんて、まるで海神の娘のようです。近いうちに、族長に採石場へ連れて行ってくださるよう、お願いなさるとよろしいですわ。きっと、愕かれます」
 ここでも、海神の娘、という言葉が出た。
 紫の石。族長の護り石でもあるという、この島の石。
 何か胸にわだかまるものがあったが、その正体を見極める事は出来なかった。


 夕食の為に海狼が用意してくれた緋色の長着は、特別に別の包みに入っていた。それは、節はあったが光沢のある不思議な布で出来ていた。そして、自分でも愕く程にその色は菫に似合っていた。厳しい事を言っていたミルドも、海狼の選択を認めた。髪は普段と同じく三つ編みであったが、長着と同じ色と素材の紐を編み込まれた。胸には、とりどりの飾り玉を数連に繋げた銀の飾り留め。
 ミルドに案内されたのは大広間だった。
 先程とは異なり、卓子や長椅子が並べられていた。既に多くの男女が座して談笑しており、菫は愕いた。男達の殆どが、族長船や積荷船の乗組員だった。女達はその家族なのだろう。高座の下の卓には、海狼やエルド、ソエルと共に杏とすぐり、そしてエルガドルと四人の年嵩の男達がいた。
 長毛の小型の犬があちらこちらをうろついてた。イルゴールの館で飼われていた大きな気性の荒い犬を思い出して恐怖が湧き起こったが、犬は菫が通りかかっても匂いを嗅ぐばかりであった。
 皆の目が、自分に注がれている事に気付き、脚が震えた。
 ようやくの事で辿り着いた卓の真ん中には海狼が座し、菫はその左の席を示された。横はソエルだった。
 菫が側に行くと、海狼は立ち上がってその手を取った。
 大広間が、静まった。
「集会の帰途にて神聖なる誓いを為した。一族の新たな女主人となる女性だ」
 注目を浴びて、菫の心臓は破裂しそうだった。
「皆に名乗るが良い」
 海狼の言葉に菫は、もう十五年余も口にしていなかった本当の名を、震える声で口にした。
「リィル・エプ・ヨーレン、と申します」
 海狼の右に座していたエルドが杯を手にして立ち上がり、他の者達もそれに倣った。
「では、我等の族長、海狼ベルクリフとリィル殿との神聖なる誓いを祝して」
 静かにエルドは杯を掲げ、乾杯の仕種のみであおった。他の者達も杯を海狼と菫――リィルに向かって掲げ、歓声を上げてあおった。
 海狼は笑みを浮かべて皆に頷き、杯を掲げた。
 二人が席に着くと皆も座り、ざわめきが戻った。
「時に、そちらのお二人は、何と仰言るのでしょうか」
 エルドが言った。
「まったく、美人には眼がないのだから」ソエルが呆れたように言った。「でも、わたしも知りたいわ」
 先に答えたのは杏だった。
「サリアと申します」
 すぐりは「ローアンです」と短く言った。
 初めて、三人は互いの本当の名を知ったのだ。名さえも奪われていた年月の、何と長かった事かと、リィルは涙しそうになった。
「サリア殿にローアン殿」エルドが繰り返した。「お二人とも、実にお美しい。それに、良い名をお持ちだ」
 そうは言いながらも、エルドの眼はすぐり――ローアンから動かなかった。
「女性をそんな風にじろじろと見るのは失礼よ」
 ソエルが嗜めるように言った。ローアンの包帯で隠された右眼を気にしていると思ったのだろう。
「二人はリィルの友人として、ここに来られた。そのつもりでいるように」
 海狼が言った。初めてその口から発せられる自分の名に、リィルは不思議な感覚を覚えた。
「では、三日はこの館にいらっしゃるのですね」エルドは明るく笑った。「それは、楽しみだ」
「今後の意向を訊く必要もあるしな」
 飽くまでも、海狼の言葉は静かだった。
 やがて、食事が運ばれて来た。麵麭と(あつもの)の大鉢、そして、焼いた鳥だった。それと同時に匙と、リィル達には食事用の小刀も運ばれた。男達は剣帯の後ろに携えていた短剣を、ソエルは腰帯に下げた小物入れから自分の小刀を取り出した。
