【03】
文字数 2,585文字
会社に向かうバスの中でも、僕はずっと考え事をしていた。
――卵、美味しかったな。
――美味しい?
――ちょっと違うな。
――気持ち良かったんだ。
――そうだ。吞み込んだ時に気持ち良かったんだ。
――そうなんだ。
――でも妻は、どうしてあんなに驚いてたんだろう?
――卵を吞んだことがないんだろうか?
――きっとないんだろうな。
――そう言えば、最近蛙を食べてないな。
そう思ったら、急に蛙が食べたくなってきた。
無性に食べたくなってきた。
***
会社に行くと、すぐに上司に呼ばれた。
「杉浦君、最近すごく調子が悪そうだけど、大丈夫かね?」
朝から怒られると思っていたら、違っていた。
「今日ね、産業医の先生が来てるんだよ。
僕が、朝一で問診の予約を入れといたから。
これから行ってきて」
「え、いや。
別に医者に診せるようなことはないんですけど」
「そう言わないでさ。
第一会議室で先生が待っていらっしゃるから。
行ってきなさい」
最後は命令口調だったので、僕は従うことにした。
今朝の妻同様、それ以上話すのが億劫になったからだ。
会議室に入ると、少し瘦せ気味の男が、会議机の上にパソコンを置いて座っていた。
「杉浦さんですね。
どうぞお掛け下さい。
産業医の玉田です」
僕が座ると、玉田は徐 に問診を始める。
「杉浦さん、最近仕事中にぼんやりされていることが多いそうですが、何か悩み事がおありですか?
些細なことでも構いませんので、気軽に仰って下さい。
ここでの相談内容は、原則上司の方にも同僚の方にもお話しないことになっておりますので、ご安心下さい」
「はあ。そう言われましても、特に何もないんですけど…」
「ご家庭で何かあったとか。
上司や同僚とトラブルがあったとか。
何か思い当たることはありませんか?」
「はあ、特にないですね」
僕は、玉田という医師と話すのが、段々面倒になって来た。
「そうですか。
#“!?*#$%&*?>?*#$%」
そして途中から、玉田の話が、まったく頭に入って来なくなった。
「もしもし、杉浦さん。
どうされました?」
そう言いながら、玉田が僕の顔を覗き込む。
その声で僕は我に返った。
「あ、すみません。ちょっと、ぼうっとしてしまって」
「そういうことは、よくありますか?
誰かと話している最中に、ぼうっとなってしまうようなことが」
「そう言われると、そんな気がします」
僕の答えに、玉田が深刻な表情を浮かべる。
「杉浦さん。
つかぬことを伺いますが、この部屋に入って来られてから、一度も瞬 きされていませんよね」
瞬き?何だろう?
「実は杉浦さんの同僚の方からのお話で。
あなたが仕事中ずっと、瞬きせずに前を見つめて、ぼうっとされていることが多いそうなんですよ。
自覚はありますか?」
「うーん。あまり考えたことがないですね」
玉田は更に深刻な表情で言った。
「申し訳ないですが、一度瞬きしていただけませんか?」
僕は、彼が何故そんなことを言うのか、理解できなかったが、言われた通りに瞬きしてみた。ちゃんとできる。
「ああ、出来ますね。ということは機能障害のようなものではないということか」
玉田はそう独 り言 ちた。
――僕が瞬きしていないなんて、そんなことがあるんだろうか?
――いや、待てよ。
――そう言えば最近、眠る時も瞼を閉じていないような気がする。
――気のせいだろうか?
結局玉田は、一度専門医にかかるように言って面談を終えた。
職場に戻ると、上司が僕を手招きする。
「杉浦君。
今日はもう帰っていいから、1週間くらい休みを取ったらどうだろう。
人事には、僕から言っておくから」
僕は上司の言っている意味が、よく分からなったが、反論するのも面倒になって、彼に従うことにした。
席に戻って帰り支度をしていると、周囲の同僚たちが、僕の方を恐々と盗み見ているのを感じた。
しかし、それもどうでもよかった。
帰りのバスの中でも、僕はずっと考えていた。
――随分と長い間、蛙を食べてない。
――蛙が食べたい。
――無性に食べたい。
***
「どうしたの?こんなに早く」
家に戻ると、妻が驚いて訊いてきた。
僕が、上司から1週間休暇を取ることを勧められたことを告げると、妻は不安そうな表情を浮かべる。
僕が会社を馘 になるんじゃないかと、心配しているのかも知れない。
娘が生まれたばかりだしな。
娘?!
