第4章・自由の代償

文字数 21,793文字

 海狼がリィルを解放したのは、一番鶏が啼く頃だった。
 身支度を整えて海狼が再び寝台に腰を下ろしても、精根尽き果てるまで抵抗していたリィルは、そちらを見る気力も残されてはいなかった。
「――済まなかった」
 ぽつりと海狼が言った。
「無理強いするつもりなどなかった、と言っても、信じては貰えまい。だが、お前を傷付けるつもりは、真実、なかった。獣欲に負けた私が弱かったのだ」
 その声は、凪いだ海のように静かで、普段の海狼のものだった。だが、涙も涸れたリィルには、どうでも良い事のように思われた。
「許してくれ、とは言わない。いや、言えぬ。それだけの事を、私はしてしまった」
 髪を掻き回している音がした。
「どうすれば良いのか、私には分からない。お前が赦してくれるまでは、決して共寝はしない。今、私に出来る償いはそれくらいだ。だが、分かって欲しい。お前を苦しめるのは私の本意(ほい)ではなかった。私を罰するなら、そうしてくれ。お前の赦しが得られるのであれば、私は何でもしよう――わたしは、お前がどう思おうと、お前に惚れ込んでいるのだ。それだけは、忘れないでいてくれ」
 その口調は、まるで主人に赦しを乞う奴隷のようだった。あの誇り高い族長の海狼は、姿を消していた。まるで、立場が逆転してしまったかのようだった。それでも、その言葉はリィルの心には響かなかった。
「ゆっくりと、休んでくれ」
 そう言うと、一つ大きな溜息を吐いて海狼は出て行った。
 どうすれば良いのか、リィルには見当も付かなかった。誰とも顔を合わせたくない事だけは、確かだった。使用人が部屋に入るのも嫌だった。サリアやミルドですらも、厭わしかった。昨夜の事――今朝までの事を悟られたくはなかった。ただ、全てを忘れてしまいたかった。
 だが、眼を閉じると、どうしようもなく様々な光景が浮かんでは消えた。
 赤く染まった海や殺されてゆく鯨は唯論の事、冬の海のように冷たくも激しい怒り。男と女の力の差。その事で感じた恐怖。
 そういったものが、一気に押し寄せて来るのだった。
 あの大きな獲物に一人で挑んだ海狼の姿に畏怖の念を(いだ)いた。心臓が止まるのではないかと思う程に、心配をしたのではなかったのか。無事を知って安堵の涙を流したのではなかったのか。
 今は、もう、恐怖しかない。
 男である海狼は恐ろしい。族長である海狼も、恐ろしい。
 では、人間としてはどうなのだろうか。良人としては、どうだろう。
 解体場で海狼が鯨の胎児(はらご)を一突きにした、あの事で恐怖を感じたのだろうか。
 マイアの憎悪が伝染してしまったのだろうか。
 それにしても、海狼は一体、どうしてしまったのだろうか。
 常に自信に満ちあふれていたあの海狼が、自らの為した事に打ちひしがれていた。計算の出来ない人ではなかったはずだ。結果を予測できなかったはずがない。あのような行為に及べば、リィルがどれほど傷付くかを想像出来ない人ではない。
 どれが、本当の海狼なのだろうか。
 様々な幻影に悩まされながらも、やがてリィルは泥のような眠りに引き込まれて行った。
 夢は、見なかった。


 目を醒ましても、リィルはなかなか動く気にはなれなかった。身体が重く、頭もぼんやりとしていた。
 陽が傾きかけている事も分かったが、全く空腹ではなかった。敷布と枕には、まだ海狼が髪に使う香油の香りが残っており、それを胸いっぱいに吸い込んだ。恐怖心は消えてはいなかったが、胸が締め付けられる程に、哀しかった。
 海狼を失いたくはなかった。側にいたいと思った。
 だが、同時に、恐ろしくもある。
 その矛盾した気持ちをどうすれば良いのか、自分でも分からなかった。
 ふと見た腕に、摑まれた跡が指まで判別できる程にはっきりと残っていた。隆たる筋肉がなくともそれ程の力があるのだと思うと、身体が震えた。よく見ると、他にもあちらこちらに痣が出来ていた。
 最北の若き族長、海狼ベルクリフ。
 その姿を、初めて知った気がした。
 北海の七部族。躊躇いなく人を殺す事の出来る人々。
 その一人に、自分はなったのだ。ローアンには人が死ぬところを見たくない、と言っておきながら、実際には人々に死をもたらす者達の統率者の妻となったのだ。
「奥方さま、おかげんはいかがでしょう」
 そんなリィルの思いを破るように、扉の向こうから、躊躇うようなミルドの声がした。
「夕餉には出られますから、支度をお願いします」
 リィルは慌てて言った。
「かしこまりました。では、今からご用意させていただきます」
 使用人達が来る前に、少しでも体裁を整えておこうとリィルは思った。乱れた髪を手櫛で少しはましに見えるようにした。俯いていれば、泣き腫らした顔を見られる事はないだろうし、冷たい水で顔を洗えば、血色も良くなって目立たなくなるだろう。服も、なるべく肌の隠れるようなものを自分で選び、夜着から下着へ着替えた。これで痣を見られる事はないだろう。
 身体を起こし、動かすのは億劫だった。そして、あちこちに痛みがあった。
 平静を装っていたからか、常とは異なるリィルの様子に気付く風もなく、全ての支度は終わった。ただ、ミルドが、リィルが服の首元を飾り留めできつく留めすぎているのではないか、と言ったに留まった。
 皆、本当は何かを察しているのではないかと、勘繰ってしまいそうだった。それでなくとも、寝具を整えれば夕べの事など、簡単に分かってしまうのではないだろうか。そして、それが、また、噂になるのだろうか。
 族長の妻という地位にいる為、身の周りの世話をしてくれる人がいるというのは、有り難かった。だが、その反面、恐ろしくもあった。リィルは家事については何も分からないままに育ったので、片付けや献立、料理を代わりにしてくれる使用人がいて、大いに助かっていた。だが、それは同時に、見られたくない、知られなくない部分も隠せない、という事なのだ。曲解されて他の人々に伝わる可能性もないとは言えず、それが堪らなく恐ろしかった。
 それでは、奴隷であった頃と、何が違うというのだろうか。
 生きて行くのに心を砕かなくとも良い、というだけなのだろうか。それだけでも大きいのは確かであったが、別の、馴染みのない事態を心配せねばならないとは、思いもしなかった。
 食堂へ向かうのは、気が重かった。それでも、一日中、部屋に籠っている訳にもいかないという事も分かっていた。これも、務めだと思わねばならなかった。
 この日は家族の食堂で、既に全員が席に着いていた。
 海狼は変わらぬ様子で静かに座しており、エルドはリィルを見ていつものように笑みを浮かべた。ソエルは完全に無視、だ。
 リィルが席に着くと、食事が運ばれて来た。今夜も鯨だと気付いた瞬間、目の前が真っ赤に染まったような気がした.
 自分はこれからの人生、鯨を目にする度に、あの光景と海狼の変貌ぶりとを思い出さずにはいられないのだろうかと思った。
「我が家の割り当ては、まだまだありますから、義姉上、存分に召し上がって下さいよ」エルドが言った。「新鮮な肉は今日までで、残りは保存用に加工しますから」
 リィルはエルドに微笑んだ。不自然でなければ良いが、と思った。本当は、食欲などなかった。
「今日は、本当にごゆっくりでしたのね、リィルお義姉さま」ソエルの声は冷たかった。「朝餉に出てこられないなんて、女主人としての自覚に欠けているとお思いになりませんの」
 黙って聞き流すしかなかった。
「ああ、でも、仕方ありませんわね」ソエルは続けた。「だって、明け方までずいぶんと激しく

