終章・海神の娘

文字数 10,544文字

 リィルは、長い長い夢を見ていた。
 遠い過去の、幸せだった時代。その終焉の日の、夢。
 幸せな夢に、いつまでも浸っていたかった。目醒めたくはなかったが、待っている人がいた。万難を排してでも、会いたい人がいた。
 ようやくの事で目を開けると、そこにはやはり、海狼がいた。
 いつもそうだったと、今更ながらにリィルは思った。
「目が醒めたか」
 穏やかな声も、変わらなかった。
「何も案ずる事はない。全ては、終わった」
 サリアとマイアの最期の姿が、脳裏に甦った。リィルは思わず、目を閉じた。
「まだ、顔色が悪いな。もう一度、休むと良い」
 掛け布を直そうとする海狼の袖を、リィルは引いた。眠りは、充分だった。
「どうした」
 柔らかなその声は、同時に、リィルの父を思い起こさせた。秀でた武人、領主にしてまた、漁師であった父のように、この人は戦士、族長であり漁師なのだ。この人達にとり、それは分けて語られるものではなかった。
 何という巡り合わせなのだろうか、と思わざるを得なかった。このように離れた場所で、同じ海神を奉じる人々が存在するとは。
「あなたは、なぜ、わたくしがあの場所にいることがおわかりになったのでしょうか」
 ようやくの事でリィルは言葉を発した。
「それは、イルガスの手柄だな」海狼は穏やかに言った。「あの子が、報せてくれたのだ」
「イルガスさまが」
 リィルは身を起こした。海狼は寝台に腰掛け、リィルの背を自分の胸に凭れさせた。無理をするなとは、言わなかった。潮の香りが、した。
「そうだ。あの子は、学問所から帰ったところだった。そこに、お前がふらつきながら歩いている事に気付いたそうだ。尋常な様子ではなかったが、その時はそれ程、気にも留めなかったらしい。何しろ、あれはマイアから、お前に関して碌でもない事ばかりを吹き込まれていたらしいからな。だが、その暫く後で、マイアとサリアが連れ立って物陰に隠れながらお前の後を追っている事に気付いたらしい。有り得ない組み合わせに二人を追ってみると、貴婦人の断崖に向かっている事を察したという」
 海狼は言葉を切り。リィルの肩掛けを掛け布の上に置いた。
「灌木に引っ掛かっていたのを、イルガスが見付けた。それすらも放って、女達はお前の後を追っていたそうだ。お前付きのサリアの様子に、何かがおかしい、と感じて私の所へ報せに来た」
「あなたの居場所を、ご存じだったのですか」
「他の者達が、お前の様子がおかしいと報せてくれて、私達は館の近くに戻ったところだった。ミルドは半狂乱でお前の姿がないと言うばかりだった。イルガスがいなければ、間に合わなかっただろう」
 集落の人で、報せてくれた人々がいたのだ。かつて海狼の言ったように、自分は一人ではなかったのだ。
 きつく身体に腕が回された。海狼の(こうべ)が、肩に落ち掛かった。
「洞窟の縁にいたお前を目にした時、心臓が止まりかけた。あの女の手が、お前の背を押そうとしているのに気付いた時、魂が粉々に砕けそうだった。咄嗟に動けたのは、まさに海神の御加護あればこそだ。あのような思いは、もう、御免だ」
 その声は、まるで泣いているかのようだった。
 リィルは、あの時の事を殆ど憶えてはいなかった。だが、自分の顔に降った熱い涙は、はっきりと思い出す事が出来た。
「ローアンと長が調べてくれた。お前の薬に、僅かだが毒草の香りが混じっていたそうだ。その微妙な量が、お前を弱らせていたらしい」
「でも、だれが」
 薬に近付ける者は限られているというのに。
「サリアだ」静かに海狼は言った。「あの女は、お前の友人で付き人だという事を利用して、何度も部屋に出入りしていた。あの女の持ち物の茶葉からも、毒草が見付かっている。薬の知識をどこで仕入れたものかは分からぬが」
 と、はっとしたように顔を上げた。
「そうだ、マイアだ。あれはかつて、療法師だった。マイアが毒草を用意し、サリアが混ぜたのだろう。どのようにして、二人が共謀する事になったのかは、今となっては分からぬ事だがな。だが、お前を亡き者にしたいという利害は、一致していたはずだ。そして、サリアは隙を見てはお前の心を弱らせるような事を言い続けていたのだろう。お前が貴婦人の断崖へと向かったのも、心身共に弱った状態で掛けられた暗示だったのだろうというのが、長の意見だ」