 男達の杯には蜜酒が満たされた。女達の杯にも同じようになみなみと酒が注がれる。エルガドルは島の女達は水で薄めた蜜酒を好むと言ったような気がしたが、それは、本当の事であったのだろうかとリィルは思った。
 賑やかに、しかし穏やかに宴は進んだ。作法などは全く分からなかったが、人々の仕種を真似る事で、何とか凌いだ。
「それにしても、まさかベルクリフ殿が神聖な誓いを為されるとは」
 男達の一人が言った。
「見ものでしたぞ」エルドの横に座すエルガドルが麵麭の籠をリィルに手渡し、にやりと笑って言った。「完璧で」
「まあ、父君に較べれば、誰もが上出来でしょうな」髭も髪もすっかり白くなった男が笑いながら言った。「私などは鯱殺しソヴァルタ殿が誓いを立てられた場に立ち会いましたが、あれは、酷かった」
「それは初耳ですな」誰かが言う。「是非とも、お聞かせ戴きたい、ウルド老」
 皆がちらりと海狼を見たが、肩を竦めただけだった。
「その話は母から何度も聞かされましたが、別に隠すような事でもなし」
 興味津々、と言った様子でエルドは身を乗り出した。
「何です、その、あれ、というのは」
「作法も何も、あったものでは御座いませんでした」ウルド老は言った。「甲板(こうはん)に皆を集められたまでは良かったが、貴殿らの母君の靴に唇付けるなり、いきなり、私の嫁になれ、ならねば飛び込む、と言われてな。こちらも愕いたが、母君はもっと愕かれただろう。いきなり舷側に足を掛けられたのだから」
「それで母上は」
「慌ててソヴァルタ殿の外衣を引っ張られた。そして、なります、なりますから、どうぞお鎮まり下さい、と仰言った――のだが、途端に留め具が外れて、そのまま海へ…」
 男達もソエルも笑った。海狼でさえ、杯を運んだ口元がほころんでいるようだった。
「余りの情けなさに、誰も語りませんな。あんな滑稽な求婚の儀は、後にも先にも見聞きした憶えがありません。海から引っ張り上げるのもひと苦労でしたが、当の御本人は、島まででも泳いで行けると豪語される始末で」
「余程、喜ばれたと見える」
 誰かが杯を掲げて笑った。
「脅迫めいたことをなさるから、報いよね。伯父さまらしいといえば、そうなのだけど」
 笑い涙を拭いながらソエルが言った。
「ああ――」エルドは卓に突っ伏した。「我が父上ながら、恥ずかしい。絶対に、作法を憶えてはおられなかったんだ。それとも、母上を前に全てがすっ飛んでしまわれたのか。兄上が、私にお話しにならなかったのも道理ですな」
「だが、母上は父上のそういう、飾らぬ所に、御心を寄せておられた」
「――我等の両親は、変わり者だったのでしょうか」
 海狼の言葉も、エルドの慰めにはならぬ様子だった。
「わたしだったら、正式にして欲しいわ」そう言うと、ソエルはリィルの顔を見た。「海での神聖な誓いは島の娘の憧れよ。兄さまの誓いには、感動したのではなくて」
 どう答えて良いのか迷っていると、海狼が口を挟んだ。
「私の事はどうでも良い。無事に済んだのだからな」
「あら、照れていらっしゃるの」明るくソエルは笑った。「少し、赤くなっていらっしゃるのではなくて」
「お前こそ、そんな事はあるまいが、()の蜜酒で酔ったのか」海狼は言った。「ああいった儀式は

で充分だ」
「――ああ」
 エルガドルが表情を雲らせて低い声で唸ったのが、リィルには聞こえた。だが、他の誰もその事には気付いてはいないようだった。
「問題は、エルドが伯父さまの二の舞にならない事を祈るばかりね」
「いかに私が父上に性格が似ているとは言え、そこまで言う事はないだろうに」揶揄うようなソエルに、エルドが憮然とした様子だった。「兄上とて、父上の血からは逃れようもない」
 どういう事なのか、と言いたげに一同はエルドに目を向けた。
「私が何をしたと」
