【02】
文字数 2,416文字
時計を見ると、まだ6時前だった。
僕はベッドから身を起こしたが、妻は隣のベッドで熟睡している。
2か月前に娘を出産したばかりで、育児と家事の疲れが溜まっているのだろう。
妻を起こさないよう気を付けながらベッドを降りると、キッチンに行って湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れる。
そしてトーストを1枚焼いて、簡単な朝食を済ませた。
テレビの音量を落としてニュースを見ていると、寝室から娘の泣く声が聞こえて来る。
お腹が空いたのだろう。
そう思っていると、娘をあやしながら、妻がキッチンに入って来た。
「おはよう」
「おはよう。起こしてくれたらよかったのに」
「うん、大丈夫。それより、ミルク?」
「そうみたい」
「お湯は1回沸かしたから、すぐ湧くと思うよ」
「ありがとう」
僕の職場は大手の化学工業メーカーで、自宅からはバス通勤だ。
少し寝不足だった僕は、バスに揺られながら、いつの間にか、転寝 してしまっていた。
そして浅い眠りの夢の中に出て来たのは、やはりあの少年だった。
「杉浦さん」
僕はその声に、ハッとして目を覚ます。
どうやら会社近くのバス停に着いたようだ。
眠りこけていた僕を、同僚が起こしてくれたらしい。
その日は1日中ぼんやりとして過ごした。
もちろん仕事はしていたのだが、集中できていたとは、お世辞にも言えない状態だった。
夜7時頃に仕事を終え、自宅近くのバス停でバスを降りた時には、既に7時半を回っていた。
バス停から自宅までは、徒歩で7、8分の距離だが、灯りも人通りも少ない、寂しい道が続いている。
帰路の半ば程まで歩いた時、僕は行く手にぼんやりと浮かぶ人影を見つける。
仄暗い風景の中で、そこだけ妙に明るく見えていた。
その時何故か僕は、その人影が、夢に出て来た少年であることを確信していた。
――何故だろう?
そう思いながら、僕は少年に走り寄る。
しかし彼は、そんな僕に気づいたように、後ろも振り返らずに走り去ってしまった。
次の日も、その次の日も。少年は僕の帰路に現れ、僕の前から走り去って行く。
その度に僕は、言い知れぬ焦燥感を募らせていった。
そして次の日。
帰路に少年は現れなかった。
僕は少し落胆して家路を行く。
妻と娘の待つ家まで、あと1つの角まで来た時、突然少年が僕の前に飛び出して来た。
顔は伏せたままだ。
僕は驚いて、一瞬棒立ちになる。
すると少年はいきなり僕の腕を掴み、咬みついた。
鋭い痛みが走る。思わず腕に咬みついた、その顔を見ると…。
蛇だった。
無機質な蛇の目で僕を見上げた少年は、僕の腕から離れると、その場から走り去って行った。
後に残された僕は、少年に咬まれた腕を見る。
そこにはくっきりと、2本の歯型が刻まれていた。
***
最近何となく気怠い。
そして、それ程気温が低くない日でも、妙に寒いと感じることが多い。
どうしてだろう?
もしかしたらあの日、蛇の顔をした少年に咬まれたからだろうか。
咬まれた痕は、もう消えてなくなっている。
だから疵のせいではないかも知れない。
あるいは咬まれた時に、毒でも流し込まれたのだろうか。
その割には、傷口が腫れたり化膿したりすることもなかった。
なのに、こんなに気怠 くて寒いのは、どうしてだろう?
頭の中にいつも靄 が掛かっているようで、このままでは家庭生活にも仕事にも支障が出るかも知れない。
いや、既に出始めている。最近妻との間で、小さな諍いが絶えない。
職場でも上司や同僚から注意される回数が増えた。
多分僕が、皆の話をちゃんと聞いていないからだろう。
家に居ても、職場に居ても、何となくぼんやりしていることが多くなった。
そんな時は妻や上司や同僚の話が、耳を素通りして行く。
別に聞きたくない訳ではないのだが、内容が頭に入って来ないのだ。
――困ったな。
――どうしたらいいんだろう?
そう思う一方で、どうでもいいやという、投げやりな気分が沸き上がって来る。その繰り返しだ。
僕はどうなっていくのだろう?