いたみたいですものね。音とお声が聞こえましたもの」
 エルドがむせて咳き込んだ。
「ソエル、何て事を――」
 顔を紅潮させて、エルドがたしなめるように言った。
「あなただって、眠れなくて迷惑だったんじゃなくて、エルド。筒抜けだったでしょう」
「何も、そんなに明け透けな言い方をしなくても。兄上だって、男だし――まだ一緒になられて、日も浅い」
 戸惑ったように、エルドは視線を彷徨わせた。
 リィルは恥ずかしさで一杯だった。この館で二人きりで過ごした最初の夜以外、海狼の腕の中では吐息以外は漏らさぬようにしていたというのに。
「止めるんだ、ソエル」静かに海狼が言った。「リィルを侮辱するのは許さない、と言ったはずだ」
「兄さまは、何十倍もお綺麗だったブランお義姉さまの時でも、そんな事はなかったわ。なのに、今回の入れ揚げようは、ちょっと異常だわ。その人、兄さまに変な薬でも使っているのではなくて。一緒に来たあの赤毛の女は療法師だって言うじゃない。昨日は療法師の館で会っていたのでしょう」
 何故、ソエルがその事を知っているのだろうか。だが、その事を説明するのは憚られた。
「いい加減にしろ。夕べ、何があったにしろ、それはリィルに責任のある事ではない。全て、私の責任だ」
 あの蒼白い怒りが、その言葉にはあった。エルドが、息を呑むのが分かった。だが、それでも、ソエルは止めようとしなかった。
「もちろん、兄さまには責任なんてありませんわ。兄さまは変わられたわ。責任があるのは、兄さまを惑わしているその(ひと)の方よ」
 耐え切れなくなって、リィルは思わず立ち上がった。皆の視線が注がれた。
「このような辱めを受けてまで、わたくしはここには、いたくはありません」
 はらはらと涙が落ちたが、それを拭うことも忘れてリィルは食堂を出た。背後から海狼の声がしたが、言葉として耳には入って来なかった。
「義姉上」食堂の外で、ぐいと腕を引いたのはエルドだった。痛みが走ったが、何とか平静を保った。「義姉上、お待ち下さい。ソエルの無礼は、私からもお詫び申し上げます。でも、どうか、お戻りを。兄上があのように怒り狂っていらっしゃる時には、貴女でなくては鎮められないでしょう」
「もうしわけありませんが、お力にはなれませんわ」
 リィルはそっとエルドの手を離した。
「わたくしも、あの方の怒りが恐ろしいのです」
「まさか、兄上が貴女に対して怒るなど、有り得ない」
 エルドの言葉に、リィルは答えなかった。だが、何かを察したようにエルドは抑えた声で言った。「兄上が、暴力を振るわれたのですか」
 信じられない、という顔だった。
「殴ったりはなさいませんでしたわ。でも、わたくしには、まだ、その方がよかった――」
「――殴ろうが何だろうが、関係ありません。女性に対して、そのような

