第5章・過去

文字数 23,855文字

 遠くから声が聞えていた。
 身体は動かす事が出来なかったが、リィルは朦朧とした中でそれを聞いていた。
「――時間のかかることと、ご承知おきください」
「私は、どうすれば良いのだ」
「待つのがつらいのは、お察しいたします。しかし、焦ったところで、変わりはございません」
海狼と療法師の長の声だった。「長い間、心に秘められていた記憶を呼び覚ますのは、時には危険なこともございます」
「それは承知している。だが、このままでいるのは、余りに――」
「幼い頃の激しい経験の記憶は、ご本人がお忘れでも、心の底に鮮明に残っていることが多くございます。ですが、無理矢理それを揺り起こすことはしてはならないのです」
「毎晩、悪夢に悩まされている。そして、朝には何も憶えてはいないのだ」
「待ちましょう。今は、それしかできることはございません。よろしければ、奥方さまはわたくしどもの方でお預かりいたしましょうか。我々のほうが、慣れておりますし」
「それは、出来ない。私はリィルを護ると誓った。決して、手を離すような事はしない」
「では、ローアンを寄こしましょう。あの娘なら、奥方さまのこともよく存じておりますし」
 海狼は決して、自分を離しはしない。
 そして、ローアンが来る。
 そう思うと、リィルは安堵で再び暗闇に飲み込まれた。


 気がつくと、朝だった。
「目が醒めたのね」
 ローアンの声がした。
 ぼんやりとした頭で寝床を出ようとすると、ローアンはリィルを止めた。
「まだ、横になっていなさい。薬の効き目が、まだ完全に消えてはいないわ」
「ローアン、いつから、ここに」
「昨夜から。療法師の長に、あんたの面倒をみるように言いつかったの」当たり前のようにローアンは言った。「さっきまで族長もいらしたのだけど、呼ばれて出て行かれたわ」
「わたし、何の薬を飲んだの」
「気分を落ち着かせて、よく眠れるようにする薬。最近、悪夢にうなされて、よくは眠れていないのでしょう」
「そんな感じは、ないのだけれど」
「気付いていないだけよ。そういうことは、時にあるから余計に気を付けないとって、長がおっしゃっていたわ。それに、薬が効いているのが、その証拠よ」
 いつの間に、そのような薬を飲んだのか、リィルは思い出せなかった。
「でも、あんたは本当に愛されていて、幸せね」掛け布をリィルの身体に被せ直しながらローアンは言った。「昨夜は、本当に愕いたわよ。静かな夜だったところに、いきなり族長があんたを抱きかかえて扉を蹴破って来られたのだもの。血相を変えてね。まるで、あんたが瀕死の重病人のような勢いだったわ」その時の事を思い出してか、ローアンは小さく笑った。「後で修理が大変よ。それにね、長が診ていらっしゃる間も、族長はあんたの側から離れたがらなかったし、それはもう、おろおろとして、見ている方がどうしてよいのかわからなくて、気まずくなるくらいだったわ。ここに戻っても、長があんたの様子をご覧になっている時以外はずっと、あんたを離さなかったのよ。あんな族長なんて、皆、初めてだったらしくて愕いていたわ」
 ローアンは明るく笑った。リィルは顔が赤くなるのが分かった。
「大丈夫よ。他の人には話さないのが決まりだから。あんたのことは、あたしと長、族長の間でしか話すことはないわ。誰かが聞き耳を立てているのではない限りね」
 誰かが聞き耳を立てている。
 その言葉にリィルはぎくりとした。ソエルの言葉が、甦った。
 何でもない会話ですら、誰かが聞いているのかもしれないというのは、余りにも恐ろしかった。リィルのそんな恐怖心を見抜いて、海狼は外へと誘ったのだろうか。
「顔色がよくないわ。やっぱり、体力が落ちているのかしらね」
 ローアンが眉を(ひそ)めて言った。
「大丈夫。もう少し、休ませてもらうわ」
「あたしは少し用事があるから、何かあったら、すぐに誰かを呼ぶのよ」
 そう言うと、ローアンは出て行った。
 目を閉じると、睡魔は直ぐに襲って来た。薬の効き目が消えていない、というのは、こういう事を指すのだろうか、と思った。


 次に目を醒ました時、ローアンの、良く眠れていない、という言葉がようやく分かった気がした。このところの、鬱々とした気分は随分と楽になっていた。
「大丈夫か」
 海狼の声がした。
 愕いて跳ね起きかけたが、そっと身体を戻された。海狼の背後で、ローアンがにっと笑い、扉を指して歩み去った。
「ええ、もう、大丈夫です。ご心配をおかけいたしました」
 その言葉に、海狼の緊張がほぐれるのが分かった。
「側にいてやれなくて、済まなかった。採石場からの呼び出しがあった」
「あなたは族長でいらっしゃいます。お務めを(おろそ)かになさってはいけませんもの」
「聞き分けの良い事を言ってくれる。少しばかり拗ねてくれても、嬉しいものなのだぞ」
 海狼は苦笑いを浮かべた。そして、掛け布の上に包みを置いた。
「これが、私が呼ばれた理由だ。処理をしていたから、少々、時間は掛かったがな」
 どこか興奮した様子で海狼は包みを開けた。
 その中身に、リィルは思わず息を呑んだ。
 海狼の拳と同じくらいの大きさの、紫色の半透明の石だった。曇りも瑕もなかった。
「素晴らしいだろう。大きさも色も、申し分ない。これ程の良い石が採れるのは、滅多にある事ではない」
 遠い国で珍重されるというその石の美しさに、リィルは溜息を吐いた。
「あなたは、わたくしの目の色を、この石にたとえてくださったのですね」
「同じ、色だ」
「まさか、わたくしの目は、こんなに美しい色をしてはおりませんのに」
「皆に問うてみるが良い」海狼は笑った。この人の笑顔を最後に見たのは何時だっただろうかと、リィルは思った。「お前は自分を知らなさ過ぎるのではないか」
 無邪気にも聞えるその言い(ぐさ)に、リィルは思わず微笑んだ。
「そうだ、お前はそうして、いつも微笑んでいてくれ」海狼はリィルの頬に触れた。「その笑顔が見られるのならば、私は何を犠牲にしても構わない」
「それほど、大層におっしゃることではありませんでしょうに」
「私には大事な事だ」海狼は真顔になった。「お前が幸せに生きる事が、何よりも大事だ。お前から微笑みを消してしまった己自身が憎い。早く本当の笑顔を取り戻して欲しいと思っている」
「はい、そこまでです」
 いつの間に戻ったのか、ローアンが言った。
「もうしわけありませんが、族長、奥方はお目醒めになったことですし、なにか、召し上がっていただきませんと」
「そうだな」海狼は立ち上がった。「ここ数日は、殆ど食べていないのではないか」
 この人は、気付いていたのだ。
 ローアンの手には盆があった。
「今日はサリアは、どうしたのですか」
「あの娘は離れに出した」
「ソエルさまのところに、ですか」
 リィルは愕いた。
「あたしがいるから、他の仕事を割り当てられたのよ。療法に関しては、サリアは素人だから」
「ソエルの意向もあったしな」海狼が心配げに付け加えた。「不服か」
「いいえ、決して、そのようなことはございません」ソエルがサリアを望むとは思ってもみなかった。「でも、ローアンには他の仕事もありますでしょうに」
「これが、あたしの仕事よ。あんたの様子を毎日、長に報告して薬の調合を変えてもらうのよ」
「わたくしは、でも、どこが悪いのでしょうか」
 海狼を見上げて、リィルは訊ねた。
「気の病、とでも言うのだろうか。過去の辛い思い出や心配事、初めての土地での緊張から起こる事がある」
「特に、繊細な人が、っていうことに、腹が立たないわけでもないのだけれど」
「まあ、長の見立てでは、そうだな」
 ローアンの言葉に笑いを噛み殺すように海狼は付け加えた。いつの間に、この二人はこれ程に打ち解けるようになったのだろうかと、リィルは不思議に思った。
「さあ、冷めないうちに食事にしましょう」
 ローアンがそう言うと、海狼は部屋を出て行った。
「まずは野菜を濾したものからね。肉はきついのでしょう」
「ベルクリフさまが、そうおっしゃったの」
「そうよ。よく、あんたのことをご覧になっているようね」
「何でも、お見通しなのだわ」
「そんな風に言うもんじゃないわ。心配してくれる人がいるのが、どれほどありがたいか」と、ローアンは言葉を切った。「ごめんなさい。あんたに家族の思い出がないことくらい、知っていたのに」
「いいの。わたしも慣れないことが多すぎるわ。家族を持つようになるとは、思いもしなかったのですもの。いいえ、あの島から出られるなんて、思わなかったわ」
「そうね、生きていると、何が起こるかわからないものだわ。まさか、あたしが自由人になれるとは、思いもしなかったようにね。あんたと海狼には感謝しているわ」
 ローアンは笑った。
「あなたに一緒に来てもらったのは、前にも言ったように、自分のためだわ。感謝されるようなことではないの」
 リィルはあの島を思った。自分達は、生き延びて自由を得る事が出来た。だが、他の者達はどうしただろうか。全員を助ける訳にもいかなかったのは、確かだ。だが、恐らく、他の者達を置いて来た事は、これからの自分の人生において、何度も繰り返して思い出されるだろうと思った。
「あんたはそう言うけど、あたしはそうは思わない。だから、あたしの思いたいように思わせて」
 リィルは微笑んだ。やはり、ローアンはローアンだ。
「その調子で、食べましょう」
 ローアンは言った。そして、まるで厨房頭のように腰に両手を当てた。
「全部、よ」