「誤魔化そうと為さろうとしている事は、分かっております、兄上」平然とした顔でエルドは言った。「先程は巧くいなされてしまいましたが、御帰還の折、義姉上になられる方の御名を御伺い致しましたら、咄嗟に御答え戴けませんでしたが、御存知なかったのではないでしょうか」
 無言で海狼は杯をあおった。そして、渋々といった様子で「まあな」と認めた。
「成程、確かにそれは父君の方だな」ウルド老が笑った。「祖父君の賢人エリフ殿に実に良く似て、幼い頃より大人びて利発な方だと思っておりましたが、やはり、親子ですな。花嫁御寮を(かどわか)して来られたのでなければ、問題はありますまいが」
 老人はリィルを見て杯を上げた。
「ご心配には及びませんわ。わたくしには係累はおりませんので」
 苦い思いで、表面上は微笑んで、そう言った。そう、自分は戦士に連れられてこの北海にやって来たのだ。それなのに、七部族の族長の妻になろうとしている。
「係累を持たぬのは、この島では別に珍しい事ではない」
 杯に蜜酒を満たさせながら、リィルの心を察したかのように海狼は言った。
「左様、私の父もそうでありました」ウルド老があっさりと言った。「お気になさいますな。愛娘に岡惚れした男が掻っ攫って行ったと、親父殿が追い駆けて来やしなければ、良いのですから」
「それ程、私は信用のない男ですか。そのような

は致しませんぞ」
 海狼は苦笑を浮かべた。
「いや、今の話からしますと、後先考えずに連れて来なすったのかと思いましてな」老人は言った。「祖父君の賢明さと洞察力、母君の思慮深さと包容力。それに父君のどこか抜けた愛すべき点が加われば、これは最早、恐い物なしと言えるのではないですかな」
「せめて、無頓着さは直して戴きたい」
 エルガドルがぽつりと言い、一同は笑った。
「兄上とても、唯の人、という事ですかね」
「あら、それでも兄さまは特別よ」ソエルが言った。「だって、族長なのですもの」
「成程、その意味ではそうだ。兄上、助かりましたな」
「でも、あなたは――ね」
 ソエルの言葉に、卓は再び笑いに包まれた。海狼も杯の陰で笑っているのが見えた。
「心外だなあ」
 エルドも苦笑した。
 昏い北の海に住むとは思えぬくらい、よく笑う人々だった。その中で若くはあろうと海狼には独特の落ち着きがあった。それが生来の物なのか、族長として身につけた物なのかは分からなかった。だが、リィルにとっては好ましい、頼れる存在であった。
「だが、ソエルもお年頃なのだから、もう少し娘らしく出来ないものかね」
 エルドが犬に肉を分けてやりながら言った。「帯もまともに織れないようでは、嫁の貰い手も困るだろう。集会へ行く兄上に押し付けていたが、あのようにほつれまくった物では、却って御迷惑だったのではありませんか」
 使い込まれていると思った飾り帯は、ソエルが新しく織った物だったのだ。
「不器用で悪かったわね。わたしは一族の女としての役目を果たしただけだわ。文句があるなら、自分でやってごらんなさいな。機織りがどれだけ苦痛か、わかるってもんだわ」
 確かに、活動的なソエルにとり、長時間、機を織るのは苦痛かもしれない。人にはそれぞれ向き不向きがあるものだ。すぐり――ローアンが五年も機を織りながらも、結局は無地しか織れなかったように。
「止めないか」海狼が呆れたように言った。「子供の喧嘩だな、全く。いつまで経っても、お前達は変わらん」
 と、リィルを見やった。
「リィルはイルゴール殿でさえ手放したがらなかった素晴らしい織り手だ。ソエル、お前にその気があるなら、手ほどきを受けてみると良い。まあ、機織りが出来なくとも、貰ってくれる男はいるだろうが」
 ソエルの顔が赤くなった。エルドは声をたてて笑い、男達も忍び笑いを漏らした。エルガドルは眉を顰めている。
「御心のままに」
 肩を竦めてソエルは言った。そして、皿の残りを床に空けた。小さな犬が、我先に食べに来る。