その夜眠っていると、自分が瞼を閉じていないことに気づいた。
昼間、玉田に言われたことが頭に残っていて、意識していたからだろう。
確かに眠っているのだが、瞼は閉じていない。
しかし、目は何も見ていなかった。
何故か自分が瞼を閉じていないことを意識した途端、急に蛙が食べたくなってきた。
蛙のことを思い出すと、我慢できなくなってきた。
――蛙を探さなきゃ。
――蛙。
――蛙。
僕はベッドからそっと降りる。
部屋の中は灯りが消えて暗かったが、蛙はすぐに見つかった。
――いたじゃないか。
僕は歓喜に打ち震えながら蛙に近づくと、口を開けて飲み込もうとした。
その時僕は誰かに腰を抱えられ、後ろに引き倒されてしまった。
――ああ、蛙があそこにいるのに。
「*$%&*?>##“!?」
気がつくと部屋が明るくなっていて、妻が僕に向かって、何か喚いている。
とても怒っているようだ。
しかし妻が何を言っているのか、さっぱり解らない。
意味不明の強い声が、何だか耳ではなく、頭に直接響いてくるようで、とても不快だ。
一体彼女は、何をそんなに怒っているのだろう。
それでも喚き続ける妻が、僕はとても怖くなった。
――逃げ出したい。
そう思った時、妻の言葉が実体を持って、僕の耳朶 に響いて来た。
「あなた、頭おかしいんじゃないの?
自分の娘の頭に咬みつこうとするなんて。
何でそんなことするのよ!
気でも狂ったの!?」
――娘に咬みつこうとした?
――何を言ってるんだ。
――僕は蛙を食べようとしただけなのに。
なのに妻は酷く怒って、泣き叫ぶ娘を抱き上げると、寝室から出て行っていまった。
僕は床に座り込んだまま、呆然としていた。
暫くすると、外出着に着替えた妻が寝室に戻って来た。
「もうあなたとは一緒に暮らせません。
自分の娘を咬もうとするなんて。
これから実家に戻って、明日中に離婚の手続きを取らせてもらいます」
そう宣言した妻は、寝室のドアを荒々しく閉める。
少しして、玄関のドアが閉まる音が聞こえて来た。
本当に出て行ってしまったようだ。
僕は何が起こったのか理解できず、その場に座り続けていた。
――卵、美味しかったな。
――美味しい?
――ちょっと違うな。
――気持ち良かったんだ。
――そうだ。吞み込んだ時に気持ち良かったんだ。
――そうなんだ。
――でも妻は、どうしてあんなに驚いてたんだろう?
――卵を吞んだことがないんだろうか?
――きっとないんだろうな。
――そう言えば、最近蛙を食べてないな。
そう思ったら、急に蛙が食べたくなってきた。
無性に食べたくなってきた。
***
会社に行くと、すぐに上司に呼ばれた。
「杉浦君、最近すごく調子が悪そうだけど、大丈夫かね?」
朝から怒られると思っていたら、違っていた。
「今日ね、産業医の先生が来てるんだよ。
僕が、朝一で問診の予約を入れといたから。
これから行ってきて」
「え、いや。
別に医者に診せるようなことはないんですけど」
「そう言わないでさ。
第一会議室で先生が待っていらっしゃるから。
行ってきなさい」
最後は命令口調だったので、僕は従うことにした。
今朝の妻同様、それ以上話すのが億劫になったからだ。
会議室に入ると、少し瘦せ気味の男が、会議机の上にパソコンを置いて座っていた。
「杉浦さんですね。
どうぞお掛け下さい。
産業医の玉田です」
僕が座ると、玉田は
「杉浦さん、最近仕事中にぼんやりされていることが多いそうですが、何か悩み事がおありですか?
些細なことでも構いませんので、気軽に仰って下さい。
ここでの相談内容は、原則上司の方にも同僚の方にもお話しないことになっておりますので、ご安心下さい」
「はあ。そう言われましても、特に何もないんですけど…」
「ご家庭で何かあったとか。
上司や同僚とトラブルがあったとか。
何か思い当たることはありませんか?」
「はあ、特にないですね」
僕は、玉田という医師と話すのが、段々面倒になって来た。
「そうですか。
#“!?*#$%&*?>?*#$%」
そして途中から、玉田の話が、まったく頭に入って来なくなった。
「もしもし、杉浦さん。
どうされました?」
そう言いながら、玉田が僕の顔を覗き込む。
その声で僕は我に返った。
「あ、すみません。ちょっと、ぼうっとしてしまって」
「そういうことは、よくありますか?