 食事の後では、薬を飲むように言われた。薬草の香りと味が強かったが、思ったよりも飲み難くはなかった。そして、飲むと直ぐに眠気がやって来た。
「体力をつけるには、しばらく横になる生活も必要よ」ローアンは言った。「機を織ったりするのは、長の許可が下りてから。それまでは、ゆっくりと過ごして、少しずつ元の生活に戻して行くの。急いではだめ。余りにも急に色々なことが起こったのだから、休養も大事だわ」
 有無を言わせぬ言い方だった。ローアンは着実に、療法師への道を歩んでいるのだ。
 そして、リィルに訪れたのは、夢のない眠りだった。


「今夜から、ローアンが泊まってくれる」夕刻に海狼がそう告げた。「交代でお前を看るつもりだ。長椅子を入れさせて、そこで休んで貰う事にした」
「あなたは、どうなさるのですか」
 リィルは訊ねた。
「私はソエルの部屋が空いているので、そちらで休む」リィルの不安を読み取ったのか、海狼は言った。「何かあれば、直ぐに来る事が出来る」
「なにか、とは」
「恐ろしい夢を見た時、だろうな」
「でも、そのためにお薬をいただいているのではないのですか」
「いつも効くとは限らないそうだ。特に夢の力が強く、心や身体が弱っている時には」
 リィルは目を伏せた。自分はいつも、この人に迷惑を掛けてばかりいる。気を遣わせてばかりいる。
「そのような顔をするものではない。私は、お前がいてくれるだけで良い」海狼はリィルを抱き寄せた。「また、自分を責めているのだろう。だが、そのような必要はない。もっと、私に甘えるが良い。頼れ。我儘も言え。私はいつでも、お前を追い掛けてばかりだ。本当に、お前を捕まえたと思えた(ためし)がない」
 この人もそうだったのか、とリィルは愕いた。どうしても追いつけない背中を追っているような、そんな不安。決して振り返る事なく、自分が置いていかれるのではないかという、恐怖。海狼と共にいてさえ、リィルはそのような感覚が拭えずにいた。
 リィルは海狼を見上げた。金色の髪に青い目の、若さと老成とを共に持ち合わせた整った顔には、いつになく不安が浮かんでいた。
「お前の心は、摑まえたかと思えば直ぐに、この手からすり抜けて行ってしまうし、霧のように消えてしまう。触れると、あっと言う間に溶けてしまう淡雪のようだ。どうすれば、お前を本当に摑まえる事が出来るのだろうか。どうすれば、それを実感できるのだろうか。お前を理解するには、どうすれば良いのだろうか。それとも、それは私に課せられた永遠の命題なのだろうか。そうなのだとすれば、余りにも残酷だ。お前は私の運命だ。それは、お前に出会った瞬間に、分かった。それなのに、私は一生、お前を理解できないという不安を抱えて生きねばならないのだろうか。このようにしていてさえ、私はお前を摑まえたという実感がない」
 海狼は一気にそう言うと、リィルに唇付けた。乱暴ではあったが、暴力的ではなかった。まるで、逃げられるのを阻止するかのように、海狼は抱き締める腕に力を込めてきた。リィルもまた、その背に縋り付いた。海と魚の匂いがした。
「少し目を離すとこれだから」
 ローアンの怒ったような声に、海狼はリィルを離した。
「あれほど申し上げたのに、族長、本当におわかりですの」
「ああ、分かっている」海狼はばつが悪そうに言った。「わかっては、いる」
「全く、信用のならない人ですね」ローアンは更に声を荒げた。「男という生き物って、結局はそうなんですね。あなたは信用できると思いましたから、二人きりの時間も作って差し上げたのに」
「まさか、初日から叱られるとはな」海狼は溜息を吐いた。「お目こぼしは戴けそうにないな」
「当たり前です。今、この子に必要なのは安静だと長はおっしゃったはずですが」
「それに関しては、一言もないな」
 海狼は肩を竦めて立ち上がった。「では、後の事は任せよう。泊りの準備を整えさせよう」
 そう言って海狼は部屋を出て行った。さすがの海狼も、見習いとは言え、療法師の意見には異を唱える事は出来ないようだった。
「夕食まで休みなさいな。今は心を乱されない事が大事なんだから」ローアンが言った。「あんたが悪いんじゃないけど、暫くは二人きりにはできないわね」
 冗談めいた言い方だったが、直ぐに真顔になった。
「たとえ戯れでも、男の力にかなわないのは、あたしは知っているわ。抵抗したくても、できないのもね。族長に悪気はなくても、それがあんたの心の奥底にある暴力への恐怖に、どんな刺激を与えるのか誰にも分からないのよ。族長は二十九だから、まだ若い部類だわ。つい、という事がないとは言えないわ」
 ローアンの経験した事を思わずにはいられなかった。リィル自身、身をもって知った恐怖を思い出さずにはいられなかった。あの時、海狼に悪意はなかった、というのは本当だろう。だが、リィルはまだ、そこから完全に立ち直ってはいなかった。それ程に、あの時の海狼の力は圧倒的だった。
 しかし、先程の海狼には、不思議と血の気配は感じられなかった。そこにいたのは、族長でも海狼でもなく、ベルクリフという一人の人間だったように思われた。丘で気を失う直前まで自分の前にいたのもそうだったような気がした。恐ろしさは全く、感じられなかったからだ。
 自分は海狼の事は何も知ってはいないし、海狼も自分の事をどのくらい知っているのか、怪しいものだと思った。それ程に、二人が知り合ってからの時間は短かった。いや、むしろ、海狼の方がまだ、語るべき過去のない自分の事を知っているのかもしれない。そう思うと、哀しかった。
 肝心な事は、何も話して貰ってはいない気がしてならなかった。殊に、(さき)の奥方について何も言うな訊くな、というのは、まだ、海狼の中でその傷が癒えてはいないという事なのだろうか。
 では、何故(なにゆえ)、海狼はリィルの事を運命と言い続けるのだろうか。
 それが、この部族の男達の口説き文句なのだろうか。
 前の奥方は、海狼の運命ではなかったのだろうか。ならば何故、海狼はそのような人を娶ったのだろうか。そして、海狼が妻殺しの噂を立てられる理由も、そこにあるのだろうか。
 堂々巡りに、リィルは混乱した。


