余話・海狼、愛欲、家族を語る

文字数 21,506文字

「今日は用事は全て休みだ。お前の乗馬の腕を見よう」
 朝のひと仕事を終えて食事の席に現れるなり、海狼は言った。思いがけない帰宅とその言葉に、リィルだけではなくソエルとイルガスも匙を持つ手が止まった。
「でも――」
 遠征を控えて、今は忙しいはずだ。族長が検見(けみ)することも多いだろうに、休んでいる暇などあるのだろうか。リィルとても、ソエルとミルドの手を借りて、海狼の個人的な荷物を支度し終えたところだった。
「エルドとエルガドルにはもう伝えた」
 大した事ではないかのような言い方に、リィルは次の言葉が出なかった。
「あら、いいじゃない」ソエルが言った。「お義姉さまにもちょうどいい機会だと思うわ。兄さまのお許しがないと、まだお一人では馬に乗って出かけてはならないのでしょう。それでは不便だもの」
 海狼が不在の間に集落を離れなくてはならない時のことを言っているのだと、すぐに分かった。
「エルドさまがいらっしゃるのですから、問題はないかと思うのですが」
「冬が終わったら直ぐに族長集会だ。今回はエルドを伴って行くつもりでいる」
 冬の間は馬には乗れない。
「それに、如何に義姉、弟ではあっても、轡を並べるならともかく、同じ鞍に乗るのはどうかと思うが」
「あら、兄さま、エルドに嫉妬していらっしゃるの」
 ソエルが笑った。
「言いたくば言え」
 海狼は挑発には乗らなかった。
「でも、帳簿が――」
「それはわたしがやっておくわ」ソエルがさらりと言った。「今日くらいは、お休みになっても大丈夫よ」
 行かない理由がなくなってしまった。

 海狼と並んで馬を歩ませるのも、館の馬場より外に行くのも初めてだった。
 馬に乗るのは嫌いではなかった。むしろ、好きになりつつあった。鞍や頭絡のつけ方は直ぐに憶えられた。慣れないのは、乗馬の際に衣の下に着る()だった。男と同じ装いの女戦士は常に身に着けているものであり、北海の女性が馬に乗る時には必要な物だと分かってはいても、違和感が拭えなかった。
 それでも、広々とした場所を馬で行くのは気持ちが良かった。
「少し、速めるぞ」
 集落を出てすぐの海狼の言葉に、リィルは緊張した。後について馬の腹を軽く蹴り、速度をあげた。
「もう少しだ」
 徐々に馬の脚を速くして行く。最後には駈足になったが、なんとかついて行くことができた。
「十分だ」手綱を緩めて海狼は笑った。「一人で馬に乗っても大丈夫のようだな」
 再び馬を並べ、リィルは安堵の溜息をついた。海狼にそのように認められたのならば、誰も反対はしないだろう。
「もう少し、このまま行こう」
 二人は無言で進んだ。普段より、リィルの方から口を開くことは少なかった。話すことがない訳ではなかったが、何とはなしに自分からは話しかけ難かった。それは海狼にだけではなく、誰に対しても同じだった。このような折には、何か話しかけた方がよいのだろうかと逡巡している内に、海辺に出た。
「馬はこの辺りに放しておけば良い」
 そう言って海狼は馬を降りた。リィルが下馬するのに手を貸してくれ、手綱と鐙を鞍の上に放ると馬を繋ぎもせずに海へ向かった。そこは崖であり、リィルは何があるのだろうかと訝しく思った。
「さあ、足場が良くないから」
 伸べられた海狼の手を取ると、岩場に導かれた。剣を振るうに慣れた硬い掌であったが、安心して頼る事ができた。ゆっくりと慎重に、海狼はリィルに足の置き場を注意しながら下って行った。その先にあったのは、僅かばかりの砂地であった。
「座ろう」
 そう言うと海狼は腰を下ろした。その間もリィルの手を放さなかったので自然と、片方を立膝にしたその脚の間に座ることになった。ようやく手が放されたと思えば、今度は腕が回された。全く自由ではなくなったが、リィルは海狼の胸に身を委ねた。
 海は静かだった。風もなく、海鳥の鳴き声と波の音だけが耳を満たした。
 暫し、リィルは目を閉じて心地の良い波音を聞いた。いつでも共にあった音。これからも共にあるであろう音だった。目を開けても見えるのは、左右に迫った崖と水平線ばかりであった。まるで、世界に二人きりでいるような心地がした。
「お前からは良い香りがするな」
 海狼の言葉に、リィルは顔が赤くなるのを感じた。
「エルドが交易島で買ってきた香料入りの石鹸か」
「――はい。使うのがもったいなくて長櫃にしまっておいたら、香りが移ったようです。乗馬にはいつものものでは寒いだろうとミルドに言われ、少し生地の厚いものに着替えましたので」
「確か、お前とソエル、ローアンに買って来たのだったな。療法師に香料入りの物は不必要だと突き返されたとか」海狼は小さく笑った。「あの男にしては気を利かせたつもりだったのだろうが」
「それを、わたくしとソエルさまに半分ずつ下さいました」
「普段に使えば良いのだ。勿体ないなどと思うことはない」
 自分には過ぎた贅沢品だと思った。普通の石鹸でさえ有り難いものを。
「だが、私では考えつかなかった土産だな。ブランが生きていた頃には、マイアに言われて買って来たものだが、そんなことは忘れていた。少なくなれば、遠征の帰りに交易島で購って来よう」
 前の奥方を海狼が愛していなかったと知っても、その名を聞くと胸が針で刺されるようだった。自分の心の狭さを思い知らされた。
「そう言えば、お前に付けていた娘達の役を解いたらしいな」
「いけませんでしたか」
 勝手なことをして叱られるのではないかと思った。
「いや、家のことは全てお前の好きにして良い。だが、不自由ではないのか」
「たいていのことは、一人でできるようになりましたから」
「母がどうであったのかは憶えていないが、ブランは常に使う者を必要としていた。そういうものだと思っていたが」
 育ちの違いを思い知らされた。後妻なのだから、人にも海狼にも、恐らく、これからも何かと比較されるのだろう。それに慣れなくてはいけない。つらくはあったが、耐えられないことはないだろう。
「ソエルさまは――」
「あれは何でも一人で出来るように育ったからな」
 リィルは何も返さず、海狼もそれきり沈黙した。
「ここは、私の場所だ」
 ややあって、海狼が口を開いた。「ここにいる間は、誰も邪魔はしない。私がここにいることは女戦士は知っているだろうが、一度も呼びに来たことはない」
「そのような場所に、わたくしがお邪魔しても――」
「お前は別だな」海狼は低く笑った。「お前は決して煩わしくはない」
 リィルは黙って目を伏せた。邪魔にはならないという言葉に安堵した。