「鶏の骨は駄目だろうが」
 エルドが慌てて言い、使用人もさっさと骨を拾い始めた。
「お前は直ぐに顔と態度に出る」海狼がたしなめた。「正直なのは悪い事ではないが、お前はもう少し、自分を律する事を覚えた方が良いだろう」
 それ以上は何事もなく、食事は終わった。リィルが今まで口にした事のない素晴らしい食事だった。残り物を与えられ、犬達も満足げに寝そべっている。
 男達に見送られて、ソエルと共にリィル達は大広間を後にした。この後は男達の時間だった。
「よそではどうだか知らないけれど、わたしたちは大抵、食事は家族と摂るわ。今日のような集会や遠征の帰還の時や、祝祭の時には大広間に人が集まるけれどね。イルガスは幼いから、夕餉は早くに済ませるの。今日は疲れたでしょうから、明日の朝は起きたら部屋に運ばせるわ」
 三人を部屋へと送って行き、サリアとローアンが扉の向こうに消えるのを確認すると、ソエルはリィルの部屋に共に入って来た。
「あなたには、特別に忠告」ソエルは扉を示した。「閂があるから、よかったら使って。兄さまはそこまで節操のない人じゃないと思うけど、しきたりとして、婚姻までは

をつけてもらわないとね」
 顔に血が上るのが分かった。これまでの二人の経緯(いきさつ)を、ソエルは知っているのだろうか。
「あなたが純潔だろうとなかろうと、気にする人はいないわ。でも、婚約の儀から婚礼までは、共寝は禁止ではないとは言っても、これは慣習だから。兄さまを信用しているなら必要ないし。兄さまは族長だから、そういった事は大切になさるでしょう。でも、こと、女に関しては男は信用ならない生き物だとも言うしね」
 着替えに誰か呼ぶといいわ。あなたも、奥方としての品格を持ってもらわなくてはいけないし。
 それだけを言うと、ソエルは出て行った。
 その言葉の通りに、誰かを呼ぶ気にはなれなかった。疲れていたせいもあるだろう。上等な布の夜着に着替えると、掛け布代わりに毛皮の敷かれた寝床に潜り込んだ。
 一日に、多くの事が起こりすぎた。気持ちが昂ぶって、容易に眠れそうになかった。
 切れ切れに、今日の出来事が浮かんでは消えた。
 船旅の間に顔見知りになった戦士達。女戦士。狭い水路。大きな湾。エルド、ソエル、イルガス、マイア…サリアとローアン。部族の人々との宴。様々な言葉の切れ端。
 他愛もない会話の中に、何か、とても重大な言葉が口にされていたような気もした。しかし、それは、はっきりと思い出そうとしても、するすると記憶の中から滑り落ちて行く。
 そうだ、ローアンは船でも毎晩、うなされていた。一人で大丈夫なのだろうか。船でなら、ずっと抱き締めていてあげられたものが、ここでは一人きりだ。
 そのような事を思いながら、リィルは徐々に眠りに(いざな)われて行った――と、廊下の靴音に、眠りが妨げられた。
 ゆっくりとした、重い音――女性ではない。リィルの脳裏に、あの島で海狼を待っていた時の事が甦った。
 それは、リィルの部屋の前で止まった。
 まるで、様子を伺っているようだった。
 ソエルの言葉が、胸をよぎった。閂は、掛けていない。
 だが、その足音は暫くすると、遠ざかって行った。
 海狼なのかもしれない。見回りの使用人なのかも、しれない。
 リィルはそう思いながらも、今度は深い眠りに引きずり込まれて行った。


 三日の間に、サリアとローアンはこれからの道を決めたようだった。
 ローアンは女療法師と相談し、その道に進みたいと言った。
 サリアはリィルの側にいたいと言う。
 それぞれの選択に応じて、ローアンは療法師の館に住まい、サリアは新たに族長の館に使用人として部屋を与えられる事になった。それを聞いたリィルは、書物に溢れた部屋で海狼と話した。
「サリアの身分は、どうなるのでしょうか」
「大丈夫だ、心配には及ばない」