 夕食の後、薬を飲むと、何度も眠っていたにも関わらず、やはり、直ぐに眠気がやって来た。
「あたしがそこにいるから、安心して」
 リィルが先程、眠っていた間に運び込まれた長椅子を、ローアンは指した。余程の深い眠りであったらしく、物音にも気付かなかった。「落ち着けるように、閉めておくわね」
 垂れ幕が、引かれた。薄闇の中で、リィルは目を閉じた。護り刀があるとはいえ、海狼の存在も香りもない寝床は、誰も護ってはくれないような気がして、心細かった。


 寄せては返す波の音。
 それは、本来ならば、心を落ち着かせるはずの音。そして、海鳴り。
 産まれた時から聞いてきた。子守歌のように、眠りに(いざな)う心地の良い音。
 なのに、何故、今夜はこんなにも哀しげに聞えるのだろうか。
 誰かが泣いているような――それも、大勢の人々が泣いているような、風の音。
 峡湾を渡る風は、時に人の泣き声や悲鳴に聞える事がある、と誰かが言った。それは幻の声。決して捕われてはいけない、と。
 深く優しいその声は、父さまではない。
 そう、父さまは殺されておしまいになった。
 皆を護ろうとして、討ち果たされておしまいになった。
 男が、まだ血の滴る長剣と父さまの首とを下げて来た。
 その(こうべ)を前に、母さまは微かに震えていらした。けれども、決して叫んだり泣いたりされなかった。
 だったら、わたしもそうしよう。
 恐ろしい、哀しいけれども、母さまがそうされるのなら、わたしも同じように振る舞おう。
 そう、思った。
 だから、母から離された時も大人しくしていた。本当は離れたくなかったが、我慢した。
 それも、血刀が振り上げられるまで。
 男は、笑っている。
 母さま。
 リィルは思わず、叫んだ。


「大丈夫よ、夢よ、夢」
 ああ、母さまがやっと、来て下さった。
 リィルはその身体に抱きついた。
「夢を見たのね。とても、恐ろしい夢を」
 母さまは、いつものように優しい。
 リィルは、更なる安心を求めて母の腹部に手をやった。
 だが、そこには、いつもの柔らかな膨らみと、くすぐったくなる動きはなかった。
 母さまではない。
 リィルは叫び声を上げて、母の

をする者を突き飛ばした。
「落ち着け、リィル」
 ぐいと力強く抱き締められ、動きを封じ込まれた。
 そうだ、母さまのはずはない。
 あのように無残に殺されておしまいになった上に――
 ふっと全てが遠のいた。
 その瞬間にリィルが見たのは、鯨の胎児(はらご)が引き摺り出される光景だった。


 目醒めると、恐ろしい夢を見た、という思いがまず、襲って来た。どのようなものであったのかは、相変わらず思い出す事は出来なかったが、身体の震えが止まらなかった。
 呼吸を整えて身を起こそうとした時、静かな声がそれを制した。
「まだ、起きないほうがよろしいでしょう」療法師の長だった。齢を重ねたその顔は穏やかだった。「昨夜の事を、憶えていらっしゃいますか」
「いいえ」なぜ、そのような事を訊くのだろうかと訝しく思いながらも、リィルは答えた。「いいえ。恐ろしい夢を見たとは思うのですが」
「どのような夢だったのかは、憶えていらっしゃらないのですね」
「でも、それが――」
 何があるのだろうか。
「かまわないのです、今は」笑顔もまた、穏やかであった。「ローアンにも申しましたが、今は、ゆっくりとお休みください」
 そう言えば、ローアンの姿がなかった。
「あの娘は今、新しく調合する薬を取りに行っております」リィルの落ち着かない視線を見て取ったのか、長は言った。「今日は、あの娘を連れて少し、外へ出られてみてもよろしいかもしれませんね。折角のよい季節なのですから、気晴らしになりましょう。体力を消耗しない程度でしたら、大丈夫です。あまり、思い詰められませんように」
「新しいお薬というのは、どのようなものなのでしょうか」
「大した違いはございませんが、少し、気持ちを楽にする薬草を配合いたしました」
 自分ではどこも悪くない、と思っていたが、療法師からすると、そうでもないのだろうか。
「族長が部屋の外でお待ちになっておられますが、お会いになられなすか」
「よろしいのですか」
「もちろんでございますよ。それはそれは、ご心配のようですから」
 療法師の長と入れ替わりに、海狼が入って来た。足早にリィルの許に来ると寝台の脇に跪き、リィルの手を取った。その顔はどことはなしに血色が悪かった。
「大丈夫か」
「わたしくは、大丈夫です」
 リィルは無理矢理、微笑んだ。
 簡単に騙せるような人ではないと分かっていた。だが、そう言わずにはいられなかった。
「そのような強がりは、止めてくれ」海狼は、リィルの手を額に押し当てて言った。「お前の苦しみを、私にも共に背負わせて欲しい」
「では、教えて下さい。夕べ、わたくしはまた、悪い夢を見たのですか」
「ああ」
 苦しげな声だった。
「何か、ご存じなのですか」
「良くは、私にも分からない。だが、私が駆けつけた時には、お前はローアンに震えながら抱きついていた。それなのに、急に悲鳴を上げるとローアンを突き飛ばした」
「それで、ローアンは」
 ずきりと胸が痛んだ。
「大丈夫だ、怪我はない。だが、お前の事を心配していた」そして、リィルの手を握る力が強くなった。「最早、過去を思い出せとは言わない。ただ、お前が無事に乗り越えてくれれば良い。だが、それには全てを思い出す必要があるという。私には、どうすれば良いのか、見当もつかない」
 海狼は深い溜息を吐いた。
「過去など思い出さなくとも、お前が平穏に暮らして行けるのならば、私は何でもしよう」
 それは、聞いた事もない、悲痛な声だった。