誰かと話している最中に、ぼうっとなってしまうようなことが」
「そう言われると、そんな気がします」
僕の答えに、玉田が深刻な表情を浮かべる。
「杉浦さん。
つかぬことを伺いますが、この部屋に入って来られてから、一度も
瞬き?何だろう?
「実は杉浦さんの同僚の方からのお話で。
あなたが仕事中ずっと、瞬きせずに前を見つめて、ぼうっとされていることが多いそうなんですよ。
自覚はありますか?」
「うーん。あまり考えたことがないですね」
玉田は更に深刻な表情で言った。
「申し訳ないですが、一度瞬きしていただけませんか?」
僕は、彼が何故そんなことを言うのか、理解できなかったが、言われた通りに瞬きしてみた。ちゃんとできる。
「ああ、出来ますね。ということは機能障害のようなものではないということか」
玉田はそう
――僕が瞬きしていないなんて、そんなことがあるんだろうか?
――いや、待てよ。
――そう言えば最近、眠る時も瞼を閉じていないような気がする。
――気のせいだろうか?
結局玉田は、一度専門医にかかるように言って面談を終えた。
職場に戻ると、上司が僕を手招きする。
「杉浦君。
今日はもう帰っていいから、1週間くらい休みを取ったらどうだろう。
人事には、僕から言っておくから」
僕は上司の言っている意味が、よく分からなったが、反論するのも面倒になって、彼に従うことにした。
席に戻って帰り支度をしていると、周囲の同僚たちが、僕の方を恐々と盗み見ているのを感じた。
しかし、それもどうでもよかった。
帰りのバスの中でも、僕はずっと考えていた。
――随分と長い間、蛙を食べてない。
――蛙が食べたい。
――無性に食べたい。
***
「どうしたの?こんなに早く」
家に戻ると、妻が驚いて訊いてきた。
僕が、上司から1週間休暇を取ることを勧められたことを告げると、妻は不安そうな表情を浮かべる。
僕が会社を
娘が生まれたばかりだしな。
娘?!
その夜眠っていると、自分が瞼を閉じていないことに気づいた。
昼間、玉田に言われたことが頭に残っていて、意識していたからだろう。
確かに眠っているのだが、瞼は閉じていない。
しかし、目は何も見ていなかった。
何故か自分が瞼を閉じていないことを意識した途端、急に蛙が食べたくなってきた。
蛙のことを思い出すと、我慢できなくなってきた。
――蛙を探さなきゃ。
――蛙。
――蛙。
僕はベッドからそっと降りる。
部屋の中は灯りが消えて暗かったが、蛙はすぐに見つかった。
――いたじゃないか。
僕は歓喜に打ち震えながら蛙に近づくと、口を開けて飲み込もうとした。
その時僕は誰かに腰を抱えられ、後ろに引き倒されてしまった。
――ああ、蛙があそこにいるのに。
「*$%&*?>##“!?」
気がつくと部屋が明るくなっていて、妻が僕に向かって、何か喚いている。
とても怒っているようだ。
しかし妻が何を言っているのか、さっぱり解らない。
意味不明の強い声が、何だか耳ではなく、頭に直接響いてくるようで、とても不快だ。
一体彼女は、何をそんなに怒っているのだろう。
それでも喚き続ける妻が、僕はとても怖くなった。
――逃げ出したい。
そう思った時、妻の言葉が実体を持って、僕の
「あなた、頭おかしいんじゃないの?
自分の娘の頭に咬みつこうとするなんて。
何でそんなことするのよ!
気でも狂ったの!?」
――娘に咬みつこうとした?
――何を言ってるんだ。
――僕は蛙を食べようとしただけなのに。
なのに妻は酷く怒って、泣き叫ぶ娘を抱き上げると、寝室から出て行っていまった。
僕は床に座り込んだまま、呆然としていた。
暫くすると、外出着に着替えた妻が寝室に戻って来た。
「もうあなたとは一緒に暮らせません。
自分の娘を咬もうとするなんて。
これから実家に戻って、明日中に離婚の手続きを取らせてもらいます」
そう宣言した妻は、寝室のドアを荒々しく閉める。
少しして、玄関のドアが閉まる音が聞こえて来た。
本当に出て行ってしまったようだ。
僕は何が起こったのか理解できず、その場に座り続けていた。