 飽くまでも推測に過ぎなかったが、尤もな事のように思われた。そして、身震いした。
「長の話によれば、心身の弱った状態の時には、自分でも気付かぬ内に行動する事が、まま、あるそうだ」
 再び、海狼はリィルの肩に頭を乗せた。そして、首筋に頬を擦り付けた。髭が、ざらざらとした。その痛みも、リィルには生きているのだという実感を、与えた。
「私は、自分の無力さをこれ程までに感じた事はない」その声は掠れていた。「もう少しで、何の罪もないお前を失うところだった。それも、私の過去に起因する事で」
「あなたの責任ではありません」リィルは言った。「マイア一人でしたことでは、ありませんもの。あなたは、最初から、サリアについてわたくしに警告してくださいました。それを押し切ったのは、わたくしです。サリアの心を、読み切れなかったわたくしに非がございます」
「お前は、人を疑う事を知らなさ過ぎる。仕方のなかった事だ。それに、毒草が美しい花を咲かせ、甘い香りで人を惑わせるのは、往々にしてある事だ」
「いいえ」リィルは唇を噛んだ。告白しなければ、ならない。「いいえ、わたくしは、こともあろうに、あなたを疑いました。あなたとローアンとが、中庭にいらしゃる姿を見て、疑いました」
「あの女に(そそのか)されて、であろう。弱っている時には、仕方のない事だ。自分に優しくしてくれる者を味方だと信じるのは」海狼は顔を上げてリィルの目を見た。「その時の事ならば、憶えがある。あの娘に、何故、お前が直るどころか弱って行くのかを、問うていた。当然、分からぬ事ではあったのだろうが、苛立っていた」と、微かに笑みを浮かべた。「お前に悋気(りんき)があったとは、嬉しい事だ。だが、誤解を招いたのは私の責任だ。今ならば、私を信じて貰えるだろうか」
「もう、決して、疑ったりはいたしません」
 リィルの目に、涙が湧き上がった。「愚かなわたくしを、お許しくださいますか。このような、浅はかなわたくしでも、あなたは、まだ、わたくしと比翼連理がごとく生きてくださるのですか」
「お前が泣く必要など、ない」海狼はリィルの頬に唇付けた。穏やかな声だった。「お前を苦しめたのは、私の不甲斐なさのせいだ」と、海狼はリィルの耳許で訊ねた。「ひよくれんり、とは、どういう意味だ」
「二羽で一羽の鳥のように、二本の木が幹と枝を絡ませて一本の木になるように、という意味です。二人の人間の、深い結びつきのことです」
 この人にも知らぬ言葉があったのかと、リィルは愕いた。
「どこで知ったのだ、そのような不思議な物言いを」
 夢が、甦った。
「父がよく申しておりました。父母のように比翼連理がごとく生きよ、と」
 海狼は突然、リィルの肩を摑んだ。
「思い出したのか」
「はい」リィルは青い眼を見つめて言った。「はい、全て」
 海狼はリィルを胸に抱き寄せた。「話してくれ、お前の事を。ゆっくりで構わない。辛ければ、最後まで話さなくても、構わない」
 リィルは語り始めた。

    ※    ※    ※
 
 全てを語り終えると、海狼は暫く黙ってリィルの背を撫でていた。そして、深く長い溜息を吐いた。
「その男はどうした」
「何年か後には、集落で姿を見なくなりましたから、亡くなったのでしょう」
「自分の手で、復讐をしたかったか」
 リィルは(かぶり)を振った。「そのようなことを思うには、幼すぎました。それに、何をなそうとも、過ぎ去った時間は戻らないのですから」
「お前の父君にお目にかかりたかったものだな。母君にも。素晴らしい方々であったろうに」
「あなたのような方に、そうおっしゃっていただければ、喜びましたでしょう」
 本心だった。
「だが、私は方々の嫌われる北海の七部族の、しかも族長だ。普通では、お前を娶る事は出来ない」
「あなたは他の部族長とは違います」リィルは言った。「陸を襲撃しない、とおっしゃったではありませんか。奴隷も取らない、と。父も奴隷を使う事を嫌い、全て解放しておりました」
「何に於いても、父君には適いそうにないな。それに、我々では、お前には出会えなかったであろう」
 苦笑する海狼の顔を、リィルは見上げた。
「でも、わたくしの家族は亡くなりました。そして、出会ってしまいました。過去に、もし、という言葉は禁物なのでしょうが、もし、わたくしの家族が健在で、偶然にでもあなたと出会ってしまったのなら、あなたは諦めてしまわれたのでしょうか」