 外に出るのは久し振りだった。
 この島の夏は、北海で最も短いという。
 その間に草は萌え、花が咲く。その蜜を求めて、この島でも生きる事が出来る虫や鳥が活動する。ここには、家畜以外で四つ脚の生き物はいないと言われた。
 養蜂は各家庭で行われており、そこから蜜酒や蜜蝋も作られていた。リィルもここに来て初めて、教わりながら蜜を集めた。水と蜂蜜、それを皆の気に入りの蜜酒を足すという、最も簡単な方法であったが、取り敢えず、醸すのに失敗はしなかった。少なくとも、大事な蜜を貴重な小麦粉のように無駄にせずに済んだ。まだ、それは食卓には上がってはいないはずだった。
 盛夏になると、太陽が水平線に沈む事がないという海狼の言葉を、リィルは未だに信じられずにいた。あの島では、せいぜいが陽の最後の光が夜を通じて空を照らすだけだった。そして、冬には水平線上を這う太陽に対して、ここでは昼でも薄暗く、そのような時間ですら神々のお渡りを知ろ示す光の幕が輝くという。全ては、この島がより北にあり、地が丸いからだと海狼は語ってくれた。それは、船乗りにとっては自明の事であるらしかった。
 丘陵へ少し足を延ばそうとリィルは思った。かつていた島の、あの場所のように、一人になれる場所が欲しい、と思った。
 集落を出たところで、粗朶(そだ)を運んでいるエルガドルと出会った。海狼の片腕が奴隷と同じ仕事をしている事に、リィルは愕いた。だが、この島ではそれが当たり前なのだ。何しろ、奴隷は存在しない。そういった仕事を請け負う身分がないのならば、全て自分でこなす事になる。大抵の人々は出来る事は自らの手で為すのが当然と思っているようだった。自分達ではどうにも出来ない時以外は、人手を求める事は殆どないようだった。
 エルガドルはリィルの姿を見ると、少し愕いたような顔になった。
「これは奥方様、御加減は宜しいのですか」
「ええ、少しは外に出たほうがよいと、長に言われましたので」
 リィルは微笑んだ。
「少し、痩せられましたな。ベルクリフ殿も、さぞ御心配なさっている事でしょう」
 それについては、一言もなかった。
「もともと痩せすぎの人に、そのようなことを言うのはいただけませんわね」
 ローアンが噛み付いた。
「これは失礼。素晴らしいお目付役がいらして、誠に頼もしい限りですな」
 エルガドルは気にした風もなく笑った。「しかし、貴女がいらしてから、ベルクリフ殿も随分と人当たりが良くなりましたかな。以前よりは、所帯持ちにも気を遣われるようになられた」
「エルガドルどのは、ご家族は」
「私は子供の時に先代の族長に拾われましたし、養父母は亡くなりました。それに、未だに独り身です」
「失礼いたしました」リィルは俯いた。「知らぬこととはいえ、不躾なことをお訊ねいたしました」
「お気になさらず」エルガドルは磊落に笑った。「この歳で所帯持ちでない者の方が珍しいですから」
「では――」思い切って訊いてみた。「では、運命の方でなければ、ご一緒にはならないのでしょうか」
「おりますがね、これが運命だという娘は。しかし、相手は歳の割に子供でして、もう少しは成長してくれると良いのですが」
 照れたように言う男に、リィルは思わず微笑んだ。ローアンも笑った。
「でも、わたくしにはまだ、その運命ということの意味がわからないのです。この島の人たちは、それを当たり前のように口にされますが」
「説明するのは難しいですね」エルガドルは首を捻った。「私は子供時分にこの島に来ましたから、何となく理解はしておりますが、ただ、そのような相手は、決して異性や人間とは限らない、という事ですか。師匠と弟子であったり、親友であったり――羊飼いと牧羊犬、人と剣であったりと、様々です。ただ、そういった運命の関係は、前世や来世にも形を変えて繋がっていると考えられているようです」
「そのようなものだったのですね」
「私もここの生まれではありませんので、正直、最初は戸惑いました。その娘に会った瞬間に、互いに子供であったというのに、何か、を感じたのですから」
「ベルクリフさまは――」
 思わず言いかけて、リィルは口を閉ざした。この島での最初の会食の際にエルガドルが、海狼の求婚の儀式に対する言葉に苦い顔をしていた事が思い出されたのだ。
「族長が、どうかされましたか」
「いいえ」リィルは躊躇いながらも言った。「ベルクリフさまは、わたくしを運命だとおっしゃってくださいます」
「ええ、最初から」エルガドルは破顔した。「集会に到着したその夕べに、全員に、月光のような髪に菫の瞳をした娘を探せ、と命じられましたから」
 それは初めて知る事だったが、何事でもないかのように、エルガドルは笑った。
「でも、前の奥方さまもそうだったのではないのですか」
 その一言で、エルガドルのまとった雰囲気が一変した。そして、口調も硬くなった。
「運命は生涯に於いて、唯一の存在です。貴女が族長の運命なのですから、何も気になさる必要は御座いません」
「ありがとうございます」エルガドルの変化にどきりとしながらも、リィルは言った。「そのようなお言葉をいただけて、嬉しく思います」
「いいえ、大した事では御座いません。このような閉ざされた島では、貴女の事は何かと皆の関心事になってしまいますので、気苦労も多いかと存じます。しかし、そのような事に惑わされませんように。海狼殿は多くを語られませんので、誤解なさる事もあろうかと思いますが」
「大丈夫ですわ」リィルは言った。「お仕事の手を止めて、申しわけありませんでした」
 二人はエルガドルと別れた。
「いい人だけど」ローアンがエルガドルの後ろ姿を見やりながら言った。「不器用そうね」
「いい人なら、それで充分だわ」
 リィルは言った。誠意のない生き方上手よりも、ずっと良い。海狼がエルガドルを副官に用いている理由が分かる気がした。そして、あのような人物が運命と感じた人ならば、必ずや幸せになれるだろうと思った。
 如何になだらかとはいえ、丘を登りきる事はローアンに止められた。本調子ではない間は、無理は禁物だと言うのだ。ここまで来るのにも随分と集落を離れた、と。そこで、中腹で一休みをする事にした。
 吹き渡る風は悪くはなかった。暫く、他愛のない話をした。羊より他に、二人の話を聞くものはなかった。また、二人でそのような時間を過ごしたのは初めての事だった。
「あたしはね、本当のことを言うと、初めて会った時から、あんたが苦手だったわ」
 会話が途切れた時、ぽつりとローアンが言った。
「あたしたちの誰よりも先にあの場所にいて、何もかも悟ったような目をして、それでいて、品のあるしゃべり方をするあんたは、あたしたちとは違っていたから。それに、機織りの才だけじゃなく、薬草摘みや染料摘みもそつなくこなしていたでしょう」
「何も、違いはしないわ。わたしは、今までの人生の殆どを、あの場所で過ごしていたのですもの。希望なんて、持ちようがなかっただけだわ。ただ、日々を過ごしていただけよ」
「さっきの、エルガドルどのへの話し方も、そう。あたしは、あんな風には話せないもの」
「あなたは、あなただわ」
 そう言いながら、リィルは同じ事を海狼から言われた事を思い返していた。「変わる必要はないわ。それでなくては、あなたではなくなってしまうわ」
 そうだ、そういう事だったのだ。ローアンがローアンであるからこそ、自分は信用し、好意を持つのだ。
「そんな風に言うのは、あんたくらいのものよ。だから、苦手だったのね、今ではそれがわかるわ」
「あなたは、療法師として立派にやって行けそうね。わたしは、機織りはできても、他のことは何もできないから」
「そんなこと、たいしたことじゃないわ。学ばなかったのだから、仕方のないことよ。特にあんたは連れて来られたときが幼かったから、いろいろなことを知らなくて当然だと思うわ。要は、相手にその気持ちが通じているかどうかだと思うし、しっかりと通じていると思うけど、あたしは」
「ありがとう、ローアン、あなたには本当によくしてもらっていると思っているわ。夕べのことで、あなたがわたしを見限っても、仕方がなかったと思うのに」
「何を言うの」愕いたようにローアンは言った。「あのことがなかったら、あたしはまだ、あんたが苦手だったかもしれないわ。ああ、あんたは、あたしよりもずっと、つらい思いを抱えて生きてきたんだって、あの時、やっと分かったのよ。それに、あんたは船でもあたしを気にかけて、優しくしてくれたわ。それが、ここに来てもどれだけ助けになったか、あんたは知らないだけ」
 リィルは無言で、風に吹かれる若草を眺めた。
「夢はね、長い間、心に閉じ込められていたものが出たがっている時にも見るものだって、長はおっしゃっていたわ。ここの生活は静かで、自由だわ。だからこそ余計に、あんたが長い間、思い出したくなかったこと、誰にも言えなかったことや、我慢してきたことが出て来ているのかもしれないわね」リィルは、夢を見るようになったきっかけを、長にも話せずにいた。あのような事を話せるはずもなかった。「でも、急がなくてもいいし、焦らなくてもいいの。あたしは大丈夫よ。あんた一人を支えることができなくて、療法師がつとまるものですか。大丈夫、あんたは病気なんかじゃない。いろいろあって、少し、心が弱っているだけ。それ以上に弱らないようにするのが肝要なの。そういった時に、本当の病気に摑まったりすると大変なんだから。あの場所で、十五年も生きてこられたんだもの、あんたは、強いのよ。負けちゃだめ。せっかく、幸せになれるのだから」
「わたしは、幸せになれるのかしら」
 海狼の事を思い浮かべて、リィルは言った。最も傷付けたくない人。だが、もう既に、海狼は深く傷を負ってしまっているのではないだろうか。だとすれば、その傷を負わせたのは、自分だ。
「何を今さら」ローアンは鼻で笑った。「あんなに心配してくれる人がいて、しかも愛されて、何が幸せになれるかしら、よ。当然でしょ。あんたは、顔を上げて笑うようになって、本当に綺麗になったと思うし、これから心の強さを取り戻して、もっとしっかり食べて、治療もして、あの変な館を子狼でいっぱいにしてご覧なさいな。今の出来事なんて全部、夢だったと思うわよ」
「ベルクリフさまは、わたしが過去を乗り越えるには、全てを思い出す必要がある、とおっしゃったわ。でも、思い出すのが恐ろしいのよ」
 正気をなくしてしまいそうだから、とは言えなかった。
「族長は正しいわ。でも、あんたが怖がるのも、わかるわ。だから、急がなくてもいいし、焦らなくてもいい、と言ったのよ。族長はもちろんだけど、あたしも長も、あんたの側にいて力になる、絶対にね」
「ありがとう、ローアン。あなたの言葉は、とても心強いわ」
「嬉しいことを言ってくれるわね」ローアンは笑った。「言葉にも、力はあるのよ。それを使えるようになるのも、療法師として大切なことなの。薬の知識だけじゃないのよ。でも、あたしは