 安楽椅子にゆったりと腰掛け、海狼は微かに表情を曇らせて言った。やはり、この人のサリアを自分の側に置いておきたくない、という気持ちに変わりはないのだろう。そう、リィルは思った。
「でも、使用人というのは――」
 奴隷ではないのか。
 その言葉を、リィルは呑み込んだ。
 海狼が傍らを示したので、リィルは安楽椅子の脇に座した。床に敷かれた毛足の長い毛皮が、木の床の冷たさを遮ってくれた。
「安心するが良い」
 リィルの手を取り、海狼は言った。「


「え」
 リィルは愕いて声を発した。聞き間違いではないかと思った。だが、確かに、首に鎖を着けられている者を目にした事はなかった。
「この島にいるのは、全て自由人だ。前身が奴隷であろうが、罪人であろうが、この部族に加わり、族長への忠誠と法に順ずる事を誓った者は全て、自由を与えられる。それが、この島の法だ」
 何事でもないように海狼は言った。
「父が母を見染めたのも、奴隷船だった。母は多くの者達と共に暗い船倉に押し込められ、交易島で買われてどこかへ連れて行かれる途中であったらしい。そこを、父の船が襲って来たという」
 海狼の目が、細められた。「どのような運命が待ち構えているのかと、皆で震えていたらしい。北海の者に捕まれば、男は死ぬまで働かされ、女は陵辱されるのだという事が、中つ海の奴隷の間では言われていたらしい。あながち間違いではないのだが、そこへ現れたのが、父だった。金の髪も服も朱に染め、まだ血の滴る抜き身の剣を両手に引っ提げていたという。ひと渡り見回すと、真っ直ぐに母の許へ行き、跪いて、私の嫁になれ、と言ったそうだ。寝物語に、何度も聞いた。そして、立ち上がるや、船倉で怯えていた奴隷達に、島へ来て自分に忠誠を誓い、法を遵守するならば、全員が自由人になれるのだと告げたという。だが、奴隷船の乗組員は皆殺しが信条だ。この島の誰もが、その身に奴隷の血が流れているのだからな、当然だろう。それを恥じる者もいない。ウルド老の父親も、かつてそのようにして仲間に加わった一人だ。ミルドも、若い頃にここに来た」
「では、わたくしも、サリアもローアンも、自由の身なのですね」
 信じられない気持ちで、リィルは言った。
「船上で鎖を砕いた時に、気付いて貰いたかったが」
 海狼は苦笑いを浮かべ、リィルは思い至らなかった自分を恥じて目を伏せた。
「あの赤毛の娘は、そのうち療法師として生活の道(たつき)を自ら切り開いて行くだろう。いい男に(めあわ)せられるかもしれん。あのような目に遭ってさえ、自分の足で生きて行こうとする女は、ここでは男好きがするものだ。失った目の事を気にするような了見の狭い男は、あの娘には似合わんな。いずれ心の傷が癒えれば幸せにもなろう。或いは、それを癒すような者が現れるのも、遠い事ではないかもしれん」
 リィルは安堵の溜息を漏らした。この三日で、ローアンは精気を取り戻しつつあった。まだ、それは弱いものではあったが、自由を手に入れたのならば、更に生きる力を得よう。幸福を手にする機会が失われてはいない、という事も、リィルを安心させた。
 サリアも、幸せになれるだろう。
「だが、もう一人は」リィルの喜びに水を差すように海狼は言った。「だが、もう一人はどうかな。あの娘は貪欲で、血の臭いがする」
「誰しも、幸せには貪欲になるものです。あのような生活の後で、それを責める事はできないと思いますが」
「そうだな」
 海狼は微笑み、リィルの手を強く握った。
「だが心するが良い。肥沃な大地にも毒草は生える。荒地にも美しい花は咲く。唯論、量を間違えなければ、毒も薬となり、薬草とても一つ間違えれば毒となる。それは人も同じだ。あの娘が毒草なのか薬草なのか、それはあの娘次第だ。我々は、そうならぬような環境を与える事が出来るに過ぎない。結局は、薬になれずに刈り取られた者も、少なからずいるのだからな」
 一つ、海狼は大きな溜息を()いた。