「年を取れば、このように穏やかな日々が送れるようになるのだろうか」その言葉に、リィルは乗馬の上達具合を見るというのは口実で、ここに来ることこそが海狼の目的であったのだと悟った。「私は、それが待ち遠しい。お前は美しく老いるのだろうな。それを見てみたいと思う」
 日々のことで精一杯のリィルには、遠い未来のことは全く思い浮かばなかった。どこまで自分達は異なっているのだろうかと思わずにはいられなかった。
「そんな先のことをお考えなのですか」
「お前と出会ってからだ。それまでは、将来のことなど何一つ、想像したことはなかった。幼い頃から、進むべき道は決められていた」
 リィルは水平線を眺めた。それが、族長家に生まれるということなのか。
「私は、あと五日で海に出る」
 遠征のことだ。
「私の父は、遠征帰りの嵐に遂に戻らなかった。若く経験の浅い私は帰れたにも関わらず、より船乗りとしても秀でていた父は駄目だった。それは、私にも起こり得ることだ」
 死の話は、この島へ来る途中でも海狼は口にした。だが、何があっても自分の許へ帰って来ると誓ったのではなかっただろうか。顔が見えないのが、もどかしかった。
「どのようなお方だったのですか」
「母が生きていた頃は、快活だった。そして、哀しみに打ちひしがれながらも豪胆な人だった」
「――あなたに似ていらしたのですか」
「そう言う人もいるが、祖父により似ていると言われることもある。だが、何度鏡を見ても、私は私でしかない。面影はあるのだろうが」
 海狼は、リィルの身体に回した腕に少し力を込めた。
「私は、智に於いて祖父に及ばず、武に於いて父に及ばず、仁に於いてはエルドに及ばぬ人間だ」リィルの顔に、海狼の髪が落ちかかった。「お前を慈しみ、幸福にしたいと思いながらも、傷付けてばかりいる。それが、お前の人生であって良いはずがない」
「何を――」
 海狼が何を言おうとしているのか、リィルには全く理解できなかった。振り向いて顔を見たいと思ったが、身体に回された腕がそれを許さなかった。
「ソエルはお前を義姉(あね)として受け入れ、親しくしようとしている。何があろうと泣き言も恨み言も言わぬお前を見て目が醒めたのか、ようやくお前のことを理解し始めているようだ。そして、イルガスは、お前を母親として慕っている」海狼は溜息をついた。「あの日を境にイルガスの夜驚(やきょう)が始まった時、お前は、今まで最も近かった者の邪な部分を見てしまったからだと言ったな。あの年齢になれば、普通は子守りや乳母の手を離れるものだ。私は放っておくべきだと思ったが、お前はイルガスを宥め、我々の寝床で共に眠らせた。お前の愛情が通じたのか、次第に間遠になり、今では全くなくなった。私のやり方では、そうはいかなかっただろう」
 リィルを抱く腕に、更に力が加わった。
「お前は与えてばかりいる。我々はそれを享受するだけだ。そして、私はお前を傷付けてしまう。これまでも、恐らくこれからも」
 無言で、リィルは頭を横に振った。そのようなことは考えて欲しくはなかった。自分が与えてばかりだとも思わなかった。
「お前に出会った時、私は恋に落ちた。再び会いたいと思い、お前を欲しいと思った。草の根を分けても探し出すと誓った。それ程までに強く何かを欲したのは初めてだった。だから、お前を再び見た時には、お前を自分の物にせずにはいられなかった。だが――」海狼は言葉を切った。「だが、お前の心はどうだったのだろうか。お前は、私がどういう男なのか知らなかった。そのような私に身体を求められて、恐ろしくはなかっただろうか。お前は逆らうことを許されぬ立場だった」
 リィルが答えられるようになるまで、沈黙が流れた。
「恐れ、愕くばかりでした」
 ようやくそれだけを言った。
「私は、お前に選択させねばならなかったのだ。自分の意志で、決めさせなければならなかった。それを怠った罪は大きい。人は生まれながらにして自由だ、自由に生きろと(うそぶ)きながらも、私は、お前を支配していたのではないだろうか。お前が気付かぬ内に、私に都合の良い方向へ導いてはいなかっただろうか」
 分からなかった。だから、押し黙るより他はなかった。
「お前は、恩義を愛と思い込んではいないだろうか」
 思いがけない言葉に、リィルは顔を上げた。
「身を解放した私への恩義を、愛情だと勘違いしてはいないだろうか。愛情には報いなけばならないと、思い込ませはしなかっただろうか」
 囁くような声だった。
 そのようなことはない、と叫びたかった。だが、言葉は出て来ない。リィルは答える代わりに、海狼の腕に手を添えた。
「お前は優しい。求愛を受けねばならないと、思いはしなかっただろうか」
 リィルは激しく頭を振った。自分の愛情を疑われるとは思いもしなかった。言葉にしなくては伝わらないこともあるのだ。殊に、今の海狼は言葉による安心を必要としているように思えた。
「わたくしは――あなたに再び会いたいと思い、それがかなえられないのならば、一生、あなたの面影を(いだ)いて生きて行くのだと思っておりました」リィルは海狼の腕に頭を凭せかけた。「あなたが族長であったと知り、その部屋に連れて行かれた時には、族長であるあなたを魔女の目で見た罪で殺されるのだと、あなたの腕にかかるのならば、それも仕方のないことなのだと思いました。あなたの寵を受けても、島にお帰りになれば、この生命(いのち)を果てようと決めておりました」
「私の言葉を信じなかったのか」
 海狼の声は静かだった。
「あなたは族長でしたから。奴隷のわたくしなど、本当に愛されるはずがないのだと」
「そうか」海狼は溜息をついた。「お前にとっては、族長は皆同じに見えただろう。有無を言わせなかった私の言葉は、口先だけのものに思えただろう。それも、私がお前に選ばせなかったせいだ」
「そのようにおっしゃらないでください。求婚も、わたくしは、あなたと共にありたいと思い、お受けしたのですから」
「私は、自分勝手で欲深な男だ」
「それならば、わたくしも同じです」リィルは言葉を絞り出した。「わたくしはあなたに、子のできないことを隠しておりました。あなたのお側にいたいがために、黙ったまま、あなたの妻になりました」
「お前に子が出来ようが出来まいが、私の心は変わらない」海狼の手が、優しくリィルの頭を撫でた。「今でも、お前は私の子を望むのだろうか」
 リィルはびくりと身を震わせた。これが、本題だったのか。