をなさる事自体、許される事ではありません」
 エルドは全てを理解したらしい。
「あの方も、ご自分が許せなくていらっしゃいます。ですから、お願いです。今は、そっとしておいてください」
 リィルは身を翻したが、それ以上はエルドは何も言わず、また、追っても来なかった。
 部屋に戻ると、既に何事もなかったかのような佇まいだった。
 口さがない人々が陰で何を言おうとも、良い気持ちはしなくとも、仕方がないという思いもあった。だが、面と向かって言われるのは我慢できなかった。それも、あのように堂々と、恥ずかしげもなく。
 何も、知らないのに。
 どれ程、自分が海狼に抵抗したのか、どれ程の力で押さえ付けられたのか。あれは、陵辱だった。
 扉を背に、リィルは泣いた。
 それなのに、剥き出しの悪意を、何故(なにゆえ)に、向けられなくてはならないのか。
 ソエルは、リィルが(さき)の奥方よりも美しくない事が不満なのだろうか。この島にとっては重要な紫の目をしているからと言っても、決して美しくはない自分を、兄と慕う海狼が選んだ事が、不満なのだろうか。
 あの席で海狼が自分を守ろうとしてくれたことは、リィルも重々、承知していた。だが、あの氷のような怒りを目の前にすると、恐怖で身も心も竦んでしまうのだった。それは、全てを焼き尽くす炎のような怒りよりも恐ろしかった。怒鳴っていた時の海狼の方が恐ろしくないとは、思いもしなかった。
 平穏で安らかな日々は、余りにも短かった。
 これから、自分は一生、海狼の優しさと穏やかさの奥に潜む、あの冷たさに脅えなくてはならいのだろうか。
 リィルは不安になった。
 ここで海狼と共に静かな暮らしを築く、という事は、不可能なのだろうか。
 海狼は婚礼の儀式の夜、言ったのではなかったのか。
 同じ夢を見て、同じように歳を取り、共に笑い、哀しもう、と。互いが互いの生きる目的になろう、二人で一人の人間であるかのように生きよう、と。
 それは、全て戯言でしかなかったのか。新婚の妻に対する甘い言葉でしかなかったのか。
 そうではない、と思いたかった。信じたかった。
 だが、リィルを慈しんだ同じ手で、海狼は平気で生命を奪った。今までもそうして来たのだろうし、これからも、そうするだろう。
 それが、北海の民だから。
 そうしなければ、この海では生きてはいけないから。
 海狼の優しく、心遣いの感じられる言葉や愛撫は、決して偽物ではないと信じたかった。信頼して身も心も委ねられる唯一人だった。生きる事を諦めてはならないと教えてくれた人だった。生きる事の喜びを教えてくれた人だった。
 なのに、なぜ、海狼の中に棲まう、あれ程の冷徹な部分や残酷さが今まで気にならなかったのだろうか。一生、手にする事はないと思われた自由と愛情に、夢中になりすぎていたのだろうか。
 これは全て悪い夢で、目醒めれば、何もかも巧く回っているのだろうか。
 それとも、あの小屋の固い床の上で目醒めるのだろうか。
 リィルは夜着に着替えた。いつもなら、湯を使い、きちんと畳んでおく衣もそのままに、寝床に入った。何もかもが新しく換えられており、心地よかった。だが、そこには清潔で暖かな太陽の香りはあっても、海狼の香りはなかった。その事が一層、リィルを孤独にした。
 知らぬ内にまどろんでいたのだろう、扉の軋む音に、はっとした。
 起き上がって垂れ幕の隙間から見ると、海狼が疲れ切った顔で入って来た。そして、長剣を安楽椅子の背に凭せ掛けると、座って長靴を脱いだ。仄かにゆらめく灯りの中で、そのまま暫く両手で顔を覆っていた。やがて、大きな溜息を一つ()くと、脚をもう一つの椅子に投げ出した。
 海狼も湯を使わずに、あのような場所で、あのような姿で眠るつもりなのだ。
 そう思うと、リィルの胸は痛んだ。
 族長ともあろう人が、そのような事をして良いはずがない。気付けば、垂れ幕を開けて立っていた。
「どうした。私がここにいては、眠れんか」
 海狼が言った。その声は、聞いた事がない程に、弱々しかった。
「族長が、お湯もお使いにならないで、そのようなところでお休みになってはいけませんわ」
「この部屋では、私は族長ではない。唯の男に過ぎない」
 溜息混じりに海狼は言った。「惚れた女に愛想を尽かされても仕方のない、どうしようもない男だ」
「ずいぶんとお疲れのようですし、わたくしが、そちらで休みますから、こちらでお休みになってください」
「妻にそのような事をさせる男がいるか」海狼は声を荒げ、リィルはびくりと身を震わせた。だが、直ぐに自嘲するように言った。「寝床から追い出されるのは男と、相場は決まっている」海狼は笑みを浮かべた。「今まで、どれだけの男が、何とか取り成して欲しいと私に訴えて来た事か」
「約束を守っていただけるのでしたら、わたくしもこちらで休ませていただきます」
「私を信用すると言うのか」
 愕いたように海狼は言った。
「あなたは、自ら立てた誓いを破られるような方ではないと信じております」
「随分と、買い被ってくれるのだな」
 そう言いながらも、海狼は足を降ろした。「本当に、信用しているのか」
 ともすれば震えそうになる身体を、垂れ幕を摑む事でようやく支えながらもリィルは頷いた。
「済まない」海狼は立ち上がった。「では、そうさせて貰おう」
 海狼が剣帯に手を掛けるのを見て、リィルは寝床に戻った。服を脱ぐ、衣擦れの音がした。
 素知らぬ振りをしても良かったというのに、なぜ、あのような事を言ってしまったのかは分かっていた。海狼に側にいて欲しかったからだ。共に暮らしてまだ数日だというのに、同じ部屋でありながら側にいない事に耐えられないのは、リィルの方だった。
 いつものように枕頭に抜き身の長剣が置かれ、敷布の下に小太刀を忍ばせるのが分かった。海狼が寝床に入ると、潮の香りがした。
「大丈夫だ。お前の赦しがない限り、何も、しない」
 静かな声だった。
「だが、これはこれでかなりの罰だな」海狼の笑いを含んだ声がした。「寝返りをうちさえすれば、そこにはお前がいるというのに、抱き締める事はおろか、触れる事さえも出来ぬとはな。肉欲に負けた罰とはいえ、私のとってのお前の存在を、今更ながらに思い知らされる――私には、相当な罰だ」
 リィルは答えなかった。答えられなかった。
「安心して眠ると良い。良い夢を」
 優しい言葉と声に、リィルは涙を堪えるのが精一杯だった。


 あの光景が、甦る。
 血に染まった海。
 だが、砂浜に転がっているのは鯨ではなかった。
 人、人、人、ひと――
 血(まみ)れで、波に洗われながら男も女も――子供さえもが死んでいた。
 波打ち際では、白いはずの波頭が赤く泡立っていた。
 目を見開いた者、恐怖が顔に張り付いた者、訳も分からぬままに死出の旅路についたと思しき者。頭部や身体の一部を欠いた者。矢の刺さった者。頭を割られた者、(はらわた)のはみ出た者。
 生者の気配はどこにもなかった。
 あるのは、ただ、血の臭いと集落の燃える臭い。そして、死の静寂のみ。
 ――よおく、見ておけよ。俺達に逆らうと、こうなるのさ。
 誰かがリィルの肩を摑んで言った。
 山頂からの曙光の中で、最早、燻る塊と化した集落が目に入った。
 ――お前は運が良いな。その目のお陰で死なずに済んだんだからな。魔女の目を持つ者は、殺すわけにいかないからな。
 長剣で小突かれながら、竜頭船に乗せられた。
 光が、目に刺さった。
 父さまはどこ。母さまはどこ。
 船が、岸から離れる。
 父さま、母さま。
 リィルは、声にならない叫びを上げた。


「リィル、リィル、しっかりしろ、大丈夫だ」
 思い切り、身体を抱き締められた。
「父さまっ」
 思わず、その身体にしがみ付いて叫んだ。
「リィル、大丈夫だ、夢だ」
 深い声が、リィルを宥めた。涙が溢れて来た。優しく、髪が撫でられた。
「大丈夫だ、ただの、夢だ。何も、恐ろしい事はない」
 恐ろしい夢を見た時に、抱き締めて髪を撫でてくれたのは、いつも父か母だった。
「父さま、父さま」リィルは泣き止む事が出来なかった。「やっぱり、生きていらしたのね。あれは、やっぱり、父さまではなかったのね」
 力強い腕の中で、リィルは泣いた。
「ああ、私は大丈夫だ」深い溜息が顔にかかった。「安心して休むと良い。お前が眠るまで、こうしていよう」
 ああ、父さまだ、とリィルは思った。優しく、強かった父さま。母さまと自分を何よりも愛してくれていた父さまだ。その顔を見たい、と思ったが、大きな手はリィルを潮の香りのする胸に押し付けて、顔を上げさせなかった。だが、それでも良かった。いつでも恐ろしい夢から守ってくれるのは、その手だった。額に愛おしげに唇付けてくれる、この人だ。他に、誰がいるだろうか。
 そのまま、リィルは再び眠りに落ちて行った。
 今度は、夢のない穏やかな眠りだった。