「我々の祖先は、逃亡奴隷とも、今は亡き王国の末裔であるとも言われている。敵を避ける為に、このような最涯の地に住まうのだ、と。ここでは夏は短い。冬には陽の差さぬ日も多く、海も凍て付き、島から出る事もままならぬ。また、吹き渡る風は木々を成長させない。余程の事情がない限り、このような場所に居を構えようとは思わぬだろう」
 祖父のエリフもそうだったように、私も、その理由が知りたい。
 海狼は言った。
「別にこの島より離れたい訳ではない。海神の恵みのお陰で、魚は豊富に獲れる。黒麦や燕麦の栽培も、細々ながら出来る。小型ながらも、良質な毛を持つ羊もいる。牧羊犬も馬も小さいが、(さか)しい。潅木からは果実も収穫できる。蜂は滋養のある蜜をもたらしてくれる。冬を越すには充分ではないが、それでも、肥え太った船を襲撃すれば生きては行ける。だが、我々は何処から来たのか、北海の他の部族と異なる事が多いのは何故なのか、私は、それが知りたいと思う」
 この人の知識欲は、そこから来ているのだと、リィルは思った。
 自分が辛い現実を忘れる為に写本に没頭したのと、何と異なっているのだろうかと、思わずにはいられなかった。


「さて、客人(まろうど)扱いは済んだのだから、今日からは族長の奥方として恥ずかしくないように、仕事を徹底的に叩き込まなくてはね」
 意地悪く笑って、ソエルは言った。
 この日、リィル達三人は、エルドとエルガドル、そして長老達の立会いの下に海狼の長剣に唇付け、族長への忠誠とこの島の法に準ずる事を誓ったばかりだった。
「前のお義姉さまは、本当に何もできない方だったから、全部、わたしがしなくてはならなかったのよ。ようやく解放されるのかと思うと、ほんと、いい気分よね」
 その口調は、うきうきとしたものに変わった。
「本当に、わたしはこんな仕事は嫌だったのよ。でも、仕方がなかったの。伯母さまは早くに亡くなって、わたしの両親も流行り病であっという間に亡くなったわ。兄さまが結婚なさるまでは伯父さまと兄さまで何とかなさっていたのだけれど、それでも手一杯だった上に、お義姉さまがいらした事で館の雑事も増えて、わたしが引き継ぐしかなかったのよ。嫌いも何も、あったものじゃなかったわ。だから、解放されて何よりだわ」
 無数の仕切りの付いた棚一杯、羊皮紙が重ねられている部屋だった。族長の仕事の全てがここに収められているという事であったが、海狼は今、留守中の出来事の報告を大広間で受けていた。書き物机の上には、必要な物が一式、揃っていた。ここは、片付いていた。
 棚に向かって両腕を広げ、リィルに背を向けたまま、ソエルは話を続けた。この三日の間に、ソエルと顔を合わせて行く内に、リィルはこの、自分よりも少しばかり年下の娘が、裏表なく自分に接してくれている事が分かった。そして、その事に好意を(いだ)きつつあった。どことはなしに、ローアンを思わせたからでもあった。
「憶えることも、やることも多いわ」
 覚悟なさい、とソエルは言った。「仕事は、主に女子供に関わる事だわ。でも、兄さまがいらっしゃる時には、面倒なことは全部、任せてしまえばいいわ。忙しいのは、集会と遠征にいらっしゃる時かしらね。その時には、全部がこちらに回って来るのですもの。でも、大丈夫。エルドもいるし、初めてのことや、面倒なのはお帰りになってから兄さまに任せることね。この遠征からは、あなたが兄さまの名代になるのでしょうから、エルドの分も憶えなくてはならないわね。そっちは、兄さまが教えてくださるでしょうけど」
 くるりとソエルはリィルに向き直った。
「兄さまの新しい飾り帯、見せてもらったわ。素晴らしい出来ね。ここには、あなた以上の――いえ、あなたと競えるだけの技量を持った人はいないわ。兄さまが