「意地の悪い質問だ」海狼は少し笑った。「だが、決して諦めたりはしない。どれ程、誠意を尽くしてもお許しが頂けなかった場合には、ウルド老の言葉ではないが、お前を掻っ攫って、世界の果ての北海の、更に涯のこの島に連れて来ただろう。我々は運命だ。誰にもそれを邪魔させん。姿を目にした瞬間に、私には分かるだろう。やはり、お前に惚れ込み、虜になっただろう。ああ、だが――」海狼の目が、きらめいた。「そのような父君の前では、私など、お前の眼中には入らぬかもしれんが」
 冗談だ、という事は明らかだった。
「この期に及んで、まだ、そのようなことをおっしゃるのですか。わたくしは、初めてあなたにお目にかかった時、神々の一人が地上に降り立たれたのかと思ったほどですのに」
 海狼は頭をのけ反らせて笑った。
「買い被りすぎだな。お前は私が、どれ程の小物か、もう充分に知っただろうに」
「そのようにご自分を卑下なさらないでください。わたくしにとってもそうであるように、部族にとっても、あなた以上の方は望めません」
 大きな笑いは収まっても、海狼は小刻みに肩を震わせ続けた。こういうところは、エルドによく似ている、とリィルは思った。ようやくの事で落ち着くと、海狼はゆっくりと唇を合わせて来た。
 静かな時間が、暫し、流れた。
「兄上、義姉上の御加減は宜しいのでしょうか」
 何の前触れもなく扉が開き、リィルは、はっと身を離した。
「相変わらず、唐突な奴だ。夫婦の部屋に入るのならば、それなりの配慮をしろ」何事もなかったかのように、海狼は弟を嗜めた。「だが、そうだな、随分と顔色は良くなったな」
「それは重畳。さあ」
 海狼の苦言を気にする風もなく、エルドは自分の背後からイルガスを押しやった。
 少年は俯いて暫くその場に立ち尽くしていたが、再びエルドに背中を押されると、リィルの方へ近付いて来た。目の前まで来ても、少年は顔を上げようとはしなかった。
「イルガスさまが、お父上にお報せくださったのですね」リィルは言った。「ありがとうございます」
「ぼくは、あなたにひどいことを言いました」
 その声は震えていた。
「でも、放ってはおけなくて、お父上に報せてくださったのでしょう。わたくしの生命を助けてくださったのですもの、そのようなことは、お気になさらないで」
 少年は、背中に回していた両手をリィルに差し出した。それは、様々な種類の紫の花だった。
「わたくしに、くださるのですか」
 少年は頷いた。
 小さな花束を受け取り、リィルはその中の一本を抜き出した。
「わたくしは、ここに来るまではずっと、この花の名で呼ばれていました」
「すみれ…」
「そうです、菫。とても目立たない花でしょう」
「すみれは、いい香りがします」
「ありがとうございます」リィルは微笑んだ。「あなたは、とても優しくていらっしゃいます」少年の頬がさっと紅潮した。「わたくしが家族を亡くしたのは、あなたと同じ歳の時でした」少年の目が、大きく見開かれた。「今度は、あなたと家族になりたいと思いますが、いかがでしょうか。前のように、仲良くしていただくだけでも、よろしいのですが」
 この少年は、今まで自分を愛してくれていた者を失った。それも、残酷な形で。その心の傷を癒やす事は出来ないかもしれない。だが――
 躊躇うような表情が、少年の顔に浮かび、リィルはそれを愛おしいと思った。もはや、誰の面影がそこにあろうと気にならなかった。むしろ、亡くした弟が少年に重なった。そして、両手を伸べた。
 その腕の中に、少年は飛び込んだ。
「母上、とお呼びしてもよろしいのですか」
 リィルは少年を抱いて頷いた。
「母上」そう言って、少年はリィルの懐に顔を埋めた。そして、むせび泣いた。「ごめんなさい。ごめんなさい。ぼくはもっと、強くなります。誰よりも賢くなります。だから、そんな大人になったら、ぼくと結婚してくれますか」
「駄目だ」言下に海狼が言った。イルガスは、びくりと身体を震わせた。「母上は、もう、父上と結婚なさっているのだから、お前とは結婚出来ない」
 どこか子供っぽいその物言いに、リィルはくすりと笑った。エルドも笑いを堪えるのに必死のようだった。海狼も苦笑を浮かべていた。
「あらあら、楽しそうね」