 目を醒ますと、隣にいた海狼の姿は既になかった。
 恐ろしい夢と、穏やかな夢を見たような気がした。海狼の存在が、そのような夢を見させたのかもしれなかったが、内容を思い出す事は出来なかった。
 海狼は確かに、約束を守った。それほど誠実でいてくれるのに、しかし、まだ恐ろしさが残っていた。
 いつも海狼が起きる際に開けて行く跳ね上げ窓からは、朝の空気が入って来ていた。
 昨夜に脱ぎ捨てたままにしてあった衣は、椅子の背に掛けられていた。海狼がしてくれたのだと思うと、恥ずかしさで消え入りたくなった。だらしがない女と思われたのではないかと、気が気ではなかった。
 身支度を整えたものの、食堂へ行く気が起きなかった。ソエルと顔を合わせるのは、耐えられそうになかった。そして、また、食欲もなかった。
「まだ、おかげんがよろしくないのでしょうか」
 ミルドが心配そうに訊いてきた。昨日の事は、海狼は皆にそう説明したようだった。(かぶり)を振って、リィルは努めて明るく言った。
「機織り部屋に、軽い食事を持ってきてください。少し、急ぎたい織物がありますから」
 急ぎの物がある、というのは真実ではなかった。だが、もう、機を織るのはリィルにとっては習慣のようなものであったし、集中して全てを忘れる事の出来る数少ない手段だった。また、一人になるには良い口実だった。
 機織り機は、婚礼までの間に海狼自らが手作りした物だった。北海の全ての部族に共通する習慣なのだろう、花嫁には新郎が機織り道具一式を作って送る。器用、不器用は関係なかった。大工の制作した物を解体して組み直しても良いのだという。だが、海狼は族長としての仕事の合間に、全てを一から作ってくれた。それは、愛情ではないだろうか。いずれは綴織用の竪機と紐織り用の道具も揃えるという事だった。
 鯨漁(いさなとり)に出た際に海狼が身に着けていた胴着は共同の機織り小屋で織ったのだが、今は、館に自分だけの仕事部屋を持つ事が出来た。ここで糸を紡ぐ事も出来たし、裁縫室は別にあった。機織り小屋は、どうしても、後にして来たあの島を思い起こさせた。例え、女達が思い思いにお喋りを楽しみ、休憩を取ろうとも、多人数の中では、やはり、辛い物があった。
 今、織っているのは、やはり海狼の物だった。何年着ているのか、普段着の傷みが激しかったので、幾ら作っても充分ではないと思われた。また、そういった事には無頓着な人でもあった。裾や首元の擦り切れにも無関心だった。聞けば、着替えが必要になった時には洗濯場で生乾きの物をそのまま持って行く事もあったという。衣服については、ミルドや使用人の信用がないのも尤もだった。さすがに()や靴下は充分な枚数と未だに下ろしていない物もあったが、上半身に身に着ける物に関しては、枚数の少なさもそうだったが、殆どに傷みが見られた。イルゴールが、普段から見栄えの良い物を好んだのとは対照的だった。男所帯で育ったからだろうか。自ら猟に赴いたり――この日も海豹を獲りに行くと聞いていた――釣果を検分するからだろうか。何れにしても、早急に新しい衣服が必要だった。
 大切な家族の為にだけ機を織る自由人の女性を羨ましく思った事が、遠い昔のように感ぜられた。あれは夢だったのか。それとも、こちらが夢なのかと思う事も、あった。
 幅の狭い縞模様の間に、更に小さな蔦模様を入れて行く。横糸に使用するこの島の羊毛は、見た事もない程に細く紡がれている為、夏用には経糸(たていと)に細い麻糸を使って今まで以上に細かな模様を織る事が出来た。その為に、経糸を通して横糸を織り込む(おさ)の歯の間隔も、とても狭くしてある。リィルの技量とこの島の羊毛とを知っているからこそ、作れるものだった。
 今度の生地は全体は地味ではあっても、手の込んだ物だ。それに、派手好みではない海狼には、落ち着いた色合いや細かな文様の方が似合うだろう。また、豪華な金髪と青い目も引き立つ。これがエルドなら、大きめの柄と明るい色が似合う。イルガスには、まだ子供らしい無地。だが、晴れ着には、微妙な色で一見、無地に見える模様でも良い。無地でも、縁に部族の紋章の連続模様をあしらうのも、良いだろう。
 知らず、そういった事を考えている自分に、リィルは気付いた。
 完全に、この館の女主人ではないか。
 ほんの少し前までは、明日をも知れぬ身だったというのに。人は、こんなにも簡単に新しい生活に順応し、過去を忘れて行くものなのだろうか。
 リィルは愕然とした。
「軽い物だけど、持って来たわ」
 思いを破るように、サリアが部屋に入って来た。二人きりの時には、以前のような話し方になる。「大丈夫なの」
 機の傍らにある卓に、サリアは麵麭や何種類かの木苺の蜂蜜煮と乾酪の乗った盆を置いた。温かなお茶も、あった。
「ええ、少し、考え事をしたかっただけなの」
 手を休める事なく、リィルは言った。
「それにしても、こんなに細かい模様を、よくも織れるものね。それも喋りながら」
「慣れているから、かしら」リィルは言った。「ずっと、こうして来たから」
「あなたはそうだったわね」サリアは溜息を吐いた。「子供の頃から、ずっとでしょう」
「嫌いでなかったのが、幸いだったわ」
 好きでも得意でもない事を、生きる為とは言え、続けて行くのは苦痛だっただろう。ましてや、そこに生命が掛かっているならば。
「それにしても、族長は器用ね。立派な機だし、装飾も彫り込んであるのですもの」
 感心したようにサリアは言った。
「そうなのかしら、わたしはあの小屋の物とここの共同の物しか知らないから」
 ここにはソエルがいるとはいうものの、機はなかったからだ。だが、自分の為だけに作られた、というのは、変な癖がなくて使い易いのは確かだった。
「そうそう」
 思い出したようにサリアは言った。「あなたは知っていたかしら、あの海狼の従妹だという人、夜の内にここを出されたのよ」
 リィルは愕いて手を止め、サリアを見た。
「使用人部屋では皆、あの人が族長を怒らせたからだ、って言っているわ」
 昨夜の海狼の憔悴した顔が、浮かんだ。
「一体、どこへ」
「離れよ」
 リィルの手は震えた。本当の兄妹のように育ったという人達を、自分が不仲にしてしまったのでないかと思った。
「あなたが気にする事ことではないわ」リィルの思いを察したかのようにサリアが言った。「元はと言えば、あちらがあなたを貶めるようなことを言ったからなのでしょう。いくら血縁でも、序列では族長の奥方のあなたの方が上なのだから、仕方のないことだわ」
「でも――」
「前々から、族長はそう言っていたそうじゃない。それに反抗した以上は、覚悟の上でしょう」
 リィルはうろたえた。
「わたしのせいで」
「あなたのせいじゃないわ。唯論、あなたは優しいから、そう思うのでしょうね。でも、族長が決めたことなのですもの、誰も逆らえないわ」
 サリアはリィルにお茶の入った杯を渡した。気持ちを落ち着かせた方が良い、という事なのだろうと思い、リィルは一口、飲んだ。サリアの淹れるお茶は、いつも良い味がした。
 頼めば、ソエルは戻して貰えるだろうか。しかし、そうなればまた、あのような遣り取りの繰り返しが待っているだけなのだろう。
 それにしても、未婚の若い女性を、離れとはいえ追い出すのは、余りにもやり過ぎに思えた。
「でも、族長は厳しい人ね」ぽつりとサリアが言った。「血縁でも簡単に追い出してしまえるのだから」
 簡単ではなかったはずだ、とリィルは思ったが、何も言えなかった。
「気を付けなさいよ。族長は本当は、恐ろしい人なのかもしれないわよ。海狼の呼称を持っているのだし、それに、嫌な噂も聞いたわ」
「嫌な噂――」
 サリアは声を潜めた。
「ええ、前の奥方さまは、本当は、族長に殺されたんじゃないかって」
「そんなこと」
 思い出したくない程に、愛していたのではないだろうか。それに、出産で生命を落とすのは、それほど珍しい事ではない。現に、海狼の母親もそうだったではないか。
「こんな事、あなたに言うのは気が引けるのだけど、後継ぎが産まれたから用済みだって、殺されたというのよ。もとから身体の弱い方だったから、誰も最初はそんなこと、思いもしなかったそうよ。でも、族長は全然、哀しまなかったし、子供にも無関心だったから、もしかして、って言われているみたい」
 リィルは絶句した。いかに海狼の呼称を持つとは言っても、そのような事を為すとは思えなかった。そのような人ではない。感情を、人前で表さないだけなのだ。族長として。どこかで誰かが、面白がってそのような噂を流しているのだろうか。
「気を付けてね。あなたは人を信用しすぎるのだから。世の中には、妻殺しや夫殺しは、まま、あるのよ」
 海狼に限って、そのような事はないとリィルは思った。だが、本当にそう言い切れるだろうか。リィルは、自分の心に一滴の染みが落とされたように感じた。


