【03】

文字数 2,173文字

『その子、お前の彼女だったな。
運悪いわ。

こっちに来た時の場所が、向こう側の吊革だったからな。
お前の前が空いたんで、こっちに移ってきたみたいだな』

オッサンの言葉に、ミユキが続いた。
『そうだよ、タカシ。あんただけ席に座ってずるいよ。
あたし、ぶら下がるの、もう限界だから代わってよ』

ミユキを見ると、片足がなくなっていて、顔も半分黒ずんでいる。

――汚くなりやがったな。
嫌悪感が湧いた俺は、迷わずミユキを蹴り飛ばした。

油断していたミユキは、向かい側の席まで落ちていく。
そちら側でぶら下がっていた奴が、巻き込まれて一緒に床に落ちたのを、俺はせせら笑いながら見ていた。

『何すんのよ。このバカ』
ミユキは喚いたが、後の祭りだった。

既に片足をなくしていたので、立ち上がることもできずに床に這いつくばるしかないようだ。

そして徐々に喚き声も小さくなっていき、ミユキは消えてしまった。

それを見た俺は、残念とは思わなかったが、少し怖くなる。
――消えたらどうなるんだろう?
――俺もああならないように、気合入れなくちゃな。

その時点で、俺は既にこの異常事態を受け入れていた。
何故なら俺は、単純バカだからだ。

***
電車の中の、席取り合戦は延々と続いていた。

電車が回送になり、乗客がいなくなると争いは唐突に始まる。
そしてまた乗客を乗せる段になると、俺たちは車内から消え失せる。

その間、他の奴らがどこにいるのか分からないが、俺は座席になって、次の回送の時まで身動きできずに、じっとしているのだ。

俺が座席になっている間、入れ代わり立ち代わり、色んな奴が俺の上に座って来る。
正直それが一番うざかった。

太った奴は矢鱈と重いし、年よりは臭い。
こっそり屁をこくやつは最低だった。

そして、そんな乗客の中に、俺みたいな奴が混じっていると、俺は何となく、そいつがこっち側にやって来ることが分かるようになっていた。

俺みたいな奴だけじゃなく、他にも座席に執着する奴は大勢いる。
男も女も、年よりも若いのも関係ない。

どいつもこいつも、競うように席を奪い合っている。

――こっちの世界と変わらねえじゃねえか。
身動き取れないままで、俺はそんなことを、ぼんやりと考えていた。

そして、そういう奴らの一部が、こちら側にやってきて、席取り合戦に加わるのだ。
毎日床に落ちて消えていく連中を補充するように、次々と人がやってくる。

運の悪い奴は、何が起こったのか分からないまま、床に落ちて消えていった。
そうじゃない奴でも、席を奪えなかったら、やがて力尽きて消えていくのだ。

そして今日も電車が回送になり、醜い争いが幕を切った。
既に終電を過ぎていたので、争いは夜通し続く。

最初のうち俺は、必死で向かって来る奴らを床に叩き落として、苦しみもがく姿を見て面白がっていた。
しかし、こうも毎日続くと、少しうんざりしてくる。

隣のオッサンはもっと酷かった。
顔がどす黒く変色し、蹴られても反撃できずに、じっと堪えていることが多くなっている。

俺はその様子を見ても、別に同情なんかしなかった。
むしろこっちに来た時に、俺をバカにしやがった仕返しをしようと、チャンスを狙っていたのだ。

そしてその日、待っていたチャンスが到来した。

俺が前にぶら下がった奴を、いつものように叩き落した時、横目でオッサンを見ると、俺が落とした奴に肩を掴まれて、少し腰が浮いたのだ。

その瞬間俺は、オッサンの背中を、思い切り前に押し出した。
不意を突かれたオッサンは、そのまま床に転げ落ちる。

空いた席には、すかさず斜め前にぶら下がっていた女が滑り込んだ。

「お前、何しやがる」
床に落ちたオッサンは、どす黒く変色した顔を、更に黒くして俺を睨んだ。

「いい様だ、オッサン。あん時言っただろうが。俺が動けるようになったら、覚悟しとけよってな」

俺は少し前かがみになって、悔しそうに俺を見上げるオッサンに顔を近づけると、そう言いながら、せせら笑ってやった。

オッサンは喚く力も最早ないらしく、どんどん床に吸い込まれていく。

その時、俺の背中に衝撃が来た。
その衝撃で、床に転げ落ちた俺が見たのは、俺の席を分捕って笑っている、中学生のガキだった。

そのガキはつい最近こちら側に来た奴だった。

かなり頭の回転の速い奴らしく、来た瞬間に車内の状況を見て取ると、俺の席のすぐ横にある、ドアの手すりに足をかけてよじ登った。

そしてそのまま網棚に掴まって、車内の争いに加わらず、じっとしていたのだ。

最初俺は、上から見下ろされるのが癇に障って、そのガキを引きずり降ろそうと考えたが、自分の体制が崩れるのを恐れて、放置していたのだ。

もちろん、そのガキが俺の席を狙っているのは、十分警戒していた。
しかし、オッサンを床に叩き落として、有頂天になった瞬間の隙を突かれてしまったようだ。

床に落ちた俺は、必死でガキの足を掴み、席から引きずり降ろそうとした。
しかし、ガキは俺の手をガンガン蹴りつけて抵抗する。

そうしているうちに、俺の体はどんどんと床に飲み込まれていった。

身体が消えていく際に痛みは全く感じなかったが、床に接した部分から、物凄く嫌な感触が全身に伝わっていった。

やがてガキの足を掴む力がなくなり、俺は手を離した。

もうすぐ電車に飲み込まれるんだろう。
――何で俺はこんな場所にいるんだろう?
消滅する瞬間、俺はそんなことを考えていた。
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