第5話 巻き戻しの原因

文字数 3,457文字

 僕は、今日のことをものすごく後悔していた。どん底とはこのこと。
 自室のベッドで頭をかかえながら自己嫌悪に陥る。

 はぁ、本当、どこで間違ったんだろう?
 胃が…すごく痛い。しくしくする。
 明日はむしろ巻き戻ってほしい。巻き戻っていないと合わせる顔がないよ。

 ニヤは僕の部屋の定位置、ベッド脇のオレンジ色の座布団の上に横たわり、しっぽをパタパタさせていた。
 ニヤは人の感情が、なんとなく匂いとしてわかるらしい。恐怖の感情から怪異が生じることもある。都市伝説なんかはその典型。ニヤは新谷坂で生じた痛ましい匂いや苦しい匂いなんかをたどって、僕を怪異のもとに案内する。

「ニヤ、雨谷さんはお父さんのことが好きだよね?」
「そうだな」

 もう一度目を閉じる。
 さっきの雨谷さんを思い浮かべる。

『紅林邸で男の人の幽霊が出るんだって。雨谷さんのお父さんだったりするのかな? 雨谷さんを見守っているのかも』

 雨谷さんの様子が変わったのは『お父さん』が『見守っている』というところだった気がする。
 お父さんが見守るのが怖いのか? まさかDVを受けていたとか。でも雨谷さんはお父さんのことをすごく好きそうだった。好きだけど怖がっている?

「ニヤ、雨谷さんはお父さんが怖いのかな? お父さんに虐待されていたとか」

 ニヤはよくわからないというように顔を伏せる。

「……我にはよくわからぬが、アマガイに恐れの感情はないように思う。どちらかといえばあの感情は……お主がたまに抱いている『義務感』というものに近しいだろうか?」

 義務感?
 僕が義務感を感じるのは、新谷坂の封印のことだ。今も雨谷さんを助けたいという気持ちの半分くらいは、僕が拡散した呪いをなんとかしなきゃいけないという義務感だと思う。
 雨谷さんは何かしないといけないことがある?
 絵を描くこと? 絵は描いているよね? 僕が話しかけたから絵を描く時間が減ったとか?
 でも、こういってはなんだけど誘って断られたことはない。

「アマガイは我と同じく、役目のある傀儡だ。それが好きでやっていることだ。気にすることはないのではないかね?」

 ニヤの話はわかりづらい。
 ニヤの役目は新谷坂の怪異の封印だけど、ニヤ自身は怪異が封印されようとされまいと、どちらでもかまわない。ニヤは封印するものがあれば封印するし、なければしないというスタンス。その役目を放棄してはいないけど、積極的には義務を果たさないってことになるのかな。
 でも雨谷さんの義務って何だろう。それはわからないけど、そもそも雨谷さんは事情が違う。
 ニヤは雨谷さん自身がまき戻しを望んでいるって言っていた。けれども僕が新谷坂の封印を解いたことが関係ないはずがない。ひょっとしたらループしているせいで役目が果たせてないのかもしれない。
 そんな中で、僕が勝手に雨谷さんの事情に無断で押し入って、一方的に傷つけてしまった。やっぱり放っておくわけにはいかないよ。

 でも、考えても考えても、いい考えは全然浮かばなかった。
 僕はだんだん重くなってきた頭としくしく痛む胃をおさえ、とりあえず眠ることにした。
 リモコンでピッと部屋のライトを消すと、黒猫のニヤはすっかり見えなくなったけど、息遣いは感じる。僕もゆっくりまぶたを閉じた。

 その日、雨谷さんとお父さんが、ベンチでお弁当を食べている夢を見た。雨谷さんのお父さんはとても満足そうにしていたけど、雨谷さんは嬉しそうにしながらも、どこか少し遠い目をしていたように思う。

◇◇◇

 9日目の朝。少し重い頭を動かし、ベッドを出る。
 僕はやっぱり雨谷さんと話をしたい、しないといけないと思った。巻き戻しが続いているなら、次はもう少し慎重に聞いてみよう。いつもと同じように雨谷さんに話しかけよう。でもうまくいくかな。
 僕は指で頬を横に引っ張り、ぐにぐにと動かす。うまく表情が作れないや。

 続いていなかったら、どうしていいかわからない。謝るしかない。
 巻き戻しを止めようと思っていたのに巻き戻ってほしいと願うなんて。はぁ、自分が情けないし胃も痛い。

 春の終わり、夏に近づく気配が木々の濃い緑から感じられる、さわさわとそよぐ木陰から日の光がきらきらと降り落ちる。季節は雨谷さんをさしおいて、もうすぐ夏になる。
 そんななか、僕は鬱々とした気分で、なかなか進まない足を無理にけとばし紅林公園の垣根にもぐった。