 結局、機織り部屋に持ってきて貰った食べ物には手を付けなかった。それでも、リィルは空腹を感じなかった。黙々と機を織り続けた。ただただ、放っておいて欲しかった。
 目の前が織物の文様で一杯になる。規則正しい音が部屋に満ち、機械的に手や足が動いて無心になれた。何物にも煩わされる事のない時間だった。
 だがら、エルドの声がした時には、思わず()を落としてしまう程に、愕いた。
「義姉上、大丈夫ですか」
 エルドは慌てたように言った。
「ええ、少し、愕いただけです」
 杼を拾い、リィルは答えた。「何か、ご用でしょうか。男の方が用のあるところではありませんでしょうに」
「――朝に御姿がなかったものですから、どうされたのかと思いまして。それに、ミルドの話では、ずっと機を織っておいでだとか」
「織りはじめると、つい、夢中になってしまうものですから。ご心配にはおよびませんわ。食べるものもございますし」
 リィルは努めて笑顔で答えた。と、気になっていた事を訪ねた。
「ソエルさまが、離れに移られたと聞きましたが」
「そうです。昨夜の内に、兄上の御命令で」
 よく磨かれた床を、リィルは見るともなく見た。
「わたくしの不躾な振る舞いのせいで…」
「とんでもない。あいつには良い薬ですよ」何でもない事のように、エルドは言った。「それよりも、義姉上の方こそ、大丈夫でいらっしゃいますか。兄上は何も仰言いませんが、随分と気になさっている御様子で」と声を落とした。「海豹獲りが終わるや、私に一足先に戻って御様子を窺うように仰言られたくらいですから」
「ベルクリフさまが」
 リィルの心に温かなものが広がった。
「そう、あの兄上が、です」
 エルドはにやっと笑った。「それ程、気になさるなら、御自分でいらっしゃれば良いのに、事、貴女に関わるとなると、聞き分けのない子供みたいな所がありますな、あの兄上にして」
「わたくしは大丈夫ですと、お伝えいただけますか」
「夕餉には、いらっしゃって下さい」エルドは真顔になった。「確かに、食い物はありますが、何も召し上がってはいらしゃらないのでは。それでは、いくら何でも体を壊します。本当は大丈夫ではないのに、そのような

をなさってはいけません」
「お気遣い、ありがとうございます。でも、本当に、大丈夫ですわ。夕餉には、できれば、ご一緒いたします」
「できれば、ではなく、必ず、です。このままだと、貴女に監視をつけられてしまいますよ、冗談ではなく」
 リィルは弱く笑った。
「笑い事ではありませんぞ、義姉上。食べる事は生きる事と同義ですからね。それでなくとも、貴女はか細くていらっしゃる。脅すようですが、良い季節にたんと召し上がらなくては、長い冬を乗り切れませんよ」
「わかりました。お約束いたします」
「今日は量はありませんが、海豹ですから」
 エルドは満足したように笑んだ。そして、リィルの仕事を見た。
「兄上の胴着ですか。良い色と模様ですね。これほど細かな模様は見た事がありません。良く御似合いになる事でしょう。全く、族長だというのに、身の回りの事には構わない性質(たち)の方ですから、貴女のような細やかな心配りをして戴ける方が来て下さって、本当に良かった。あのような兄上ですが、どうか、愛想を尽かさないように御願い申し上げます。ソエルの織物の腕は御存知でしょう。随分と新しい物が必要でしょうが、手が()いたら、我々の分もお願い致します。族長家とはいえ、兄上の方針で、我が家は着た切り状態ですから」
 そう言うと、エルドはリィルの返事も待たずに出て行った。
 夕餉に出るのは気が重かったが、約束した以上は仕方がなかった。一つ、小さな溜息を()いてリィルは再び機織りを始めた。少なくとも、エルドはリィルの存在を快く受け入れてくれているようだった。


 夕餉は静かなものだった。
 ソエルはおらず、その事がリィルを居心地悪くさせたが、兄弟はその事には全く触れなかった。
 海狼は元より口数の多い方ではなかったが、それでも、機嫌が悪いというのでもなさそうだった。エルドと今日の猟の話をしている海狼の視線を時折、感じる事があった。
 海豹は、やはり、余り喉を通らなかった。
 部屋に戻ると、自分が疲れ切っている事にリィルはようやく気付いた。陽のある内は、ずっと機を織っていたのだから仕方がなかった。こんなにも集中したのは、久し振りだった。
 湯を使い、夜着に着替え丁寧に衣服を畳むと、そのまま眠りに落ちて行った。


 血に染まった光景。
 だが、また父さまが、大丈夫だと抱き締めてくれた。
 母さまは、どこにもいない。姿が見えないだけではなく、優しい声も聞こえなかった。
 父さまは殺されなかったのに、母さまは殺されたのだろうか。
 そんなはずはない。
 父さまが母さまを見殺しにするなど、有り得なかった。
 では、どこに。
 やはり、