 ローアンが入って来た。「でも、まだ完全に薬が抜けきっていないのだから、あまり気をたかぶらせてはだめよ」
 さっさと仕事に取り掛かろうとするローアンの腕を、エルドは引いた。
「兄上、義姉上、この度、ローアンに神聖なる求婚を受けて頂きました」
「ようやくか」
 海狼は笑った。
「ええ、ようやく、です」
 エルドはにっこりと笑った。「兄上にも、御迷惑をお掛け致しました。義姉上の事で心を痛めていらしたのに、取りなしてくれだの、何のと」
「あんな事、族長に託されたら誤解の元よ」ローアンは素っ気なく言った。「集落では噂になっていたのを、知らなかったの」
「噂には、疎いものですから」
 申し訳なさそうに、エルドは言った。
「お陰で悋気を起こされた」
 海狼の言葉に、エルドは愕いたようにリィルを見た。そして、恐縮したような顔になった。
「それは、大変、失礼を致しました。私も必死だったので、なりふり構っていられなかったのです。恋敵も多かったものですから」
「運命の前に、そのような者は無力だと言っただろう。それに、芯のある女性だしな」
 呆れたように海狼は言った。
「しかし、ローアンは運命を知らないのですから、こちらとしては気が気ではありませんでした」
 イルガスの背を撫でながら、リィルは二人の話を聞いていた。少年は、すっかりリィルに身を任せていた。ローアンは兄弟の話には興味なさそうに仕事をしていた。
「芯があるのも、考え物です。自分の過去を気にして、駄目だとばかり言うのですから」
「――どこの誰とも分らない男の子を孕んでいたかもしれないのに」
 吐き捨てるようにローアンは言った。
「義姉上を見ていたら、そのような事はどうでも良いと思えたのです。母性と父性は違う、とは申しますが、愛しい人の子であれば、同じ事でしょう」
「そうだな、私も、そう思う」海狼が静かに言った。「例え、リィルに既に子があろうとも、私はそれを自分の子として受け入れただろう。惚れた弱みと言われようがな。血の繋がりのない養い子でも愛せるのならば、愛する者の血を分けた者ならば尚更だ。母上の生命を奪ったと、最初はお前を拒否されていた父上も、結局はエルド、お前を愛さずにはおられなかったのだからな」
 何かを言おうとするエルドを、海狼は手を振って遮った。
「もう、過去の事だ。で、儀式はどうするつもりだ」
「出来れば、二人分の晴れ着を義姉上に作って頂いてから、と思っております。ですから、早く良くなって下さい、(わたくし)共の為にも」
「無茶言わないで、どれだけの労力が必要だと思っているの。あたしはなんだってかまいはしないのだから」
 ローアンが苛立ったように言った。二人の力関係は明らかなようで、海狼は低い笑いを漏らした。
「もう少しすれば、お前は交易島へ行くだろう。その時にでも生地を(あがな)え。そうでないなら、遠征の帰りにでも適当に見繕って来てやろう」
「それは余りでしょう」
 エルドが情けのない声を出した。
「族長、宜しいでしょうか」
 扉の向こうから、エルガドルの声がした。
「入れ」
 海狼はリィルの傍らから動く事なく言ったが、声と顔は族長の物に変わっていた。
 ゆっくりと扉が開いた。だが、エルガドルは、ローアンとエルドの姿を見ると部屋に入るのを躊躇うような顔になった。
「遠慮はいらん。身内ばかりだ」
 それを聞くと、エルガドルは大きな身体を少し横にずらせた。
 ソエルが、いた。
「ソエルさま」
 リィルは思わず、声に出した。
 怯えたようにソエルの肩が震えた。
 久し振りに見るその顔は、目の周りが赤くなり、全体に浮腫んでいるようだった。
「リィルお義姉さま」
 ソエルは小走りにリィルの許へやって来た。そして、寝台の脇に身を投げ出し、わっと泣き始めた。
「申しわけありません、お義姉さま。わたしのせいで――わたしのせいで、ひどい目におあいになって」
 リィルには、何の事か分らなかった。
「さあ、最初からお話ししなくては、分っては頂けないですぞ」
 エルガドルが側に来て言った。
「わたし――わたし、あのサリアという女の言葉を、すっかり信じてしまいましたの」しゃくり上げながら、ソエルは言った。「あなたが、どれほど悪い人で、どんなふうに兄さまをたぶらかして虜にしたとか、そういう話を、全て、信じてしまいました。わたし、あなたという方を、あの女を通してしか、見ようとしなかったのです。本当のお義姉さまを、見ようとしなかったのです」