 垣根を抜けて池の裏を回ったら雨谷さんの背中がみえる。いつも通りだけど、少しの違和感。そういえば、今日は画材を持っていない。
 今日もひゅぅと強めの風が吹いている。
 風で帽子がとばされる前に、絵を持った雨谷さんは振り返って僕を見た。
 一瞬、時間も何もかも止まった気がした。

「……東矢くん……昨日はごめん」
「いやっ! 僕の方こそごめん! ほんとに。どう謝っていいかわからないんだけど謝らせてほしい」

 僕はあわてて、何を謝るべきかもわからないままに、土下座する勢いで謝る。巻き戻されていなかった。
 巻き戻しがなくてよかった、よくなかった、よかった、よくなかった、僕の頭の中はぐちゃぐちゃだ。おそるおそる見上げた雨谷さんは、少し眉を寄せてなんともいえない困った表情をしていた。

「東矢くん、昨日は誘ってくれて嬉しかった。でも、私、やらないといけないことを思い出したの」

 義務感……。ニヤが昨日いっていた言葉が思い浮かぶ。
 それが何か、知りたい。けど、僕は昨日の失敗を思い出して、次の言葉が出なかった。
 そうしているうちに、雨谷さんは話しだしてしまう。

「私と東矢くんは、今日までも何回か会ってたのかな……私は覚えてないけど……そんな気がする」

 雨谷さんは小さく頷いて、少し申し訳なさそうな、寂しそうな顔をした。そして、大切なものを見つめるように絵を眺める。
 完成間近だった絵は、どうやら完成したらしい。そして、雨谷さんは池の向こうの紅林邸を見つめながら、僕に話しかけた。

「昨日の朝、目が覚めて、絵をかこうと思ってキャンバスを見たら、おかしいなって思ったの。私がいつも見ていたこの庭と家より、この絵のほうがずっと暖かいって感じた」

 一拍の沈黙。僕らの間に日差しが優しく降り落ちている。

「不思議だな、と思って絵を描きに出かけたら、東矢くんに会った。昨日以外でも、私と会ってくれてたんでしょう? ひょっとしたらもっと前からなのかな。多分、私はとても嬉しかったんだと思う。だから絵も暖かくなったんだと思うんだ。忘れちゃっててごめんね」

 雨谷さんは寂しそうに笑う。僕は何というべきかわからなかった。
 多分、すごく変な表情をしていたと思う。

「でも、お父さまが見てるなら、私はやらないといけないことがあるの。だからもう、ここには来れないと思う。東矢くんももうこないで」
「急に言われても!……せめて理由を教えてほしい……」

 僕は慌ててそう叫ぶ。僕が聞いてもいいことなんだろうか、という思いでだんだん小さくなっていく言葉じりに抵抗するように、僕は思わず雨谷さんの手を取ってしまった。そして僕は気づく、怪異の気配に。

 雨谷さんの手は予想に反する変な感触がした。
 まるで、粘土のような……。

 雨谷さんの手はしっとりと重く、冷たかった。固いけどぐねぐねとした、固まりかけた粘土のような感触が手の中に残る。想像していた生きている人の暖かさや弾力とは無縁の、何度か感じたことのある強い死の匂いをまとう感触。

 思えば雨谷さんは僕と一定の距離を保っていた。僕が彼女に触れないようにと。そして僕は理解した。雨谷さんは新谷坂の封印から逃げ出した怪異の犠牲者だと思っていたけど、雨谷さんこそが怪異そのものだったんだ。

「……私はやらないといけないことがあるの」

 雨谷さんは、驚きで固まっている僕に、同じ言葉を繰り返す。
 僕はニヤが言っていた『役目のある傀儡』という言葉を思い出す。ニヤの発言は何かの比喩ではなく、そのままの意味だったの?

 雨谷さんはぎこちなく笑ってそっと僕の手を離す。

「この絵は東矢くんにあげる。大事にしてくれるとうれしい」

 雨谷さんは絵を僕に押し付けて駆け出した。僕はおいかけようとしたけど、押し付けられた絵にバランスをとっているうちに、雨谷さんは走り去った。
 でも、これも言い訳だ。大きめの絵だったけど、追おうと思えば追えた気がする。僕の頭はまだぐるぐると混乱を続けていた。

 雨谷さんの絵の中の紅林邸の2階のベランダには、優しそうな男性が描き入れられていた。
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