「あなた最近、本当におかしいわよ。
一体どうしちゃったの?」
今朝も妻が僕に小言を言っているが、理由が思い出せない。
多分些細なことだとは思うが、ちょっと前の出来事なのに、まったく頭に思い浮かばない。
娘にミルクをあげながら、妻がまだ何事かぶつぶつと呟いているが、それもまったく耳に入って来ない。
僕はぼんやりした気分のまま、パックの牛乳を取り出すために冷蔵庫の扉を開けた。
卵だ。
僕は急にその卵が食べたくなり、手に取った。
少し赤みがかった、大き目の卵だ。
とても美味しそうだ。
僕は思わずごくりと喉を鳴らし、卵を口に入れて飲み込んだ。
言い知れぬ満足感が沸き上がって来て、僕は恍惚としてしまった。
「きゃあ。
ちょっとあなた、何してるの」
突然後ろから妻の悲鳴が聞こえる。
我に返った僕が振り向くと、妻が娘を抱いたまま、驚愕の表情で僕を見ていた。
――どうしてそんなに驚いているんだろう?
僕が不思議に思っていると、妻が恐る恐る近づいて来た。
「あなた。
本当に大丈夫?
卵を殻のまま丸呑みするなんて、おかしいよ。
もしかして…」
――もしかして、何だというのだろう?
妻の言っている意味がよく分からなかった。
――卵を飲み込むのが、そんなにおかしなことなのだろうか?
「一度、お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないかな?」
――医者?どうして?
僕は、妻が何故そんなことを言うのか、とても不思議に思った。
そしてこれ以上話を続けるのが、急に億劫になってしまった。
「ごめん。ごめん。
何か、ぼうっとしちゃって。
卵を殻ごと吞むなんて変だよね。
やっぱり」
僕が誤魔化すように言うと、妻は心配そうに僕を見つめる。
「口の中とか、喉とか大丈夫?切れていない?」
「ああ、何ともないよ。
ごめん。ごめん。
変なことしちゃったね。
ぼうっとしてたみたい。
そう言えば今日は早出の日だった。
急いで支度しなくちゃ」
妻はまだ何か言いたそうだったが、僕はそそくさとダイニングを出て着替えを済ます。
そして妻から逃げ出すように家を出た。
僕はベッドから身を起こしたが、妻は隣のベッドで熟睡している。
2か月前に娘を出産したばかりで、育児と家事の疲れが溜まっているのだろう。
妻を起こさないよう気を付けながらベッドを降りると、キッチンに行って湯を沸かし、インスタントのコーヒーを入れる。
そしてトーストを1枚焼いて、簡単な朝食を済ませた。
テレビの音量を落としてニュースを見ていると、寝室から娘の泣く声が聞こえて来る。
お腹が空いたのだろう。
そう思っていると、娘をあやしながら、妻がキッチンに入って来た。
「おはよう」
「おはよう。起こしてくれたらよかったのに」
「うん、大丈夫。それより、ミルク?」
「そうみたい」
「お湯は1回沸かしたから、すぐ湧くと思うよ」
「ありがとう」
僕の職場は大手の化学工業メーカーで、自宅からはバス通勤だ。
少し寝不足だった僕は、バスに揺られながら、いつの間にか、
そして浅い眠りの夢の中に出て来たのは、やはりあの少年だった。
「杉浦さん」
僕はその声に、ハッとして目を覚ます。
どうやら会社近くのバス停に着いたようだ。
眠りこけていた僕を、同僚が起こしてくれたらしい。
その日は1日中ぼんやりとして過ごした。
もちろん仕事はしていたのだが、集中できていたとは、お世辞にも言えない状態だった。
夜7時頃に仕事を終え、自宅近くのバス停でバスを降りた時には、既に7時半を回っていた。
バス停から自宅までは、徒歩で7、8分の距離だが、灯りも人通りも少ない、寂しい道が続いている。
帰路の半ば程まで歩いた時、僕は行く手にぼんやりと浮かぶ人影を見つける。
仄暗い風景の中で、そこだけ妙に明るく見えていた。
その時何故か僕は、その人影が、夢に出て来た少年であることを確信していた。
――何故だろう?