あなたが欲しかった理由も分かるわ。新しい収入源になるのですもの。まだ、(はた)はできあがっていないけれど、機織り部屋も後で案内するわ。婚姻の儀式がすめば、女主人の鍵束をあなたに渡して、わたしはお役ごめんというわけよ」
「そんなに、おいやだったのですか」
 リィルは思い切ってソエルに訊ねた。
「ええ、嫌い」ソエルは拍子抜けする程あっさりと言い切った。「好きでやっている人の気がしれないわ」
「でも、館の女主人というのは、とても大切な役目ではありませんか」
「大切、というだけでは、だめなのよね」溜息混じりにソエルは言った。「それを負う覚悟も必要だし、わたしにはもっと、守っていきたいものがあったのよ」
「あなたにとって、それはこの家と部族ではなかったのですか」
 船から降りた時の情景が甦った。ソエルにとって、それは海狼ではないのか。ならば、この館の女主人に収まるのは、願ってもない事ではないのだろうか。
「わたしにとって、なによりも大切なのは、兄さまだわ」
 胸を張り、リィルをじっと見据えてソエルは言った。予期していた答えだった。
「わたしの両親は、とても幼い頃に亡くなったから、何も憶えてはいないわ。でも、伯父さまと兄さまは、いつだって本当の家族のようだったわ。エルドもそうだったけれど、本当の兄妹のように喧嘩ばかりしていた。それでも、可愛がってくれたわ。寂しい、なんて思った事もなかったわ。だから、大きくなったら、族長一家を守る立場になりたかった」
 ゆっくりと、ソエルは言った。
「わたしは、女戦士になりたかった」
 その言葉に、リィルは愕いた。
「わたしは兄さまを守りたかった。(ねえ)さま方と一緒に、兄さまと兄さまの大事な家族を守る者になりたいと、そればかりを考えてきたわ。女戦士に選ばれるのは名誉なことだから、皆、それを承知してくださったていたのよ。それなのに――」
 口惜しそうにソエルは言った。「それなのに、お義姉さまは綺麗だったけれど、所詮、それだけの人だったわ。心も身体も弱くて、箱入り娘で育った人だったから、何もできない方だった。どうして、

兄さまが、そんな人と一緒になったのか、今でもわからないわ。伯父さまと兄さまに、わたしは頭を下げられたの。申し訳ないと、謝られたのよ。その気持ちが、わかって。守るつもりだった人たちから、夢を諦めて普通の娘として生きて欲しい、と言われて、どんな気持ちだったか。子供だったけれど、お二人が困っていらっしゃるのはわかるのだもの」その口調は苦々しげだった。「今更、女戦士にはなれない。それでも、わたしを縛りつけてきた役目を降りたいの。それは、無責任かしら」
 そうは思わなかった。だが――
「でも、この役目を降りられた後は、どうなさるのですか。わたくしを助けてはくださらないのですか」
 ソエルは肩を竦めた。「あなたに全て任せるわ」
「それでは、このままだと」
「そうね、何者でもない者になってしまうわ」ソエルは目を逸らせた。「それでは、生きている意味がないのかもしれない」
「ベルクリフさまがおっしゃっていらしたように、ご自分の家庭をお持ちになる気は――」
「それが、幸せだって言うのね」ソエルはリィルの言葉を遮り、目を向けた。「あなたのように、何か特別なものを持っているなら別でしょうけど、他の女たちのように、ただただ、男たちが海へ出て行くのを見守り、祈るしかない生活が幸せだって言うの。いつ帰るか、無事なのかも分からない遠征中の良人の留守の間、孤閨を守り、子供を育てる――それなら、今の生活と何の違いがあるというの」
 リィルは哀しくなってきた。
「それでも、このような厳しい土地で家庭を守るのは重要な、そして、相当な覚悟のいることではないでしょうか。あなたは、充分に幸せになれると思いますわ」リィルは静かに言った。「あなたを愛してくださる方に囲まれて、生きる意味や目的を考えたりできるだけで、幸せではありませんか。日々、自分が生き延びることばかりを祈るだけの生活より、ずっと幸せです。あなたは、そのような人たちがいることをご存じでしょう。ご自分が恵まれていらっしゃることに、気付いてはいらっしゃらないのでしょうか。時間はいくらでもありますわ、ゆっくりと、お考えになればよろしいかと思います」