すぎるって、皆に注意されっぱなしよ」
「言葉の力、というのは、誰にでも使えるものなのかしら」
「そうね。あたしたちが何気なく使っている言葉にも、力はあるわ。ただ、それに気付かずにいる人がほとんどよ。悪意のある言葉をぶつけられたら傷付くでしょ。そういうことなのよ。だから、噂を気にしすぎるのもよくないわね。皆はそんなことを考えて言っているのではないにしても、言われた方は気になるものだわ。それで傷付くのは嫌なものだわ。まあ、気にするな、と言うのは簡単だけど」
 リィルは、自分の身に重ねてみた。


 数日後の夜は風が強く、海が荒れた。
 リィルはそれが恐ろしかった。
 谷間を渡る強い風は、まさに亡霊の声のようだった。
 恨みと哀しみを叫び続ける亡者達の声から、耳を塞ぎたかった。ただ、震えて、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。今までは、これ程に恐ろしくはなかったというのに、自分は弱くなってしまったと、リィルは思った。
 それを見た海狼は、ローアンを療法師の館に帰した。反対するローアンを押し切っての事だったが、何かあればすぐに使いを遣る、という事で納得をさせていた。
 安楽椅子でリィルを膝に乗せ、海狼は、恐怖に震える身に毛布を掛けて優しく包み込んだ。あの島でも、気まずい関係になる前も、海狼は良くリィルを膝の上に乗せては愛の言葉を囁いてくれたものだった。だが、この時はそれとは違った。まるで、幼子に接するかのようだった。沈黙の中で、リィルは、こんな事が前にもあったという感覚が拭えずにいた。忘れてしまった幼い頃の記憶を探ろうとしたが、強く激しい風と波の音に、その思いは直ぐに吹き飛ばされてしまうのだった。
 あたたかな広い胸や肩は、安心の出来る場所だった。懐かしい思い出と、繋がっているような気がした。
 いつかも、このような事があった。遠い過去の事だ。それとも、それは夢だったのか。奴隷であった頃、嵐の晩に、誰かに守って欲しい、頼りたいと願った夢であったのか。
 目を閉じると、だが、それは夢ではなく、現実にあったことのように思えた。頭や背を撫でられながら、ただ無言で、心臓の鼓動を聞いていたような気がしていた。時折、頬ずりをされて、嵐は海神の深い怒りと哀しみ、必要以上に恐れる必要はない、と言われた。そして、朝には浜に海神の賜物を拾いに行こう、と。
「海神よりの、賜物…」
 リィルは知らず、声に出していた。
「そうだな、明日は浜で何かを探そうか」何の疑問も(いだ)いた風もなく、海狼が言った。「美しい貝殻でも集めると良いだろう」
 切れ切れに思い出される言葉も、そうだった。あれは、ただの夢。それが、今、現実になったのだろう。規則正しい鼓動は、何も恐れる事はないのだと教えてくれているように思えた。
「イルガスさまもご一緒に」
「子供連れでか」低い笑いが胸を揺らした。「駄目だ。私はお前とだけで、行きたい。忙しくなる前に、ゆっくりと過ごしたい」
「忙しく、なるのですか」
「この嵐は鰊漁の合図だ。漁に出られる者は総出で船を出すし、帰港すれば塩漬けの作業が待っている」
 リィルは思わず、海狼の胴着を握り締めた。
「暫くは、毎日、朝早くからの漁になるが、夕刻には帰る。夕餉は共に出来るな」
 見上げると、穏やかな目があった。何と綺麗な青だろうかと、リィルは思った。
「私が今、どれ程幸せか分かるか」海狼は言った。「私の腕の中にはお前がいる。震えているのは嵐のせいだ。そして、お前は私を頼りに思っている。ただ、それだけの事だが、私はこの時間が続いて欲しい。だから明日も、二人だけで穏やかな時間を過ごしたい。子供じみた我儘かもしれないが、私は貪欲だからな」
 再び、リィルは海狼の胸に頭を凭せ掛けた。何もかもが満たされた気分。これが、幸福というものなのだろう。
「やはり、お前には話すべきなのだろう」溜息を吐き、海狼は言った。「前の妻、ブランとの経緯(いきさつ)を」
 思わず身を固くしたリィルを、海狼は少し力を込めて抱いた。
「お前には、知られたくなかったのは事実だ。私が如何に愚かな男なのか、お前に知られるのが恐ろしかった。お前に軽蔑されるのではないかと、思った」
「わたくしがあなたの運命であるのでしたら、そのようなことは――」
「仇敵もまた、運命なのだ」海狼の声は穏やかだった。「お前が私を憎悪したとしても、それもまた、運命の様相の一つだ」
「何があろうと、わたくしはあなたをそのように思ったりはいたしません。信じてはいただけませんか」
「信じておらぬ訳ではない。ただ、お前にどう思われるのかが恐ろしいのだ。人の心がどのように揺れ動くのか、予測は付かぬからな。殊に、お前のような者を私は知らぬ。それだけに、臆病になる。だが、お前の苦しみを見ていると、自分の過去から逃げるのは卑怯だと思った。その結果と向き合わぬのも。だから、心して聞いて欲しい」
 リィルは頷いた。