殺されてしまったのか。
 父に(いだ)かれながらも、リィルは母を呼び続けた。


 内容は憶えてはいないのに、朝になっても、夢の余韻は続いていた。
 身体が震え、思わず、手を伸ばした。だが、そこには何もなく、リィルは涙をこぼした。
 それでも、傍らにはいつの間に来たのだろうか、海狼の眠っていた跡が残されていた。そこには、まだ、香油の香りが残っていた。
 海狼の存在が、そのような夢を見させるのだろうか。そうは思いたくはなかったが、二日続けての夢に、リィルは疑いを持ち始めていた。自分の、海狼を恐ろしいと思う気持ちと、傍にいたいという相反する感情が、混乱した夢を見させているのではないか、と。あの夜までは、海狼は安らい、憩うことのできる唯一と言ってもよい場所だった。肌を合わせ腕の中にある時には、愛し愛される幸せを感じた。
 それが今ではどうだろう、触れ合うこともなく、言葉を交わすことさえもなくなった。
 このような状態が続いて良いはずがなかった。
 どうすれば良いのかも分からなかった。
 いっその事、完全に存在を感じられないように、別の部屋へ移るのが良いのだろうか。
 だが、そのような事をすれば、人々はどう思うのだろうか。同じ部屋にいるならば、まだ誤魔化しはきくのだろうが、部屋を別にすれば、何と噂を立てられるのか、分かったものではなかった。それも、まだ、婚姻の儀から間もないというのに。
 この島の人は、誰も信用してはならない。
 そう囁く

が、リィルの中にいた。
 この島の人は、元は同じ奴隷身分にあったにせよ、今は北海の部族なのだ。
 信用できるのは、結局のところ、同じ島の奴隷であったサリアとローアンだけだ。
 この二人を共に連れて来る事を許してくれた海狼には、結果的には感謝をするしかない。そうでなければ、たった一人で全てを抱え込まねばならなかっただろう。気晴らしの話し相手さえも、いなかっただろう。
 この部族の人々は、以前は狩られる立場であったというのに、今では狩る立場にある事に、誰もが何の躊躇いも感じてはいないのだろうか。それは、何故(なにゆえ)なのだろうか。
 虐げられていた人は力を手にすると、今度は自分を虐げていた人々に向かって、必要以上に残虐になるのだろうか。
 かつて、海狼は、奴隷船の乗組員は皆殺しにするのが信条だと言った。
 では、他の船――積荷船の乗組員はどうするのだろうか。村を襲った時には。
 リィルは身を震わせた。
 それを当然の事として受け止めねばならないのだ。そうして奪った糧で、自分は生きているのだ。
 他の、名もなき人々の生命の上に。


 集中して仕事に掛かった為か、布は直ぐに織り上がった。今度は、それを仕立てなくてはならない。
 前に教わったように裁断したが、手が震える始末だった。ようやくそれが終わっても、今度は縫わなくてはならない。それが、なかなか巧くはいかない。貴重な金属製の針の先は鋭く、気を抜くと指先を刺して怪我をする。麻糸をその針孔に通すのも一苦労だった。
 一人、裁縫室にいると安心だった。呼ばない限り、誰も、ここには来ない。不器用なところを見られる心配もない。
 食事は以前のようにきちんと顔を出すようになった。相変わらずソエルはいなかったが、その名を口にする者はなかった。食欲はなく、殆ど食べる事は出来なかったが、幸いにも気付かれてはいないようだった。時折、エルガドルや他の者が席に加わることもあったが、島での様々な仕事や出来事の話に終始し、リィルの存在を気にかけぬ様子だった。
 手仕事が遅々として進まないのは、仕方のない事なのかもしれない。まだ、二度目なのだ。なるべく丁寧に、ひと針ひと針縫って行く。最初に海狼の胴着を縫った時に教えを乞うた共同の仕事場の女性達は、まるで流れるように針を進めていた。その域に自分は達する事が出来るのだろうかと、リィルは思った。
 誰も笑う者はいないと分かってはいても、熟達した女性達の多い場所より、今は一人でいる方が気が楽だった。噂の種になるかもしれない所は、なるべく避けたかった。
 この島では、機織り場の他にも、女性達が共同で作業をする場所が幾つかあった。そこでは、家族の物ばかりではなく、独り身であったり、寡夫やその子供達の衣服、女戦士達の物を作ったり繕ったりしていた。服作りや刺繍のような針仕事だけでなく、糸紡ぎや洗濯も、そうだ。家で一人で作業をするよりも、皆で話したり互いの幼子の面倒を見られるような場所を選ぶ女性もいるようだった。また、自分の得意とする作業を分担する事もある為、そういった作業を習い始めた少女達が自分の好きな手業を見付けるにも良さそうだった。リィルが来るまで、族長家の衣服もそういった女達によって作られていたという。ただ、海狼の方針で、不自由しない限りは、という事であったらしい。
 族長の妻である事を考えれば、昼間は人々の集まる場所で作業をするのが本来なのだろうが、リィルには出来そうになかった。自分の不器用さが、他に広まって行くのではないかという不安があった。完璧なまでに全てをこなし、誰もが畏怖と尊敬、憧憬の目で見る海狼の選んだ自分が、機織り以外では昨日今日、手習いを始めた少女にも劣るのだという事を知られるのが、恐ろしかった。以前は注視される事を気まずいとは思いはしても、そこまでではなかったというのに、今では全てが恐ろしく感じられた。
 それ故に、族長の館には一通りの家事室があるのを幸いに、そこに逃げ込んだのだった。
 裁縫の中では、恐らく最も簡単な胴着でさえ、真っ直ぐに縫うのに肩の力が入ってしまう。衣服一式を縫えるようになるには、どれ程の時間を要するのだろうか。
 それでも、手を動かしている方が楽には違いなかった。
 何も考えずに済むからだ。
 人の中に混じって疑心暗鬼にかられるよりも、一人で何かに集中している方が余計な事を考えずに済んだ。何もない時間も同様に恐ろしかった。取り留めもなく浮かぶ様々な考えで頭の中が一杯になり、やがて、それが自分の妄想でしかないのか、それとも真実なのか区別がつかなくなる事が、恐ろしかった。
 夕餉の場では、珍しく海狼は退席しようとしたリィルを引き止めた。
「少し、話がある」
 常にない言葉に、食卓の周りにいる牧羊犬に羊の骨をやっていたエルドも、その動きを止めた。夫婦の会話とは思えないのは、確かだ。
 はい、と答えるしかなかった。二人で話す事は、あの夜からこちら、絶えてなかった。そして、海狼の怒りに対する恐怖は、骨の髄まで染み通っていた。断る事によって、機嫌を損じてしまうのが恐ろしかった。
 あの夜以来、リィルは海狼より先に寝床に入っていた。起きる頃には既に海狼の姿はなくなっていた。
 そうだ、自分は全く、海狼の湯浴みの世話をしていない。それだけでも、妻としての義務を果たしていない事になるのだが、その身に触れるのは恐ろしかった。あの島にいた時から楽しみであった髪を洗う事さえ、出来そうになかった。夕刻に仕事を終えて湯桶にゆったりと凭れる海狼と、その日一日にあった他愛のない話をし、髪に香油を塗るのは義務以上の時間であったというのに。
 族長室で暫く待っていたリィルに、戻った海狼は外衣を取り出して渡した。
「今宵は満月だ。少し、外へ出よう」
 外は月の光で明るかった。この北の地では夜は肌寒く、リィルは外衣をまとった。それを留めるのは、海狼から贈られた狼を象った銀の留め具だった。
 海狼は先に立って歩いて行く。集落の外へと向かっていたが、ついて行くしかなかった。
 後ろ姿だけでも、海狼は族長の風格があった。その存在だけで人を圧倒する力があった。
 集落を出ると、岩の多い、海を臨む丘陵へと海狼は向かって行った。丘を上る時、自然な様子で手が差し伸べられ、ついて行くのが精一杯だったリィルは思わず、その手を取った。なぜか恐ろしくはなかった。そう、自分は、この手を頼りにこの地まで来たのではなかったか。
 ゆっくりと、海狼に導かれてリィルは丘を上った。温かく大きな手は力強く、安心して頼る事が出来た。
 丘の中ほどまで来ると、海狼はリィルの手を一度、強く握り、そして離した。波音が大きく聞こえた。この丘の先は、海なのだ。
「まだ、出会ってふた月と数日にしかならないのだな」
 海狼はリィルに向き直って言った。静かな声だった。
「不思議な気がする。たかだか三月前には、互いの存在すらも知らなかったのだからな」
 リィルは黙ってその言葉を聞いていた。族長集会は満月の日に始まったのだった。
「この数日の間に、我々の間に何があったのだろう。お前は随分と私を恐れているようだ。それは、