 ソエルはリィルを睨み付けた。
「わたしだって、納得ずくでやっていけたわよ。あなたさえ、来なければ」
「そこまでだ」
 いつの間にいたのか、海狼の声がした。振り向くと戸口に海狼の姿があった。
「ソエル、甘えた事を言うものではない。リィルの言う通りだ。我々がお前の夢を奪ってしまったのは、事実だ。それについては、(あがな)おうにも贖いきれぬものを、お前に負っている。だからこそ、お前には幸福になってもらいたいと思っている。その気持ちは、私もエルドも同じだ。だが、リィルを自分の不満の吐け口にするのは理不尽だ。あの、ローアンという赤毛の娘がリィルであったとしても、おかしくはなかったのだからな」
 さっとソエルの顔色が変わった。
「でも、違ったし、どうせ、そうなる前に兄さまが何とかされたでしょう、運命なのですものね」
 そう言い捨てると、ソエルは女主人の象徴でもある鍵束をリィルの押し付け、海狼の傍らをすり抜けて行った。
「済まなかったな。悪い娘ではないのだが」海狼は言った。「

は、外の世界がどれほど残酷なのかを、本当には知らない。お前達がどれほどの恐怖と苦痛の中にいたのかも、本当に理解している訳ではない。あの気性だから、いっそ、男に産まれて来れば良かったと思う事もある程なのだが」
「大丈夫です。わたくしの方こそ、言いすぎました」
 海狼の目が細められた。
「あれ程の事を言われたというのに、何故、許せるのだ。お前は少し、優しすぎはしないか。寛大すぎはしないか」
 あなたさえ、来なければ。
 その言葉は、確かにリィルを傷付け、怯えさせた。だが、ソエルも感情的になっていたのだ。そのような時、人は往々にして、本心ではない事を口にしてしまうものだ。
 ――或いは、隠していた真実を。
 リィルの胸は痛んだ。もし、あれがソエルの本心だとすれば、これからのここでの生活は、どうなって行くのだろうか。
「儀式の日が決まった」海狼の言葉に、リィルは我に返った。「今度の新月に、執り行う事になった。自分で何かを用意したければ、それも良かろう。だが、準備に関しては心配はいらない。ただ、翌日からの祝宴は我慢して貰わねばならない。父の時で三日続いたと言うからな。そのくらいは、覚悟せねばならないだろう」
 前の奥方との事ではなく、父親の事を持ち出すのは、何とも不自然なように思われた。
「ただ、日を待つだけだな」
 そう言って笑う海狼に、リィルは微笑む他なかった。
「何か、お手伝いする事はありませんか」
 リィルがそう訊ねると、海狼は首を振った。
「嫁になる者は、唯、婿の事だけを考えていれば良い、というのが我々の謂いだな。まあ、中には、年長者に婿の悦ばせ方を学べ、と言う奴もいるが、男の言う事だ、気にするな」海狼は笑った。「だが」と、リィルの衣の袖をまくった。「だが、もう少し肉を付けた方が良かろう。これでは痩せすぎだ。遠慮は無用、腹がくちくなるまで食事を摂って貰わねば、抱き心地も宜しくない」
 リィルは顔に血が上るのを感じた。北海の人々は、どちらかと言えば太り(じし)の女性を好むものだ。
「冗談だ」
 そう言って高らかに笑うや、海狼はひょいとリィルを抱き上げた。「余りにも蒼い顔をしていたからな。今くらいの顔色の方が、ずっと健康に見える。例え、姿がどうあろうと、お前はお前だ。これ程に軽かろうが、嫁として、女として――一人の人間としても、何の不足もない」
 その言葉に安堵すると同時に、リィルの胸には不安も広がり始めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み