    ※    ※    ※

 ――私とブランとは、幼い頃から互いを知っていた。
 ブランは、父の側近の一人娘だった。息子達は全員早逝し、残されたのは遅くに出来たブランだけだった。母親は難産の末に亡くなった。だから、父親の可愛がりようは尋常ではなかった。乳母はマイアで、自分の子を亡くしたばかりだった。療法師をしていたからもあったのだろう、弱い赤子の世話を託されたようだ。その時にはマイアの夫は健在であったようだが、その年の内に他界したと聞く。
 そういった二人に溺愛されて、ブランは育った。族長の娘以上――そう、まさに、物語の姫君のような生活だった。
 この島では、男女の別なく、歩けるようになれば年上の子供に連れられて洞窟にも行けば、漁の真似事で蟹や貝等を浅瀬や潮溜まりで獲ったりするものだが、そういった事からも、ブランは遠ざけられていた。怪我をするだの汚いのと、良くマイアは言っていた。
 また、学問所でもマイアはブランに付き切りだった。喋る事もなく、大人しく、常にマイアの言う事をきいており、喩えではなく、そこに生身の子供を感じる事は出来なかった。まるで、壊れ物のように扱われていた。女の子達が遊びに誘っても、マイアが許さなかった。針仕事も、先が危ないからと、しなかった。刃物を使うなど、もっての他だった。
 羊の毛刈りの時もそうだった。子供は良く、羊毛の山に飛び込んだりして遊んでは叱られていたものだったが、ブランは細かい繊維が身体に悪いからと、家を出る事さえなかった。同じ理由でだろう、糸紡ぎも機織りも、ブランは学ばなかった。
 母は、そういった事に対して気に掛けていたようだった。この島で生きて行くのに、何らかの手段は必要だったからだ。しかも、ブランには友人もいなかった為だ。だが、マイアもブランの父親も、それに注意を払う様子はなかった。
 母が亡くなった後、双方の父が食事を共にする機会が増えたので、私達はよく顔を合わせるようになった。
 私とブラン、そして、年齢は離れてはいたが、エルドとソエルがそれに加わった。子供ばかり四人で、いつも夕食を共にしていたような気がする。
 十二になると、私とブランは大人の食卓に加わるようになった。そこでもブランはほぼ無言で、「はい」「いいえ」が言えれば上出来だった。美しくは成長していたが、つまらない娘だと、正直、思った。大人の会話の方が面白く思う年頃でもあったし、私は既に、父から後を継ぐようにと告げられていた身だったので、大人達の話す事は何でも知りたかった。
 やがて、私は鯨漁(いさなとり)に参加が許されて一人前の島の男と認められた。十八になると遠征も共にするようになった。
 そんな中で、女を知った。
 まだ若かった私にそういう事を教えたのは、年上の者達だ。父ではない。族長集会に随伴しておきながら、父は、私がもう、そのような年齢に達していた事にすら気付いてはいないようだった。食卓で大人達と同じ()の蜜酒をの飲んでいてさえ、誰も気には掛けなかった。そして、お前ももう知っているだろうが、この島では女の純潔というのは大して意味を持たないので、そちらの方でも特に不自由はなかった。互いに心得ていたから、庶子がいない事は、誓う。
 父は常に、エルドの年齢で全てを考える癖が付いてしまっていた。私はエルドより七歳も年上にも関わらず、父にとっては私とエルドの年齢差はそれ程意味を持たないようだった。死んだ子の年齢を数える、と言うが、父は母の亡くなった年月が全ての基準だった。運命の死から、結局は立ち直る事の出来なかった人だった。
 だから、そこに付け入られる隙が出来たのかもしれない。
 ある時、同年輩の者達と飲んでいると、誰かが言った。
 ブランが私に気があるのではないか、と。ブランの美しさは男達の目を引いたが、何しろ、父親とマイアが目を光らせていたので、近寄る事の出来る者は殆どいなかった。
 エルガドルも、その場にいた。エルガドルは、私が九歳の時に、父に連れられて島に来たのだが、その時から常に、私の良き友だ。はっきりとした年齢はエルガドル自身にも分からぬらしいが、私と同じくらいだろう。そのエルガドルは、あの娘は駄目だと、はっきりと言った。大切に育てられすぎて、まだ子供だ、と。それに、戯れに女と関係を持つものではないと忠告してくれた。
 だが、私はエルガドルが既に運命と出会っている事を知っていたし、そのような者の言葉は気にならなかった。運命に出会ってはいない私には、誰でも同じ事だったのだ。
 ブランに特別な感心があった訳ではない。相変わらずつまらない娘だとしか思えなかった。ただ、自分に好意を寄せている生娘(きむすめ)とはどういうものなのか、興味を持ったに過ぎない。次の族長だというだけで、私に興味を持つ女は集会で訪れた地でも多くいた。そういう女達と関係を持つ事にも、慣れてしまっていたからかもしれない。
 会食の席で観察してみると、確かに、ブランは私に興味があるようだった。幼い頃から、余り目を合わせようとはしない娘だったが、じっと見つめると、こちらの視線に気付いて赤くなったりしていた。それを見るのは、面白かった。別にブランに何らかの気持ちを(いだ)いていた訳でもない。揶揄ってみると面白い、という程度の、子供っぽい感情だった。
 それが一変したのは、マイアの言葉だった。
 ある日、マイアが私の所へやって来て、話がある、と言った。
 お嬢さまが、私の事が好きだ、と言うのだ。だが、それを直接口にするのは恥ずかしい、と。
 特に心は動かされなかった。だから、そのままにしておくと、マイアは何度もやって来た。その内、ブランは体調が優れぬと言って、会食に来なくなった。
 マイアは、それを私のせいだとなじった。私が、何の行動も起こさないからだ、と。
 そのように言われれば、その気になってしまったのが、若さ故の愚かさだろう。何時いつには父親が家を空けるので、忍んで来て欲しい、と言われた。夜這いをかけろ、とまで誘われたならば、拒否する理由もなかった。
 言われた日時に、私はブランの部屋の跳ね上げ窓を叩いた。マイアから聞いていたのか、直ぐに、開いた。
 そこから中に入ると、ブランがいた。その顔は明るく輝いていた。
 そうとなれば、後はいつも通りだった。年上の女達が教えてくれたように、今までの女達にして来たように、するだけだった。
 確かに、途中までブランも大人しく、為されるがままだった。だが、肝心な時に、急に怖気付いたのか、私を拒否して来た。私の方では、若さもあって、それでは治まらなかった。結局は、宥めすかしてブランを