の事が原因か」
 海狼の言う

が何時を指しているのか、過ちようがなかった。だが、リィルは答えられなかった。
「ここなら、誰にも聞かれる心配はない。正直に答えて欲しい」海狼は言った。精一杯の気遣いなのだろう。「私が、また、あの様な振る舞いに及ぶのではないかと、恐ろしいのか」
 リィルは(かぶり)を振った。海狼は同じ寝床にいても約束を守ってくれている。それ故に、二度と同じ事は起きないだろうと思った。
「では、教えて欲しい。私の何が、それ程お前を恐れさせるのだ」
 衣を握り締め、リィルは唇を噛んだ。言えるだろうか、本当の事を。
「あなたの――」ようやく出た言葉は、掠れていた。「あなたの、怒りが、恐ろしいのです」
「私の、怒り、だと」
 拍子抜けしたように海狼は言った。「お前に怒鳴ったりした憶えはないのだが」

、あなたは怒っていらっしゃいました」
「ああ――」海狼は空を見上げた。「お前はずっと、怒りに怯える生活を続けて来たのだったな。敏感になるのも仕方あるまい。あの時は、鯨漁(いさなとり)が巧くいって、気分が良かった。思ったよりも龍涎香もあったし、少し酔ってもいた。普段、言葉少ないお前が否と言えば本気であると察すべきなのに、それを女の手管と思った。老いも若きもそのような女しか知らなかったというのは言い訳に過ぎないのは分かっている。男と女の事を知って日の浅いお前だというのに、どうしてそのような事があるだろうかと今更に思う。前の妻の事を持ち出したからかも、しれない。だが、結局は私自身の愚かで身勝手な欲望が満たされなかったからだ。前の妻が身ごもってより、女とは縁遠くなっていたからというのも言い訳だ。あの時の私は本能のみの獣だった。私の性《しょう》は狼だと、人々は感じ取ってこの呼称をつけたのだろう。苛立ったのは確かだ」
 苛立った、という感じではなかった。
「お前が離婚したいと思うのならば、私はそれをとどめる術を持たない。ただ、人前で私の頬を打ち、離婚すると宣言するだけで良い。それは、北海の女全てに認められた権利だ。再婚も、そうなれば自由だ。夫と妻の間の事とて、決して許されぬ事を私は為したのだから、法の庭に訴えられるも仕様のない事と覚悟もしている」
 離婚など、考えもしなかった。また、そのような権利のある事も知らなかった。法に訴えるとは、海狼はそこまでの覚悟をしているのかと思うと、事を軽く考えてはいないのだと分かった。
 思い切ってリィルは訊ねた。
(さき)の奥方さまの事を、話してはいただけないのですか」
「駄目だ」言下に海狼は否定した。「

、お前には話せない」
「なぜでしょう。わたくしは少しでも、見習いたいと思いますのに」
「その必要はない」海狼は歯を食いしばったような声で言った。苦い響きが、そこにあった。「お前は、お前でいろ」
「私にとり――」打って変わって、今度は穏やかな慈愛に満ちた声になった。「私にとり、お前以上の妻は望むべくもない。容姿も心延(こころば)えも、お前より美しい者を、私は知らない。誰も見習う必要はない。お前がお前でいる事が、私の望みで喜びだ」
「なぜ、そのようにおっしゃるのでしょうか。人が――」
「人を気にする必要はない」リィルの言葉を遮って海狼は言った。「人がどう思おうと、問題ではなかろう。お前は私の運命だ。族長である私が、妻に迎えた女だ。皆は、それを受け入れねばならない」
 傲慢な考えだった。それが、族長でもあるのか。
「では、あなたは、ご自分が前の奥方さまを殺められたという噂を、ご存じないのでしょうか」
 自分の言葉を全て否定される苛立ちに、つい口を突いて出た。口にしてしまってからしまった、と思ったが、取り戻す事は出来ない。
「承知している」海狼の声は落ち着いていた。「だが、それはある意味、真実だ。私と一緒にならなければ、