「我々は、あれから五度試みて、不首尾だった。お前が悪いのではない。全ては、私のせいだ」海狼はリィルを胸に抱き寄せた。「このまま老いても私は構わないと思っている。子を育てたいとお前が思うのならば、養い子でも良い。兄弟が多いからと、女だからと始末される子は、北海に多くいる。そのような子を貰って来ても良いと思っている」
 涙がこぼれた。
「お前が泣くことでは、ない」
 だが、未だに海狼の身を受け入れられないでいることは事実だった。愛撫には身を任せることは出来ても、いざとなるとあの夜の恐怖が甦った。それを察して海狼は自分の欲求を諦め、ただリィルを抱き締めて眠るのだった。その身に燻る熱情を思うと、苦しかった。
 いつか、海狼は身の欲求を他の女で満たすようになるのではないかという恐れも、リィルは(いだ)いていた。二度と疑いはしない、と言っておきながら、自分は早くも海狼に疑いを持っているではないか。それでは、疑いを掛けられたからと言って責める事はできない。
「私にとり、ブランと過ごさねばならない夜は、若くはあっても苦痛でしかなかった」海狼はリィルの背を撫で、言った。「他の女達にしても、特に愛情を感じてはいなかった。誘うのはいつも向こうからで、私はその女のことが嫌いでさえなければそれで良かった。だが、お前は、違う。愛したいと思い、身も心も欲しいと思った。お前だけが、私の獣欲をかきたてる」
 海狼は少し、言葉を切った。
「お前を目にすれば、近くに置きたいと思い、近くに置けば触れたく、触れれば――と、私の欲は果てがない。終いには、お前を自分の物として執着した。お前がこの手の中から逃げ出さないようにと、囲い込んだ。私が遠征に出れば、お前は私が与えなかった考える時間を持ち、そのことに気付くだろう。私が、実は、愛情を盾に、ブランやイルガスを意のままにしていたマイアと異ならぬことを知るだろう」
 あの日以来、誰もが避けていた名に、リィルは背筋に冷たいものを感じた。
「そうなれば、お前は、私を厭い、憎むようになるかもしれない」海狼の声は、どこまでも穏やかだった。「当然の報いだ、私にとっては。だが、お前にとっては、そうではない。お前は幸福であるべきだ。私の身勝手な愛情の犠牲になってはいけない」
 自分達は、互いに愛情を持っていたはずだ。ならば、そこに、身勝手、という言葉は当てはまるのだろうか。
「お前への愛情と欲情とは、分かち難いものだ。以前の私は、そのことに振り回された。だが、今の私ならば、それを制御できる自信はある。お前が望まぬことを為す気はない。厭わしいとお前が思うのならば、もう、試みようとは思わない。私の獣の部分は、私の意のままにはならず、お前の身体に反応してしまうだろうが、それを我慢してお前が傍らにいてくれるのならば、このままに老いるのも悪くはないと思っている。身体を交えなければ本物の愛ではないと言う者もあろう。その逆を説く者もあろう。私は、身を結び合わせることは愛の目的ではなく、手段の一つに過ぎないのだと思い至った。身を一つにしても、それは束の間のことで、我々は結局、別々の人間なのだと思い知らされる。互いの愛情を確認する為ならば、こうしているだけでも充分だ。私の激情も、(よわい)を経て行けば落ち着き、ただ寄り添いあうだけの穏やかな日々を楽しめもしよう」
「わたくしが、あなたを愛さなくなる、とお考えなのですか」
「そうならなければ良いと思っている。私の情欲は、お前を困惑させ、苦しめるだろう。女にもその欲求のあることは知っているが、お前はどうなのだろうか。あのような体験をして、そのような心は消えてしまったのではないだろうか。こうしていてさえ、お前は我慢をしているのではないか」
 浅ましく、恥かしいと感じていた思いを口にするのは憚られた。しかし、この人は言葉を必要としているのだ。
 リィルは目を閉じ、海狼の身を抱いた。
「あなたと愛を交わすのは、わたくしの望みでもあります」
 海狼の腕が、一層強くリィルを抱き寄せた。
「お前に恥かしい思いをさせるつもりはなかった。あのような年月を送って来たにも関わらず、お前は素直だ。お前の愛情を疑うなどと、私は愚かだ。だが、あの日からの穏やかな日常に、私は、自分自身と向き合うことを余儀なくされた。そして、愕然とした」リィルの髪を、海狼は撫でた。「私は、そもそもの最初から、お前に選択肢を与えなかった。解放した者には、まず、我々の仲間として生きるかどうかを選ばせるというのに、私はお前にそれを教えなかった。族長としても、この島の人間としてもあってはならない事だ。
「誰よりも、何よりもお前を愛している。幼い頃より父を見て、愛しすぎるのは危険だということは知っていた。だが、同時に憧れもした。私にとっての運命は、愛する女の形をして現れるのだと、信じて疑わなかった。運命であった父母は何の問題もなく共にいたように私には見えた。故に、お前ともそのように生きて行けるのだと思っていた。平穏と幸福を、お前と享受するのだと疑わなかった。食卓に上る乳酪の多少で諍うような、そんな生活を送るのだと思った」
「これから、そのような日々が待っているのかも、しれません」
「ああ」海狼は溜息混じりに言った。「ああ、それが、叶うのならば」
 海狼の不安も、その父親の不帰を思えば理解できた。
「わたくしが、父やあなたがおっしゃるように海神の娘であるだとすれば、わたくしは、あなたを海で失うようなことにはならないでしょう。そして、あなたが帰っていらっしゃいましたら、静かに冬を過ごせましょう」
「私は、お前を辛い目にばかり、あわせている。海神は、それを好ましくは思うまい」
「ベルクリフさま」リィルは、海狼の身体に回した腕に力を込めた。「ベルクリフさま、そのようにご自分を責めないでください。わたくしは、あなたが思っていらっしゃるよりも心の狭い人間です。あなたが他の女性に、その身をお与えになるのではないかと疑い、前の奥方様と較べられているのではないかと感じました。そのような者のことで、あなたのお心を煩わせないでください」
「自分を卑下してはいけない」
「そのお言葉は、そのまま、あなたにお返しいたします」
 髪を撫でていた海狼の手が止まった。
「言葉少ないお前としては、辛辣だな」低く笑った。「だが、悪くはない。ああ、全く、悪くはない」
 リィルは海狼の顔を仰ぎ見た。青い目が、見つめ返してきた。
「我々は、新しく始められるだろうか。これまでにも増して、互いに愛し合い、慈しみあえるだろうか」
「わたくしは、そう願っております」
 海狼は微笑んだ。
「お前の願いは、全て叶えたい。リィル、私の妻にして恋人――お前に自分の醜い部分を見せるのは恐ろしい。だが、偽りの自分でいるのも辛い」