にした。
 だが、その時だった。
 突然に部屋の扉が開かれ、いないはずのブランの父親が入って来た。
 その瞬間に、私は自分がはめられたのだと気が付いた。
 泣くばかりのブランはマイアに抱き付き、酷い事をされたと言うばかりだった。マイアはマイアで、誘いの言葉を掛けてきた時とは大違いで、私を罵った。
 処女性を重んじないとは言え、現場を押さえられたのだから、何があったのかは明白だった。
 ブランの父親は、私の父に直談判をした。そして、私はブランを娶る事になった。運命ではない者を伴侶とする者も少なくはないのだから、仕方のない事だと思った。いずれは、誰かを迎えねばならない身だった。それが、ブランであって悪い訳ではなかった。
 妻になったとは言え、ブランに出来る事はなかった。また、マイアがさせようとはしなかった。それ故に、女戦士になる為の訓練中だったソエルを呼び戻して、若くはあったが、女主人の役目を負わせざるを得なかった。夢を閉ざした事への不憫さから、ソエルを甘やかしてしまったのは、我々の責だ。
 夫婦としても、最悪だった。
 私は奸計に引っ掛けられた事を忘れる事が出来なかったし、ブランに対して興味も関心も持てなかった。それは、ブランとても同じだっただろう。無知なままに男に身を任せ、その心に残ったのは苦痛と恐怖、そして後悔だったに違いない。私に対して(いだ)いていたのは、空絵事の恋愛に過ぎなかっただろう。現実の前に、それは霧散してしまったと思う。
 だから、取り決めを交わした。
 身体の弱いブランが族長室を使い、日中は館を空ける事の多い私は今のソエルの部屋を使った。結婚した以上は、後継ぎは、それでも必要だったので、月に一度だけ、関係を持つと決めた。子が産まれれば、それでその関係も解消され、ブランは名のみの妻となり、五年経っても孕まぬ時には、他の女に産ませるか、エルドを後継者とする、と。
 三年経って、ブランに子が出来た。相手に何の感情も持てなくても、子は出来るものだ。その時には既に父は亡く、私は北海で最も若い族長となっていた。だが、悪阻が重く、精神的に不安定になったブランは子を望まず、始末したいとまで言った。私に、何度も、腹を蹴って子を殺せと言った。子は難産で何とか産まれたが、結局、出血が止まらずにそのまま亡くなった。
 予感は、あった。
 子供の頃から弱く、壊れ物のようだったブランには、重すぎた荷だったのだ。いつまでも守られる存在でありたかったブランには、母親になるという気持ちも覚悟もなかった。子が産まれても、その世話すらも出来なかっただろう。だから、私はその死に愕かなかった。また、愛情もなかったせいか、心も動かなかった。いや、むしろ、解放されて安堵したと言っても良いくらいだ。
 それを評して、人は私が残酷だとか妻殺しだとか、言うのだろう。
 産まれた子は、マイアの管理下に置かれた。私が様子を見る事すらも、マイアは拒んだ。ブランの死の責任は私にあるというのが、その理由だった。堕胎の技は長しか知らぬ秘中の秘である為に、元療法師とは言え、マイアには手出しの出来ぬ事だった。嫌だと訴えたブランに子を産ませたので信用できない、と言うのだ。そして、私を差し置いてブランの父親のみが、自由に会う事が出来た。次期族長の後見となろうという目論見があったようだ。だが、愛娘の死が響いたのか、一年経たずして亡くなった。
 五年の間、私が独り身でいたのは、運命に出会うまでは、惑わされまいと思ったからだ。今生で出会う事がなくとも、それはそれで構わないと思った。つまらぬ関係に振り回されるよりは、その方が楽だった。
 イルガス、という名は、父が私に男子が出来た際に付けるようにと残してくれたものだ。若い私では、不安だったのだろう。また、運命に出会っていた父は、私達の関係についても察していたのだろう。イルガスというのは、数代前の族長に由来するものだ。子にも孫にも恵まれた、幸福な人であったと伝わっている。
 私とて、あれに関心がない訳ではない。産まれた経緯はどうあれ、自分の血を分けた者である事に違いはない。子に罪はない。私の母が出産で生命を落としたからと言って、父がエルドを憎まなかったのと同じだろう。エルドは幼い時、母にとても良く似ていた。憎むのも無関心でいるのも無理だっただろうが、私も、弟としてエルドを大事に思っている。母とは、亡くなる前に少し、話が出来たというのも大きかったのかもしれない。だが、私は、妻の死に目に立ち会う事もなかった。ブランや周りが望めば叶えられただろうが、全てはマイアが仕切っていた。私は蚊帳の外だった。また、私もそれで良いと思った。
 私は、イルガスを独り立ちさせねばならない。しかし、それは、再びマイアの計略に掛かるのではないかという警戒も呼び起こす。マイアは、あれを手放したくはないだろう。それでも、私の後は継がせたいと思っている。
 そういった事に、お前が巻き込まれはしないかという不安が、常に付きまとう。
 イルガスは、私にお前の様子を訊ねて来た。お前があれを気に掛けている事を、幼いながらにも分かるのだろう。だが、マイアにとり、それは許されぬ事だろう。
 私の過去の愚行が、これからお前を苦しめて行くのかもしれない。
 これが、私の話の全てだ。
 それでも、お前は、私を憎んだり軽蔑せずにいられるのだろうか――

    ※    ※    ※

 リィルは海狼の胸に顔を埋めて泣いた。
「なぜ泣く」海狼はリィルの髪を撫でて言った。「何を泣く事がある」
「おかわいそうな奥方さま」リィルは微かに震える声でそう言った。「それでは、あまりにも奥方さまがおかわいそうです」

も、全てを知っていたのだ」冷静に海狼は言った。「父親とマイアの計画で、自分の為すべき役割を、ブランは知っていた。そして、族長の妻ともなれば、全て使用人任せの生活を続けられるという利権を、自ら選んだのだ。同情する事はない」
「それは、あなたの推測にすぎないのでしょう」
 海狼は静かに首を振った。「私は、身重の

に罵られた。父に諭されなければ、私が族長の跡継ぎでなかったならば、身を委ねはしなかった、と。」
「でも、あなたのことを愛していらしたのでしょう」
「そうは思わんな」海狼の声は、飽くまでも穏やかだった。「だが、私を陥れさえしなければ、まだ夢を見て生きていたであろう事は、確かだ」
「あなたのせいでは、ありませんわ。それに、それ以外の生き方のできなかった奥方さまのせいでも。わたくしは、あなたが奥方さまを愛していらっしゃるあまりに、思い出したくはないのだと思っておりました」
「自分の愚行を思い知らされるからだ。私は、一片の愛情も持てなかった」
「でも、イルガスさまを立派にお育てしようとなさっています」
「私の唯一人の子だからな」
 海狼は肩を竦めた。
「そのようなことを、おっしゃってはいけませんわ」リィルは言った。「あなたの大事なお子ではありませんか」
「私は時に、

がお前の子であったならばと思う事がある――如何に望もうと、詮無い事は承知している。何故(なぜ)、私はお前に出会うまで待てなかったのだろうか。運命を軽んじた罰なのか。何故、恥も外聞も気にせずに、