「大丈夫ですわ、ソエルさま」リィルは言った。「あなたはそれほどに、ベルクリフさまのことがご心配だったのでしょう」
「そんなの、言い訳でしかありません。だって、わたしはお義姉さまのことを傷つけてばかりいましたもの。ひどいことを言ったり、失礼な態度をとったりして。それに、それに、エルガドルはいつだって、あなたをかばうのですもの」
「わたくしだって、あなたのことを知らずに、傷つけてしまっていたではありませんか。あなたばかりが悪いのではありません、ソエルさま」
 リィルはこの娘を悪く思う事は出来なかった。まだ、子供なのだ。
「わたしを赦して下さるのですか。お義姉さまがわたしにおしゃったことなんて、大したことではありませんわ。それに、もう少しのところで、死んでおしまいになるところだったというのに」
「それは、あなたのせいではありません」
「わたしのせいなの」ソエルは声を上げた。「わたしが、お義姉さまが正気を失っておいでだとか、凶兆だとか、他の人に言ったの」
「でも、わたくしは生きております。ですから、何も気になさることはありません。できれば、全て忘れて、最初の頃のように、親しくしてくださいな」
「ほら、奥方様のほうが、ずっと大人でいらっしゃる」エルガドルが穏やかに言った。「年頃が近くとも、人の何気ない行動やつまらない噂、嘘に振り回されているようでは、貴女は、まだ、子供だ」
「ええ、わたしが子供すぎたのです。やっと、兄さまやエルガドルの言葉が分りました。お義姉さまを見習え、とおっしゃった意味が」
「なら、戻って来ると良い」海狼は静かに言った。「離れを引き払って、ここに戻れ。そして、もう一度、やり直せ」
 ソエルは呆気に取られたような顔になった。
「兄さま、よろしいのですか。兄さまも、わたしを赦してくださるのですか」
「リィルに免じて、今回は赦そう。だが、二度目はないと思え。それと、ローアンがエルドの神聖な求婚を受け入れた。これからは同じく義姉として接するように」
「ありがとうございます、兄さま。ありがとうございます、リィルお義姉さま。それと、おめでとう、エルド、ローアン」
 ソエルはまた、泣いた。どれほどの涙を、この娘は流したのだろうかと、リィルは思った。
「さあ、顔を洗いに行きましょう。折角のお顔が台無しですぞ」
 エルガドルがソエルを支え起こした。そして、リィルを見て微笑み、部屋を出て行った。二人が運命である事は、リィルにも分った。
「何をぐずぐずしているのでしょう、エルガドルは」エルドが扉が閉まるや言った。「ソエルのような奴には、やはり、あれくらい心が広くないと駄目ですな。ああ、でも、そうしたら、ソエルとエルガドルの衣装も義姉上の仕事になってしまいますぞ。あいつの腕じゃあ、到底無理だし、絶対に泣きつきますよ」
「まだ、そんなことを言っているのね」
 呆れたようにローアンが言った。
 何とはなしに可笑しくなって来て、リィルは沸き起こる笑みを隠そうとイルガスを見た。少年は、緊張が解けたのか、ぐっすりと眠っていた。
「気楽なものだ。あれだけの愁嘆場だったというのに」
 海狼が、同じく息子を覗き見て苦笑した。
「可愛らしい寝顔ではありませんか」リィルは少年の金色の髪を撫でた。「まだまだ、幼いお方なのですから、厳しくするばかりではなく、甘えさせる事も必要だと思います。甘やかす、のではなく、甘えさせることが。時折、お歳よりもずっと、大人びていらっしゃいますもの。今までずっと、大人ばかりの中で一生懸命でいらしたのでしょう。同じ年頃のお友達が必要だと思います。自由にさせてあげてくださいな。そして、これからは、どうぞ、もっとお仕事のお供をさせてあげてください」
「まったく、あんたは自分のことを先に考えることってあるのかしらね。すっかり、母親ね。さっきだって、わめき散らしても、誰もあんたを責めやしなかったわ」
 ローアンの言葉に、リィルは微笑んだ。
「君なら、そうするだろうね」エルドが言った。「でも、そんな義姉上は想像も付かない」