「醜いとは思いません。あなたの強さも弱さも、全てをわたくしは愛しております。ですから、どうぞ、真実のあなたでいてください」
「お前は、本当に善い女だ。私の弱さを知るのはお前だけのように、熱情に身を任せるお前を知っているのは、私だけだ」リィルは頬が赤くなるのを感じた。「私がお前を自分だけのものにしておきたいと思うようにお前も感じていたとは、愕きだ。私は、お前のものだ。この身も、心も、お前だけのものだ」
「あなたは族長なのですから、それは無理なことと存じております。あなたは、誰のものでもありません。わたくしの、わがままなのです」
「私は、お前だけのものでありたいと思っている」海狼の手が、リィルの頬に触れた。「それは、許されぬことだろうか」
 リィルは海狼の胸に顔を埋めた。それ以上の言葉はなかった。黙ったままの二人を、波の音が包んだ。
「私の父は――」ややあって海狼が言った。「私の父は、母が亡くなった後、ひと月近く、エルドに会おうとしなかった。名も、与えなかった。その間、私と叔父の奥方は手分けして貰い乳をして回った。族長の名付けぬ子を、認めない者もいた。ようやく名付けても、父はエルドに興味を示さなかった。愛情を注ぐようになるまで、一年はかかったと思う。父は乳母や子守りを家に入れようとはしなかったので、私は、エルドを生かすことに必死だった。やがて、叔父夫妻にソエルが生まれた。三人目にして、ようやく二歳を迎えられたと喜んだのものの、二人は流行り病で呆気なく世を去った。私は、ソエルを引き取った父に、従妹ではなく、妹として慈しめと言われた。口さがない連中が、ソエルに我々が実の兄妹ではないと教えるまでは、本当の兄だと思っていたようだ。だから、あの二人は私が育てたようなものだ。それでも、あの二人とイルガスとでは違っている。私は、生まれてから一度も、あれを抱いたことがない。エルドにしてもソエルにしても、その重さ、感触、香りを憶えているというのに、イルガスには何の思い出もない。愛しているのか、という問いに、答えられない。先の二人には私は愛着を持っているが、イルガスとはそれ程の時間も過ごしてはいない。正直な話、お前があれを寝床に入れた時が、最も近くにあった時だ。あの時、お前は我々の間にあれを寝させようとした。愛情深い両親によって、そのようにお前は育ったのだろうが、あれは私を恐れた。イルガスが私を見る目は、父親に対してのものではない。族長に対するものだ」海狼は深く息を吐いた。「血の繋がりがあるとは言っても、私はイルガスをあの二人のようには思うことが出来ない。我々は、貴重な最初の五年もの間、断絶していた。私がイルガスを欲したのは、妻との関係を断つ為だった。産まれるまでも、愛情があった訳ではない。産まれたからと言って、愛情が生じた訳でもない。あれの存在は、消し去ってしまいたい前の妻のことを思い出させる。憐れな子だ。恐らく、その関係は、一生、変わらぬと思う。だが、お前とイルガスとが二人でいる姿は、まるで本当の姉弟(きょうだい)母子(おやこ)のように見える。夜、炉辺でお前がイルガスの靴下を編んでいる様子を眺めていると、私は、それ程までに愛情をかけて貰っているあれを妬ましく思うくらいだ。お前という存在を通じてのみ、我々は父子でいられるのだろう」
 海狼の青い目が、リィルを見た。
「そんな男でも、お前の子や養い子の父親になれるのだろうか」
「この島の集落にさえ、子には関心のない父親もおります。あなたは、あの子のことを気にかけていらっしゃるではありませんか。あの子は、あなたから引き離され、親しまないように育てられたのです。お互いに愛着が育たなかったのは、そのためだと思います。いずれ、あの子もそのことにも気づくでしょう」
 リィルの心には、海狼が自分を殺そうとしていると信じていたイルガスの姿が甦った。恐ろしい夢を見た夜などは、再びその言葉がイルガスを脅かしていたのかもしれない。
「優しい女だ」そう言って、海狼はリィルの額に唇付けた。「そのような時が来れば良いのだが」
 諦めたような海狼の言葉に、リィルは沈黙するしかなかった。イルガスがどのような話を吹き込まれていたのかは、既に海狼に話してあった。その時、海狼は驚愕し、暫し沈思した。父親として胸を突かれるものがあったのだろう。時が経てば、海狼も父親であることに慣れ、イルガスも親しむようになるのかもしれない。
「エルドとソエルには、私の(てつ)は踏ませたくはないと思っていたが、どうやらその心配はなさそうだな」
 リィルは黙って目を伏せた。
「何か、気になることでもあるのか」
「ローアンは正式に療法師になるまでは結婚はしない、と言っておりました。恐らく、後一、二年でそうなれるでしょう。でも――」
「でも、何だ」
「ローアンは、ひどい目にあっております。あの()は何も言いませんが、わたくしのように苦しむのでしょうか」
 海狼は少し考えるようだった。
「ローアンは強い。だが、その強さにはしなやかさがないように私には見える。意地でも負けない、という気概は感じるが、それでは、いつか折れてしまう。お前やエルドの支えがあれば、乗り切れるだろう。その時の我々の状況はどうあれ、お前はその悩みに寄り添うことが出来る。それに、エルドは私と異なり、心優しく、気長に待つことの出来る男だ。もし、二人が結婚、という形を取らなくとも、私は愕かないし、心配もいらぬと思う。ソエルにしてもそうだ。どのような道を選ぼうとも、エルガドルはソエルの意志を尊重するだろう」
 ソエルが結婚について良い考えを持ってはいないことは、リィルも知っていた。女が生き方を限られているのは確かだ。しかし、同時に男も限られた生き方しか出来ないのではないだろうか。現に、海狼は族長という未来しか許されなかった。
「私はお前を、結婚という形で縛り付けなければ不安だった。運命の女であったとしても、私を愛するとは限らないからだ。今では、お前はいつでも私を離婚出来ることも知っている。歩み去るのは、お前に与えられた権利だ」海狼は溜息をついた。「私は小狡いな。お前には、人前で私を打つ、などという行為が出来ないであろうことも見越していた。お前は、このような男に一生、縛り付けられるのだぞ」
 海狼が自分に執着したと言うのならば、自分も海狼に執着している、とリィルは思った。
「あなたが、心は移ろわないとおっしゃるのならば、わたくしもまた、同様です。わたくしも、あなたを神々への誓約で縛り付けているのではありませんか」
「私は、神々の御前(みまえ)に誓ったからには、共に貞節であるべきだと思っている」