を一人で放っておかなかったのだろうか。例え、既にブランが妻の座にあろうとも、私はお前のみを愛し、迎えたであろう。どれ程の賠償罪を支払う事になろうとも、妻とは別れたであろうに」
 青い目は、優しかった。
「お前は、私の母やブランよりもずっと、華奢に出来ている。二人にさえ耐えられなかった出産を、お前の身が耐えられるとは思えん。お前を失えば、私は生きては行けぬだろう」
 リィルには、海狼が何を言いたいのかが分からなかった。
「お前に子が出来ぬ事に、私は安堵している」
「ご存じだったのですか」
 リィルは唇を噛んだ。
「私はこれでも、結婚していた男だからな」海狼は苦笑した。「それに、ソエルは二歳から私が面倒を見て来た。月の障りについてくらいは、知っている」
「でも――」
 どのようにして、この人はそれを知ったのだろうか。
「このふた月の間、お前にそのような素振りはなかった。しかも、この間、ソエルがお前が療法師の館に出入りしたという事を口にしていただろう――私は、お前に子が出来たのではないかと思い、長を問い詰めた」
 長が話したのかと思うと、リィルは目の前が暗くなるような気がした。
「長を責めるな。私が、無理に聞き出したのだ」海狼の声は遠くから聞えるようだった。「長は、お前の身体の事を話してくれた。そして、治療できるかも知れないと言った。だが、私は、お前に子を産ませたくはない」
「わたくしが、望んだとしてもですか」
 海狼は首を振った。
「母は、私を産むにも苦しまねばならなかった。父は二人目を望まなかったが、母は強く望んだ。私には弟妹がいた方が後々、良いと言って」
 リィルの顔を持ち上げ、海狼はその目を見た。
「この世に生命を送り出すという神聖な役割を担いながらも、同時に自らの生命を危険に曝さねばならないのが、女なのか。男の身勝手な快楽の代償も、そうやってお前達が支払わねばならないのか。お前も、私の母のように、何かの時には自分の生命よりも子を選ぶのか。エルドが産まれる際、危険だと思った女療法師が父に訊ねたのを、私は今でもはっきりと思い出せる。母親と子、どちらを生かすのか、と。父は母を選んだが、母はそれを許さなかった。だから、エルドがいる。父にとってもそうであったように、私にとってもエルドは、大事な母の忘れ形見だ。だが、私は、お前の忘れ形見を愛する事はないだろう。お前のいない世界でなど、生きて行く意味がない」
 海狼はリィルの髪に顔を(うず)めた。「駄目だ。それだけは、駄目だ。私が、許さん」
「全ての女性が、出産で生命を落とすわけではありません」リィルは海狼の身体に腕を回した。「現に、ローアンは、わたくしは大丈夫だろうと申しておりました」
 ぼんやりと、細身の女性が脳裏に浮かんだ。だが、それが誰なのかを思い出す事は出来なかった。
「不確実な事に賭けたくはない。私は臆病者なのかもしれないが、その(そし)りを受けても、お前を失いたくない。お前を失えば、私もまた、生命を落とすだろう」
「あなたは臆病者ではありません」リィルはやんわりと言った。「ただ、身近にそのようなことが多く起こったために、他の方より少し、気になさっておいでなのです。あなたは、わたくしに何があろうとも、族長でいらっしゃいますもの、大丈夫です、お父上のように、立派に務めを果せられます」
 海狼はそれには無言で、リィルを抱く腕に力を込める事で応えた。
 ああ、この人は――
 この人は、知らず、愛情を欲していたのだ。
 エルドは言わなかっただろうか。父親より年上に見える事があった、と。運命の死から遂に立ち直る事が無かったという父親を支える為、族長の長子という地位にいたせいか、この人の子供時代は、余りにも短かったのだろう。
 七歳で母親を失い、大人にならざるを得なかったのだろう。
 リィルは目を閉じた。

 翌朝、リィルが目醒めると、外は静かになっていた。
 夕べ、リィルは海狼の胸に黙って寄り掛かり、海狼もただ、静かにリィルを抱いていた。そうしている内に、いつの間にか眠ってしまったのだろう、知らない間に寝台に運ばれていた。海狼の腕が背後から回されており、ずっと、護られていたのだと思った。
「ああ、起きたのか」珍しく後で起きた海狼が言った。「誓って、何もしてはいないからな。まあ、何かあったなら分かるだろうが」
 その言葉に、リィルは赤くなり、海狼は笑った。屈託のない笑顔だった。全てを話して、何も隠す必要がなくなったからかもしれない。
「早く浜に行かないと、めぼしい物は直ぐに子供達に掠われてしまう。急いで身支度をしよう」
 海狼は快活に言った。


 集落から少し離れた外洋に面する狭く長い砂浜には、既に人々がいた。まだ波が高かったので、幼い子供は親に連れられており、少し大きな子達は、思い思いの物を拾っては自慢し合っていた。海藻を拾っている者もおり、岩には、まだ幼さが残る顔の女戦士見習いが槍を手に座して皆を見守っていた。
「以前に、我々はどこから来たのか分からぬ、と言った事があったな」海狼は砂浜を歩みながら言った。「余りに貧しいこの島にやって来た我等の祖先に、海神はいたく同情されて、紫の目を持つ最愛の娘を族長の妻に下された。その為に、ここは海の幸に恵まれている。そして、娘の血脈が寂しがらぬようにと、嵐の後には必ず、海神よりの贈り物が届く。それが、海神の賜物だ。それ故に、ここに来た経緯はどうあろうとも、この島に生きる者は全て、死すると海に還る。我等の生命は、海より来て海へと還るのだ」
 部族創世の物語を、リィルは初めて聞いた。それは、あの島で謡われていた物語とは全く異なっていた。この部族が異教である、という言葉の意味が分かる気がした。だが、リィルには海神を奉じる事を異教とは思えぬ所があった。
「ああ、これなどは療法師や家畜の役に立つ」
 海狼は屈み込んで、大きな白い舟形の物を拾った。
「烏賊の一部だ。漁などでより、ずっと大きく良質な物が手に入る。鶏などは、こいつを与えなければ、産んだ卵を食ったり、殻なしの水卵を産んだりするから厄介だ。療法師が何に使っているのかは、私は知らんがな」
 海狼はそれを近くの子供に手渡した。
 砂浜に点在する貝殻は、どれも初めて目にする物で、形も色も美しいとリィルは思った。まさに、海神よりの賜物だった。二人でその幾つかを拾い、眺めた。
「時には、この島では貴重な木材や、交易島で高価に取引きされるような物も揚がるが、それは他の者に任せれば良い。難破船の物と思われるような物品が漂着する事もある。それはそれで、面白いものだがな」
 遠くから海狼を呼ぶ声がした。リィルがそちらを見ると、人々が集まっていた。
「さて、何が揚がったのやら」
 二人で向かうと、人垣が割れた。
 あの見習い女戦士が人々から何かを守るように槍の穂先を下げ、波打ち際に立っていた。そこに見えたのは、不気味な形をした、見た事も無い生き物だった。鰓と鰭のある事から、何とかそれが魚だと分かった。
「海神よりの使者だ」海狼は言った。「丁寧に塚に葬らねば」
 その顔は、少し厳しいものになっていた。「吉兆か、凶兆か――」
「凶兆ですわ」
 マイアの声が響いた。その後ろに、イルガスの姿があった。
「族長が、新しい奥方さまをお迎えになったことに、海神がご不快の念をあらわされているのですわ」
 人々が、ざわめいた。
「では、私は吉兆と取ろう」海狼は真っ直ぐにマイアを見た。「菫色の目をした海神の娘が還って来たと言う言祝(ことほ)ぎの徴だと」
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