はまだ、生きていただろう」
 ある意味、真実。それは決して産褥死を指しているのではない事は、リィルにも分かった。
 その意味を教えて欲しかった。何があったのか、知りたかった。そうでなくては、いつまでも二人の間に亡き人が立ちはだかる事になる。秘密を抱えたままでは、いつかは破綻が来るのではないかと思われた。
「今はまだ、という事で納得して貰うしか、ないだろう。いつか、必ず、話そう」
 溜息混じりに海狼は言った。リィルから顔を逸らしていた為、その表情は見えなかった。
 思い出したくない、話したくないほどに愛しておいでだったというのに、わたくしを運命とおっしゃるのですね。
 そう言いたい気持ちを、リィルは(こら)えた。
「だが、それだけではないだろう」暫しの沈黙の後、海狼は言った。「このところ、お前は毎晩、うなされている。酷い夢を見ているのではないか」
「わたくしが、ですか」
 リィルは愕いた。夢の内容は全く、憶えてはいなかった。しかも、うなされていたとは。
 黙って、海狼は頷いた。
「わたくしは――」
リィルは言い淀んだ。何と説明すれば良いのだろうか。憶えていない事を語る事は出来ない。だが、言葉は喉元まで来ているような気がした。
「私に対する恐怖心と関係があるのではないか。あるならば、それは私の責任だ。ないのならば、それに越した事はない」
 夢とは関係がないのかもしれないが、海狼に対する恐怖心とは大いに関係のある事が、リィルの胸にはあった。それを言うべきかどうか、迷った。しかし、今の状況をどうにかしたい、という思いには変わりがなかった。
 リィルは意を決した。
「あなたに、血染めの海が重なって見えるのです」
「鯨を仕留めた時のか」
 海狼の言葉は冷静だった。
「――はい。それと、解体の時に見てしまったのです。あの、胎児(はらご)に止めを刺されるあなたを」リィルは両手で顔を覆った。「わたくしは狩られる者でした。それが、ここでは狩る者に変わりました。本当にそれで良いのかと、心が、追いついてゆかないのです」
「鯨とは言え、嬰児殺しを見たのは、不幸な事だ。だが、違う。お前は狩る者になったのではない。我々の獲物は、血肉となり、生きる力となるのだ。人間を狩るのとは、根本的に異なっている」
「でも、北海の部族です」
「そうだ。だが、我々は沿岸や島嶼(とうしょ)を襲う事はない。我が部族は、交易島からの出船を襲う。それで、お前の心が安まるというのでもないだろうが」
「奴隷船の乗組員は、皆殺しにするのが信条だと、おっしゃいました」
「生き残れば、再び奴隷売買を行うからだ。それだけは、我々からすると許せぬ事だ。積荷船では、抵抗せぬ者をわざわざ殺しはしない。次の年にも獲物になって貰う為にも、無為な殺しは意味がない」
 ぐいと顎が持ち上げられた。
「それだけではないな」満月の光の中でも青い目が、リィルを見た。目を逸らす事が出来なかった。「理由は、それだけではないな」
 身体が震えた。本当の理由は、自分でも認めたくはなかった。知られたくはなかった。そう、自分も、この人に秘密を持っているのだ。それも、一つではない。
 だが、海狼は探るようにゆっくりと言った。
「お前は、私の中に、自分の家族を殺した北海の戦士を見ているのではないか」
 リィルは海狼から身を振りほどいた。そして、海の音のする方へと走った。
 悟られてしまった。
 海狼に、悟られてしまった。
 どのように取り繕おうとも、海狼は偽りを見抜いてしまうだろう。そうである以上、ここにはいられまい。共にはいられない。
「駄目だ、リィル」
 直ぐに、腕を摑まれた。倒れそうになったところを、後ろから抱き締められるような格好になり、そのまま転倒した。しっかりと守られるように坂を滑り、灌木に海狼の身体が当たったのが分かった。
「大丈夫ですか、お怪我は」
 リィルは身を起こし、慌てて言った。
「お前の方こそ、怪我はないか」
「はい」
 ゆっくりと、海狼は身を起こした。リィルの目に、涙が滲んだ。こんなにも、この人は自分を大切にしてくれているというのに、猛々しい男としての姿に北海の戦士を見てしまうのはどうしてなのだろうか。
 海狼はやにわにリィルの肩を摑み、揺さぶった。そして、語気荒く言った。
「夜の海に向かって走り出すなど、何を考えている。死にたいのか」
 涙が、止めどなくこぼれた。恐怖からでは、なかった。
「あなたに、知られたくはなかったのです。あなたにだけは、決して」
何故(なぜ)
 言葉は穏やかであったが、有無を言わさぬ強さがあった。それに逆らうのは不可能だった。
「あなたのお側にいたかったからです。あなたは、わたくしに生きる事を教えてくださいました。世界がどれほど美しく、喜びに満ちたものなのかを、教えてくださいました。なのに、わたくしは、違うとは分かってはいても、あの島の、あの戦士たちがあなたに重なるのです。それでは、あなたのお側にいる資格はございません」
「私はお前に言ったではないか。我々は、生まれ変わっても、巡り会おうと。お前は私の運命だと」
「わたくしは、あなたによって、幸運にも自由を得ました。けれども、わたくしのような奴隷であった者が自由になるためには、何らかの犠牲を払わねばならなかったのを、幾度となく目にしてまいりました。それが、

なのでしょうか」
「自由になる為に犠牲など、必要ない」海狼は言った。「人は、生まれ育ちがどうあろうと、自由だ。身体はどうあれ、その心まで縛る事は誰にも出来ない。お前は今まで、本当に酷い生活を強いられて来たのだな。その一事(いちじ)だけでも、私はイルゴール殿を恨みに思う」海狼は唇を噛んだ。「それに、当然の事ながら、誰にでも幸福を得る権利はあるのだ。それを阻止する事は、誰にも出来ない。我々の幸福とは、何だ。

ではないのか。お前は私の側にいたいと思っている。私はお前を離したくない、共に生きたいと思っている。ならば、そうすれば良いだけの事ではないのか」
 海狼はリィルを見つめて言った。
「でも、わたくしは――あなたに、どうしようもなく血の臭いを感じてしまうのです。幼い頃に何があったのかは憶えてはおりませんが、それに繋がる血の臭いを、感じてしまうのです」
「ならば、思い出すしかあるまい」静かに海狼は言った。「幼い頃に、何があったのかを思い出し、私とその戦士共とは違うのだという事を、はっきりとさせるしかないだろう。過去の亡霊を追い払うしか、あるまい」
 リィルはぞくりとした。思い出したくない、という気持ちが強かった。思い出してはならないような気もした。
「大丈夫だ。私がここにいる」海狼はリィルを抱き寄せた。「恐ろしければ、私の腕に逃げ込め。哀しければ、私の胸で泣け。そう言ったはずだ。私がお前の故郷になる、と。何の為に、私がいると思っている。お前を護る為ならば、どのような事でもする覚悟でいるというのに。初めて会った時より、私の魂は、お前の足下にあるというのに」
 痩身ではあったが、その胸は、やはり、広かった。それは、遠い過去にも通じるものがあった。自分には、この人が必要なのだ、とリィルは思った。そう、自分も、出会ったその瞬間より、魂を海狼に捧げていたのだから。失っては、生きて行けぬ程に。
 遠い過去。
 記憶の奥底に封じ込められた、過去。
 それを思い出さなくては、本当の安寧は手に入らぬというのだろうか。
 思い出すな、と何かが囁く。
 そのような事をすれば、お前は正気を保つ事が出来なくなるだろう、と。
 でも、この人がわたくしを護ってくださる。
 広い胸に寄りかかり、リィルは腕をその背に回した。どのような事があろうとも、この人は自分を護ってくれるだろう。
 大きな温もりに包まれるのは心地よかった。まるで――
 心の中で、何かが弾けた。
 どっと、様々な光景が甦った。身体が、どうしようもなく震えた。
 不審そうに、自分の名が呼ばれるのに気付いた。
 リィルは海狼を見上げた。その目は、暗い青い色をしていた。
 その色は――
 途端に、目の前が血の色で染まり、意識が遠のいた。
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