 海狼は微笑んだ。穏やかな顔だった。「愛の形は人それぞれだろうが、その点では、我々は似ているのかもしれない。それは、互いにとって良いことだと思う。お前は惜しみなく愛情を与える者だ。私にも、イルガスにも等しく愛情をかけているように思えた。私が欲していたのは、イルガスのように愛されることではなかった。広い意味での愛ではなく、私一人だけに向けられる狭義の愛だ。私は、お前によって自分が如何にそのような愛に(かつ)えていたかを知らされた。私の果てのない渇きと飢えを、お前は何事でもないかのように満たしてくれる。お前の言葉を得て、私は、もう大丈夫だ。惑わされることはないだろう」
 リィルは身じろぎもせず、その声を聴いていた。自分は、海狼のようには断言できない、と思った。今後、海狼の目が若く美しい娘に行くことがあれば、心は波立たずにはいられまい。それは、疑うということではないだろうか。
「わたくしは、あなたのように言うことはできません」リィルは意を決して言った。「わたくしは、あなたの目に入る全ての娘に嫉妬するかもしれません」
 海狼は低く笑った。
「それが、私の望みだと言ったらどうだ。私はお前の愛を独占したいのだから。私が何があってもお前の許へ戻ると言ったのは、魂となったとしても、という意味だった。私の生きている間はそんな度胸のある者はおるまいが、死して後、お前に言い寄る者があるかもしれないと思うと、おちおちと死んではいられぬ」
「わたくしに言い寄る人など」
「それは、私に失礼だとは思わないか」海狼は厳めしく言ったが、その中には笑いが含まれていた。「何を美しいと思うのかは人によるだろう。ソエルを美しい、と言う者もあるが、私には子供にしか見えない。まあ、襁褓(むつき)の内から世話をしてきたのだから仕方のないことだが、ローアンにしたところで、美しいと言われれば、ああ、そうかとは思うが、それ以上に心を動かされることはない。だが、お前は別だ」と、リィルの頬を撫でた。「お前は、大輪の花ではないかもしれないが、この島の、冬の終わりに最初に咲く小さな花と同じ美しさを持っている。儚げでいて強く、喜びをもたらす。私は、それを愛でて止まない。それでは、嫌か」
 リィルは(かぶり)を振った。
「血腥い遠征にあっても、お前は私の心を照らしてくれるだろう。ここは小さな島だが、それでも、善人ばかりではない。族長であるので仕方なく、若い私の言葉や命令に従うという者もいる。繊細で傷付きやすいお前を、そのような中に置いて行くのは気掛かりだが、遠慮なく人を頼れ。今までのように一人で抱え込んではいけない。頼り方が分からぬのかもしれないが、困ったと思ったことは、エルドやミルドに言えば良い。ミルドは、父の帰らぬことに茫然となって日々を送っていた我々を見かねて手伝ってくれるようになった女だ、困っているお前を放って置くことはない。だが、お前は隠すのが巧い」
「――努力いたします」
「素直なのは、良いことだ」
 海狼はリィルの頭を胸に抱き寄せた。
 そのまま海狼は黙り込み、リィルはその鼓動と海の音に聞き入った。
「そろそろ、帰らねばならないな」
 どのくらいの時が経ったのか、海狼が口を開いた。「このまま二人でいたいが、詩的ではないことに、我々は生活者だ。愛を語る時間よりも今日の糧の話をする方が優先される」
 その言い種に、リィルは思わず微笑んだ。陽は、既に傾き始めていた。
 どちらからと言うこともなく、二人は立ち上がった。砂を払い、海狼はリィルの手を引いて岩場を上った。馬は、放った場所より少し離れたところで並んで草を食んでいた。
「手を繋いで歩くのも、また良いものだな」
 リィルは慌てて手を放そうとしたが、海狼は握る手に力を入れた。「このようにして、我々は人生を歩んで行こう」
 黙ったまま、二人で手を取り合って馬のいる場所まで歩んだ。
「あなたはこの島の馬は、小さいとおっしゃっていましたが、この馬は、あの島の馬と異ならないように見えます」
 海狼の馬を間近に見て、最初に思ったことをリィルは口にした。馬が小さい、とは言っても、あの島では間近に見る機会が殆どなかったリィルには、それほど差があるようにも思えなかった。どのみち、鐙革は馬の腹より長いのだ。ただ、海狼のように人よりも長身であれば、鐙に掛けた足が所在なげに見えるのは、仕方のない事であろう。
「ああ」
 海狼は破顔した。「こいつはお前の馬のような体格の両親から生まれたにしては大きい。それでも、南溟(なんめい)にはもっと大きな馬がいる」
「あなたのように背の高い方には、その方がお似合いに思いますが」
「交易島で見て試しに乗ってみたことがあるが、確かに、見た目は良いな。だが、あの大きさではこの島まで連れて来るのが大変だろうし、食う量も多い。それに、去勢してあるので繁殖にも使えない。冬毛にもならぬそうだ。それではこの島の冬は越せないだろうし、闘馬は猶更だ」海狼は誇らしげに馬の首を軽く叩いた。「こいつは闘馬でもこの二年は優勝している」
「あなたも、闘馬をなさるのですか」
 リィルは少し愕いた。
「数少ない娯楽の一つだからな。父も好きだったが、調子に乗って賭けるもので、良く母に説教をされていた」
「賭けをなさるとは思いませんでした」
「程ほどにな。良い馬を持ちながらも参加しないのは、族長として恥かしいと父は言っていたな。まあ、盛り上がりには欠けるかもしれない。それでは、皆が楽しめないとは思わないか」
「夏至祭で闘馬は女子供の見るものではないと言われましたので、わたくしには判じかねます」
「そうだな」海狼は声を上げて笑った。「確かに、女子供に見せるものではないな。十二になれば男子はその手伝いに駆り出されるが、女は駄目だ。女戦士であっても、それは変わらない。闘馬では優勝した馬には、島で最も美しい牝馬があてられる。その牝馬を巡って牡が戦う。馬小屋に閉じ込められて禁欲させられ、牝を前に興奮しきった牡を引いて行くのは危険なことだ。一物をおっ勃たせて猛り狂う馬を鎮めるのに、最後は睾丸を摑まねばならない。噛み合って多くの血が流れるし、毎年、何人かが怪我をする。優勝が決まればその場で種付けだからな」
 リィルは顔が真っ赤になるのが分かった。海狼が笑みを浮かべて自分を見ていることに気付き、慌てて顔を伏せた。揶揄われているのだ。そして、話題を変えた。
「――あなたのお母さまは、どのようなお方だったのでしょうか」
 海狼は少し、考えるようだった。