そう思いながら、僕は少年に走り寄る。
しかし彼は、そんな僕に気づいたように、後ろも振り返らずに走り去ってしまった。
次の日も、その次の日も。少年は僕の帰路に現れ、僕の前から走り去って行く。
その度に僕は、言い知れぬ焦燥感を募らせていった。
そして次の日。
帰路に少年は現れなかった。
僕は少し落胆して家路を行く。
妻と娘の待つ家まで、あと1つの角まで来た時、突然少年が僕の前に飛び出して来た。
顔は伏せたままだ。
僕は驚いて、一瞬棒立ちになる。
すると少年はいきなり僕の腕を掴み、咬みついた。
鋭い痛みが走る。思わず腕に咬みついた、その顔を見ると…。
蛇だった。
無機質な蛇の目で僕を見上げた少年は、僕の腕から離れると、その場から走り去って行った。
後に残された僕は、少年に咬まれた腕を見る。
そこにはくっきりと、2本の歯型が刻まれていた。
***
最近何となく気怠い。
そして、それ程気温が低くない日でも、妙に寒いと感じることが多い。
どうしてだろう?
もしかしたらあの日、蛇の顔をした少年に咬まれたからだろうか。
咬まれた痕は、もう消えてなくなっている。
だから疵のせいではないかも知れない。
あるいは咬まれた時に、毒でも流し込まれたのだろうか。
その割には、傷口が腫れたり化膿したりすることもなかった。
なのに、こんなに
頭の中にいつも
いや、既に出始めている。最近妻との間で、小さな諍いが絶えない。
職場でも上司や同僚から注意される回数が増えた。
多分僕が、皆の話をちゃんと聞いていないからだろう。
家に居ても、職場に居ても、何となくぼんやりしていることが多くなった。
そんな時は妻や上司や同僚の話が、耳を素通りして行く。
別に聞きたくない訳ではないのだが、内容が頭に入って来ないのだ。
――困ったな。
――どうしたらいいんだろう?
そう思う一方で、どうでもいいやという、投げやりな気分が沸き上がって来る。その繰り返しだ。
僕はどうなっていくのだろう?
「あなた最近、本当におかしいわよ。
一体どうしちゃったの?」
今朝も妻が僕に小言を言っているが、理由が思い出せない。
多分些細なことだとは思うが、ちょっと前の出来事なのに、まったく頭に思い浮かばない。
娘にミルクをあげながら、妻がまだ何事かぶつぶつと呟いているが、それもまったく耳に入って来ない。
僕はぼんやりした気分のまま、パックの牛乳を取り出すために冷蔵庫の扉を開けた。
卵だ。
僕は急にその卵が食べたくなり、手に取った。
少し赤みがかった、大き目の卵だ。
とても美味しそうだ。
僕は思わずごくりと喉を鳴らし、卵を口に入れて飲み込んだ。
言い知れぬ満足感が沸き上がって来て、僕は恍惚としてしまった。
「きゃあ。
ちょっとあなた、何してるの」
突然後ろから妻の悲鳴が聞こえる。
我に返った僕が振り向くと、妻が娘を抱いたまま、驚愕の表情で僕を見ていた。
――どうしてそんなに驚いているんだろう?
僕が不思議に思っていると、妻が恐る恐る近づいて来た。
「あなた。
本当に大丈夫?
卵を殻のまま丸呑みするなんて、おかしいよ。
もしかして…」
――もしかして、何だというのだろう?
妻の言っている意味がよく分からなかった。
――卵を飲み込むのが、そんなにおかしなことなのだろうか?
「一度、お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないかな?」
――医者?どうして?
僕は、妻が何故そんなことを言うのか、とても不思議に思った。
そしてこれ以上話を続けるのが、急に億劫になってしまった。
「ごめん。ごめん。
何か、ぼうっとしちゃって。
卵を殻ごと吞むなんて変だよね。
やっぱり」
僕が誤魔化すように言うと、妻は心配そうに僕を見つめる。
「口の中とか、喉とか大丈夫?切れていない?」
「ああ、何ともないよ。
ごめん。ごめん。
変なことしちゃったね。
ぼうっとしてたみたい。
そう言えば今日は早出の日だった。
急いで支度しなくちゃ」
妻はまだ何か言いたそうだったが、僕はそそくさとダイニングを出て着替えを済ます。
そして妻から逃げ出すように家を出た。