「終わったことをむしかえしても、何も変りませんもの」リィルはイルガスの髪を撫で続けて言った。愛おしさが、心の底からどんどんと溢れて来るのを、感じた。理屈ではなかった。「終わったことは終わったこと、決して時間は戻っては来ないのですから、前へ進むしかありませんわ。その方が、幸せになれるとは思いませんか」
「ああ、そうだな」海狼がリィルの髪をひと房、手にした。「これからは、将来の事を考えよう。全てをなかった事には出来ないが、それでも、我々は生きて行かなくてはならないのだからな」
「本当に、兄上は変わられましたな。ずっと、円くおなりだ」エルドが感心したように言った。「それも、義姉上のお陰ですかね」
「さてな」海狼は、弟の揶揄うような言葉を軽くいなした。「だが、真実、リィルは海のようだ。全てをありるがままに受け入れ、慈しみ、拒否する事がない。時には激しくもあろうが、直ぐにまた、穏やかな顔を我々に見せてくれる――まさに、海神の娘だ」
「わたしは、人の子にすぎません」
「その目のお陰で、お前は生き延びる事が出来た。他の部族にとってはどうあろうと、我々には違う。我が一族にとっても、お前の一族にとっても」
「何の事です」
 エルドが興味深そうに訊いた。
「紫の目は海神の娘の証――リィルの父君は、そう仰言っていたそうだ」
 ローアンが愕いたようにリィルを見た。静かにリィルが頷くと、ローアンの顔に笑みが広がった。
「義姉上は、我々の係累であらせられるのですか」不思議そうにエルドが訊ねた。「しかし、そのような話は――」
「世界は広いのだから、同じ神々を奉じる民が他にいたとしても、不思議はあるまい」
「それは、そうです」
 エルドは簡単に納得したようだった。
「お前にも伴侶が決まった。ソエルも、言う間にエルガドルと所帯を持つだろう。子も、出来るだろう。イルガスも、リィルに任せれば大丈夫だろう」
 海狼はリィルを抱き寄せた。
「私には、リィルだけで充分だ。他に望むものはない」
「何をおっしゃっているのですか」ローアンが言った。「あなたは、まだまだ父親になれますのに」
「犠牲は、払いたくない」
 海狼は顔をしかめた。
「臆病なことをおっしゃいますな」ローアンは負けなかった。「この子ったら、痩せっぽちの()き遅れかもしれませんが、もう少しなんとかなれば、二、三人は大丈夫だと思います」
 明るく笑うローアンに、エルドが困ったような顔をした。
「兄上にも義姉上にも失礼な…」
「療法師としての意見よ。それに、男が口出しする事ではないわ」
「そう言われると、一言もないな」海狼は苦笑いを噛み殺したような顔をした。「それは確かに、女の領域だ。リィルがそれを望むのであれば――私は、もう、どうする事も出来ないだろう」
 父も母も、産まれて来るはずだった弟も目の前で失った。
 だが、ここには、新しい家族がいる。
 誰よりも頼りになり、自分を何よりも大切に思ってくれる海狼。
 母親を知らぬ幼子。
 そう、かつて海狼が言ったように、始まったばかりの家族だが、これからゆっくりと時間を掛けて、本当の家族になって行こう。そうすれば、良いのだ。失ったものが戻って来る訳ではない。それでも、新しく始める事は、出来る。
「ベルクリフさま」
 リィルは、海狼を見上げた。
 その頬に、温かく大きな手が添えられた。
「わたくしの運命。わたくしの、狼」
「ああ」穏やかな低い声が応えた。「極地に棲まう雪原狼は、獰猛だが家族を大切にする獣だ。妻や子を護る為に、深手を負ってさえ家長は、敵わぬと知りながらも人間に立ち向かう。私は、部族を護る海の狼だ。だが、同時に――いや、それ以上に、家族を護る狼でありたい」
「必ず、わたくしのもとに帰ってくださいますか」
「誓おう。何があろうとも、私はお前の許へ戻る。黄泉路の果てまで諸共に、とは言わぬ。だが、出来る事なら、お前の腕の中で息絶えたい」
 ゆっくりと、海狼はリィルに唇付けた。
「そろそろおいとましましょう」ローアンの声が聞えた。「お邪魔なようだから」
「家族、か」エルドの声がした。「子供は皆、赤毛が良いな」
「気が早すぎるわよ、ばか」
 そっと、扉の閉じられる音がした。
 開け放った窓からは、風に乗って潮の香りが運ばれて来た。
 そう、これから、全ては始まるのだ。乗り越えなくてはならない事はまだあるが、立ち止まってはいけない、人生が。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み