「明るく、優しい人であったよ。美しくもあった。私は似なかったのだが、エルドは今でもその面影を濃く持っている。そして、強かったと思う。生まれながら奴隷であった為に読み書き計算は出来なかったが、それは大したことではなかった。叔父がいたしな。自身が賭けの(かた)になったことがある為か、賭け事は嫌いだった。父さえも、母には勝てなかった。私よりも小言を言われている回数は多かったのではないだろうか。高座にいて渋い顔で母の言葉を聞きながら、居心地悪そうに私のことを見ていたのを、今でも思い出せる。闘馬をはじめとして骰子に遊戯盤、果ては誰彼に産まれて来る子の性別までと、父は北海の男の常として賭け事が好きだった。それも、母が亡くなるまでだ。それを境にきっぱりと止めた。そして、母が亡くなってから、父は一度も族長室に入らなかった。そこには恐らく、生きていた母とその死の記憶が残っていたからだろう、以来、大広間で起居していた。思い出さえも辛い程に、愛していたのだと思う。結婚した時に正式に私に渡されたが、それまで私はずっと、エルドとソエルを族長室で世話していた」
 七歳の子供には、過ぎた重荷だとリィルは思った。
「辛いことをお聞きしました」
「たまには、思い出してみるのも悪くはない。母との思い出は少ないが、それでも、貴重なものだ。母は私を愛してくれていた。形は違え、父もだ」
「――はい」
 自分も、そうだ。ほんの僅かな記憶であっても、大事であった。幸せであった頃の思い出は、小さくとも、いつでも胸を照らしてくれる(ともしび)となろう。母親の記憶を持たないエルドとソエルには、海狼との思い出がそれに代わろう。
「また、ここに来よう」海狼の言葉に、リィルははっとした。「今度の夏に、再びここに来て、二人で過ごそう。ただ、時が過ぎ行くに任せ波の音を聞くだけで良い。それぞれの想いに浸るのも良いと思う。私は、お前とそのような時間を持ちたい、幾らでも」
 二人の未来に希望のある言葉に、リィルは胸には温かいものが広がった。
「許されるのであれば」
 その答えに海狼は笑った。
「私は族長だ。時間は作る。今日のように」
 リィルは微笑むと、海狼の首に腕を回し、背伸びをした。そして、愕いた顔の海狼の唇に自分の唇を重ねた。髭が、くすぐったかった。
「あなたの幸せが、わたくしの幸せです」
 海狼はリィルを抱き締めた。
「お前の一つの行いは、幾千万言にも勝る」
 暫く二人は無言で抱き合っていたが、やがて、どちらともなく腕を解き微笑みあった。
「名残は惜しいが、そろそろ刻限だ」
 (うなが)されて、リィルは海狼の手を借りずに、よじ登るようにして鞍に跨った。手綱を持つ間にも、海狼は馬上の人となっていた。その姿は、眩しいほどだった。初めて海狼を見た時のことが甦った。
 初めてこの人に出会った時、自分はこの人に恋をした。神々の一人のように美しい姿に、優しい言葉に、恋心を(いだ)かずにはいられなかった。それが愛に変わったのがいつなのかは、定かではない。
 姿容貌(かたち)はどうあろうと、この人だからこそ愛するのだと気付いたのは、いつだっただろうか。強さも弱さも、全てを愛しているのだと悟ったのは、いつだったのか。
 海狼はこの人の族長、戦士としての姿であり、ベルクリフは人間としてのこの人であった。
 海狼としてのこの人は、強い。弱みなど一切見せない、近寄りがたい孤高の存在だった。だが、二人きりでいると、弱さも優しさも持ち合わせた人間であるベルクリフが現れる。そのどちらをも、リィルは愛した。
 自分が愛されるなど、思いもしなかった。他の女性に較べて背も低く、瘦せている。容貌には自信がなく、表情も言葉も豊かな方ではない。取り戻した記憶の父母は美しく輝いていた。少しでも似ていれば良い、と鏡を見ても、そこに映じるのは両親の面影はあっても小作りで地味な自分の顔であった。海狼が、自らの姿を映しても、そこには面影のある自分の顔があるばかりだ、と言ったのと同じであった。
 この人は、そんな自分を愛し、慈しんでくれている。それ以上の喜びや幸福を望むのは、欲が深いのかもしれない。
 訝し気に海狼が自分を見ていることに気付き、リィルは目を逸らせた。
 沈黙の内に二人は馬を進ませた。初めは海狼が先頭であったが、ややあって馬を並べて来た。
「疲れはしていないか」海狼が口を開いた。「思わぬ遠乗りになったのではないか」
 大丈夫だ、と答えたリィルに、海狼は疑わし気な目を向けた。
「お前は我慢強いからな。だが、どんなに弱音を吐いても、私は困らぬよ」
 リィルは微笑んだ。無理をしてのことではなかった。
「――何だ、大丈夫なのか」
 少しつまらなそうに言う海狼に、リィルは目をやった。
「お前が疲れたのならば、同じ鞍に乗れば良いと思ったのだが」
 愕いて、リィルは海狼を凝視した。その視線に、海狼は苦笑した。
「そういう嘘も、時には良いものだ、ということだ」
「嘘が、よいのですか」
「嘘の全てが悪いものとは限らない。重い病に生命の灯が消えようとしている者に、お前ならば偽りであっても安心の言葉を掛けるだろう。その点では、正直ではあっても療法師は残酷だ」
「でも、大丈夫なものを大丈夫ではないとは言えません」
「そうだな」海狼は声を上げて笑った。「それは、お前には縁のない、女の恋の手管だからな。おいおい、学んで行くと良い」
 釈然としないままにリィルは口を閉ざした。意味が分からないと思った。
「私がお前に腹を立てることは、これから先、あるまいな」
「乳酪の多少にかかわらず、ですか」
「お前の気前の良いことを苦くは思っても、腹を立てるまではいかないだろう」
「族長は気前よくあれ、と教わりましたが」
「父もそう言った。気前良すぎるのも考えものだと、母は文句を言っていた。冬の蓄えを使い切ってしまう気か、と」
 そう言われれば、一言もなかった。自分には、家計を回すだけの知恵がない。帳簿を読み取ることが出来ても、それを実生活に反映させなければ意味がないのだ。
「お前も一年を通じて過ごせば、加減も分かろう。だが、それでも、お前は客に不自由をかけまいと精一杯のことをするだろうな」海狼はリィルに笑いかけた。「それに腹を立てることなど出来はしない」
「あなたは、寛大すぎます」リィルは言った。「改めなくてはならないことは、おっしゃっていただかなくては困ります」
「改めねばならないとは思わぬからな。それに、私の冷酷さは知っているだろう」事もなげに海狼は言った。「私が深奥の獄に送ったのは、一人や二人ではない」
 闇に閉ざされた波の打ち寄せる冷たい牢獄のことを思うと、ぞっとした。実際に見たことのあるのは、エルドやエルガドルのような海狼に近く仕える者だけであったが、皆が恐れる場所だった。
「族長としてのあなたは、寛大ではないとおっしゃるのでしょうか」寒気を払ってリィルは言った。「あなたは、法に(のっと)って裁定を下していらっしゃるのでしょう。それを冷酷と言う者はおりませんわ」
「お前のような考えの者ばかりではないということだ」
 その言葉に、一抹の哀しさが含まれているように思われた。「私がブランに為したことを忘れた訳ではないだろう」
「――あなたは、悔いていらっしゃるのでしょう」
「親が縁談を決めて求婚の折に初めて相手を知るという者であっても、互いに慈しみ合い、添い遂げる者も多いというのに、私は子供の頃から知っていながらその本質を見抜く目を持たなかった。言い訳だが、最初は、私もそのような夫婦のように暮らして行けるのだと思い、それなりに気も遣い、理解しようとした。しかし、ブランは私の世界を理解する気もなく、愛する者を愛そうともしなかった。互いへの怨嗟、そして無関心へと変わるのに、それ程時間は掛からなかったと思う」海狼は首を振った。「悔いているのは、自らの為した愚かな行いに対してだ。ブランに対してではない。お前に過去の話をした時に、お前はブランが可哀想だと言った。確かに、憐れな女であったと思う。自分の他には、誰も愛さなかったのだから」
「それでも、あなたは貞節でいらっしゃったのでしょう」
 先の海狼の言葉を思い出した。
「私は、愛のない相手を娶り、愛せぬままに過ごした。愛と婚姻の女神を欺いたのだ。ブランは懐胎が分かった時に、自分は始末したい、子は愛人に産ませれば良いだろうとも言ったが、私には、それも女神への裏切りだった」海狼はリィルの目を真っ直ぐに見た。「嫌がる者に生死をかけた出産を強いるのは、冷酷なことではないか。それも、自分の荷を降ろしたいが為に」
 思わず、リィルは手綱を引いた。
「本当に憐れなのは、イルガスだ。そもそもの最初から、母親にも愛されなかったのだからな」
海狼も馬を止めた。「お前は継母だが、生みの母よりもずっと深く、あれを愛してくれている。父親である私よりもずっと、本当の親のようだ」
「あなたは、どうしても、ご自分を悪者にしたいのですか」
 思わず口をついて出た言葉に、リィル自身が愕いた。「どうして、そのように嫌われようとなさるのですか」
 海狼は虚を突かれたような顔になった。
「わたくしを試されているのですか。わたくしの心を離そうとなさっているのですか。どうして、そのようにご自分を傷つけられるのですか」
「それが、真実だからだ」海狼は静かに言った。「私は、自分の望むものを知っている。それ以外のものは切り捨てることのできる、冷酷な人間だ」
「あなたが傷つけられる時、わたくしもまた、傷つきます。それを、あなたはお望みなのでしょうか」
「お前が傷付くことを、望む訳がなかろう」海狼の声が固くなった。「私は傷付く程、弱くはない」
「いいえ、あなたはご自分の言葉で、ご自身を切りつけていらっしゃいます。それとも、わたくしからの憐れみと、慰めの言葉を必要となさっているのでしょうか」
「憐れみも慰めも、私は必要としていない」
「では、お願いです、ご自分を責めるのは、おやめください」リィルの目から、涙がこぼれた。「過去には戻れないのです。悔いても、哀しんでも、過去へは戻れないのです。どうか、ご自分を冷酷だ、などとおっしゃらないでください」
 リィルは顔を手で覆った。
「お前が泣くことではないよ」穏やかな声だった。「自分を貶めることは、私を愛してくれているお前をも貶める行為であった。私は、お前にそう言ったのだったな。だが、これは私が背負って行かなくてはならないことだ」
「では、その重荷を、わたくしにも共に背負わせてください」
「その必要はない。お前は今まで充分に苦しんで来たではないか」
「共に歩いてゆこうとおっしゃるのならば、どうして、わたくしだけが身軽でいられるでしょうか。あなたの後悔や苦しみ、哀しみをわたくしにも分けてください。あなたは族長であれば、余人には弱いところをお見せにはならないでしょう。頼りなく思っていらっしゃることでしょうが、どうぞ、わたくしに寄りかかってください。わたくしの荷を、共に背負いたいとおっしゃったのは、あなたではありませんか。頼ることを知らないのは、あなたも同じではありませんか」
 一気に言うと、リィルは涙を拭った。「あなたがわたくしの良人であるならば、わたくしはあなたの妻です。苦しく、哀しい時には、お互いに支え合うのでは、いけませんか」
 海狼は無言でリィルを見つめた。その心の動きを測ることは出来なかったが、リィルは自分が間違ったことは言っていないと思った。人に頼らずに生きて来たのは、海狼も同じだ。小さなエルドとソエルを抱えて、誰よりも強くあらねばならなかったのは、海狼だ。かつて海狼は、自分の胸で泣けば良い、と言った。ならば、リィルの胸も海狼に対して開かれている。
「なぜ、私の重荷まで背負う必要がある」ようやく、海狼は口を開いた。「お前の苦しみと哀しみは、大きい」
「わたくしの苦しみと哀しみは、癒えましょう」リィルは言った。「わたくしは、全てを失いましたが、あなたは、わたくしに新しい家族をくださいました。あなたの支えになれるのでしたら、それはわたくしの喜びです。哀苦を増すものではありません」
「喜び、なのか」
「あなたのお心を少しでも軽くできるのであれば。わたくしなどが、あなたを癒すことなどできるとは思いません。でも、あなた一人では、担うに重いものもございましょう」
「お前は、私の癒しだ」海狼は静かに言った。「お前に頼られるのは、許より願っていたことだ。それと同じことを、お前は言うのか」
 リィルは頷いた。
「わたくしの胸は、あなたを抱きとめるには小さいかもしれませんが、それでも、少しはものの足しにはなるでしょう。互いに寄り添いあって生きる、とは、そういうことを指すのではないでしょうか」
「今のお前は、雄弁だ」海狼は笑んだ。「だが、私は族長だ。頼ることは許されない」
「族長とても、人間です。お休みになりたい時もありましょう、投げ出したい時もございましょう。わたくしは、そのような時に、あなたの逃げ場になりたいのです。弱い、とおっしゃる部分のあなたに寄り添い、人の前で強くあれるように支えたいのです。過去が、あなたを苦しめるのでしたら、どうぞ、その時にはわたくしに全てを吐き出してください」
「吐き出したからとて、解決するものではない」
「解決しようというのではありません。あなたは、ご自分はわたくしのものだとおっしゃいました。ならば、その苦しみもご一緒させてください。根の国へ行った人々は、この世の全てを忘れて、次の生まで安らかな気持ちで眠っていると聞きます。あなたの奥方さまも、あなたへの怨嗟をお忘れです。今はただ、眠っていらっしゃるのです。あなたを苦しめるのではありません」
「私は、あれが根の国に行ったかどうかは分からない」海狼の声に感情はなかった。「死者にも分限というものがある。ブランは、女神を愚弄した。私も――根の国には行かぬだろう」
「あなたは、北海の戦士として死ぬことをお望みですか」
 北海の男達は、戦いに斃れ、勇あるものとして大神の軍に加わることを祈念する。年齢や病に死にゆく時でも手に剣を持ち、戦士としてし逝く事を望む。
「お前は海神の娘だ。死すれば海神が呼ぶだろう。だが、私はどうだろうか。最後には剣を手に戦士として死にたいとも思い、海神の船団に迎え入れられて死してもお前と共にありたいとも思う。それでも、愛と婚姻の女神は私を許されまい。一人の女を不幸にし、死なせたことをお許しになることはないだろう。私は、妻であるとは言え、力尽くでお前を抱きはしなかったか。それも、女神の御心(みこころ)に適うことではない」
「ならば、わたくしを幸せにしてください」リィルは声を上げた。「そうすれば、女神はあなたを大目に見てくださるでしょう。わたくしの幸せは、あなたの幸せだと申し上げたはずです。あなたが幸福にならなくて、どうしてわたくしの幸福があるのでしょうか。あなたは、女二人までも不幸にするとおっしゃるのですか」
 その言葉に、海狼の顔が曇った。
「お前を不幸にしたくはない」
「過去は変えることはできません。決して振り返らないでくださいと言うのではありません。烏滸がましいとは思いますが、あなたにはわたくしがおります。わたくしは、あなたの人生を幸せにする存在でありたいのです。あなたは、過去よりも未来を見ようとおっしゃいながらも、ご自分は過去をばかりご覧になっていらっしゃいます」
 海狼は、じっと考え込む風であった。リィルはただ、その言葉を待った。
「そうだな」
 ややあって海狼は言った。「私は、未来を見たいと言いながらも、自分は過去に縛られていたのかもしれない」
「わたくしは、日々を生きるのに精いっぱいで、未来を思うことがありませんでした。それは、今も変わりません。でも、あなたと共に老いる夢を見たいと思います。それが現実のものになればよいと思います」
 海狼は無言で頷いた。
「あなたがわたくしを守りたいとおっしゃったように、わたくしも、あなたを守りたいのです。全ての害悪から、あなたを苦しめるものから、あなたを守れる力が欲しいのです」
「有難う」海狼はゆっくりと言った。「私を愛してくれて、私に愛させてくれて、感謝している」
 リィルは赤くなった。急に、自分の語った言葉が恥かしくなって目を伏せた。
「それは、わたくしの言葉です」
 そう呟くと、口を閉ざした。
「私は、愛するにしても愛されるにしても、不器用だ」海狼の声は優しかった。「不用意な言動でお前を傷付けることは、これからもあるだろう」
「わたくしも、あなたを傷付けることがあるかと思います」
「それを恐れるものではない」
 リィルは目を上げて海狼を見た。「お前の根底に、私に対する愛のあることを知っていれば、それは恐れる程のことではない」
 海狼は再び馬を歩ませ、リィルはそれに続いた。
「随分と、暗い話ばかりになってしまった。私は、両親のように快活な人間ではないからな」自嘲気味な言葉だった。「せめて、長い冬はこのような話はしたくはない」
「冬は、皆が遠征のお話を聞きたがるのではないでしょうか」
「それは、詩人(バルド)に任せよう。私に語るべきことはない。戦士としての私を、お前に見せたいとも思わない。お前も、奴隷船の船員どもを睥睨して、殺せと命じる私を見たくはあるまい」
 血腥い、と海狼は先にも言った。男達が好んで語る遠征は、海狼にとっては、楽しい話題ではないようだった。
「わたくしとて、血の流れるのを見たことがないわけではありません」
「だが、まだ肉は殆ど食べられないだろう。冬になれば、食べる物が麺麭より他に乾酪だけでは生きては行けぬ」
「魚は、大丈夫です」
「干し魚と塩漬けだけか」海狼は頭を振った。「それでは、駄目だ」
 血に染まった海は、まだリィルの心を悩まし続けていた。それでも、心強くあらねば、夏でもより寒冷なこの島の冬は越せないとは理解していた。
「努力を、いたします」
 海狼は頷いた。
「血の腸詰を食べろとは言わぬ。せめて、羊肉くらいは口にできるようになって欲しい」
 島の人よりも数が多いという、羊。人懐こく、好奇心の強いつぶらな黒い目をして、屠殺される時でも静かに引かれて行く生き物。海狼が遠征から帰れば、その選別が行われる。生と死が、分かたれる。
「我々の血肉となり、冬を生かしてくれることに感謝をするならば、その死も無駄になるまい」
 リィルの想いを読んだかのような言葉に、思わず海狼を見た。
「お前の優しさが、お前自身を殺してはならない」
「――はい」
 海狼は笑んだ。
「出航までは、慌ただしく過ぎるだろう。お前と過ごせる時間は少ない。それでも、私はお前を見ている」
「はい」
「ひと月が長いと思ったのは、これが初めてだ。帰る日が、今から待ち遠しい。それも、初めてのことだ。私の留守の間に、お前は冬支度を整えるのだろうな」海狼は首を傾げた。「私の靴下を作る時間はあるのだろうか」
 リィルは真っ赤になった。
「子供のものは、近頃、中つ海で編まれている方法で作っております。大人のものは、従来のやり方の方が暖かく丈夫だと言われておりますが、わたくしには難しくて――」
 海狼は頭をのけ反らせて笑った。
「お前にも苦手なものがあったのか」
「堅焼き麺麭を作るのも、苦手です」
「あれで苦手と言うならば、直ぐに習得できように」
 自分で味見をしてみた麺麭のことを思い出して、リィルは何も言えなかった。あれでは、魚も食べないだろう。
「では、少し急ごうか。我々は、少しゆっくりしすぎたようだ」
 海狼は馬の首に手綱を打ち付けた。
「お待ちください」
 慌てて、リィルもそれに続いた。
 海狼の言うように、この日のこともいつか懐かしい思い出となるのだろうか。
 生きて行く内には、様々な出来事があるだろう。どのように辛く、苦しい出来事があったとしても、二人でなら乗り越えて行けるのかもしれない。
 今日という日を乗り越えた二人であれば。
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