【04】

文字数 1,998文字

気がつくと、窓の外が随分と明るくなっていた。
いつの間にか、意識が飛んでいたようだ。
知らぬ間に眠っていたのだろうか。

僕は立ち上がるとキッチンに向かった。
酷く空腹だったからだ。

冷蔵庫を開けると、卵のパックを見つけた。
僕はパックの中の卵を、次々と吞み込んだ。

1パック分呑み込んだら、少しお腹が膨れたので、寝室に戻ってベッドに横になる。
昨晩のことを思い出そうとしたが、中々思い出せない。

――そうだ。確か夜中に、無性に蛙が食べたくなったんだ。
――それからどうしたんだっけ?
――ベッドから起きたんだ。蛙を見つけるために。

――その後どうしたんだっけ?
――そうだ。見つけた蛙を食べようとしたんだ。
――そうしたら、何故か妻に引き倒されて、物凄い勢いで怒られたんだった。

――どうして彼女はあんなに怒っていたんだろう?
――未だに理由が分からない。

――そう言えば、離婚するようなことを言っていたな。
――どうしてだろう?

僕はそんなことを漠然と考えていたが、それも段々と面倒になって来た。

――蛙が食べたい。
昨晩食べられなかったから、余計に食べたくなってきた。

それからどれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
気がつくと、目の前に妻が立っていた。
彼女は僕に言った。

「昨日の夜言ったけど。
あなたとは、これ以上一緒に暮らしていけないと思うの。

昨日のことは勿論だけど、近頃のあなたって、どう考えてもおかしいもの。

私、最近あなたが怖くて。
一緒にいると頭がおかしくなりそうなの」

「ごめん」
僕がそう言うと、妻は一つため息をついた。

そして意を決したように、僕を見る。
「今朝、役所に行ってこれを貰って来たわ」

妻が僕に見せた紙には、『離婚届』と書かれていた。
妻の名前は既に書き込まれている。

「こっちに来て」
妻はそう言って、僕をダイニングに連れて行く。

「ここにあなたの名前を書いて頂戴。
あの娘は私が育てますから」

僕は言われるままに署名する。
正直言って、どうでもよいという気持ちが先立っていた。

それを見届けた妻は、立ち上がった。
「これは私が出しておくから。
私たちの荷物は、また今度取りに来るわ」

そう言い残して、妻は家を出て行った。
僕はダイニングのテーブルに、ぼんやりと座って、別のことを考えていた。

――あの時、蛇に咬まれた子の名前は、何だったっけなあ。
――どうしてケンイチもマキも、誰も覚えていなかったんだろう。
――僕って、子供の頃長野に住んでたんだっけ。

もう妻のことは忘れていた。

***
数日後、妻が引越し業者と連れ立って来て、家から荷物を運び出して行った。
家具類や電化製品は、妻の嫁入り道具だったので、実家に持って行くと言う。

実家に入りきらない、冷蔵庫とダイニングテーブルと、僕のベッドは残して行ってくれた。
僕は淡々と作業が終わるのを見ているだけだった。

家具類が運び出された後の家の中は、がらんとしていて、僕はとても不安になった。

会社にはずっと行ってない。
上司から言われた、1週間が経ったのかどうかも分からなかった。

僕は寝室の床に座って、ベッドに(もた)れながら、ずっと考え事をしていた。

そのうち体中が、酷く痒くなってきた。
そう言えば、何日も入浴していない気がする。

余りに痒いので、つい腕を掻き(むし)っていると、表皮がボロボロと剥ける。

その痕を見ると、つるつるとした硬い皮のようなものが、皮膚の下から現れた。
反対側の腕を掻いても同じだった。

周りの表皮を引っ張ると、びりびりと剥がれていく。
痛みはまったくなかった。
むしろ痒みがなくなって、スッキリとした感じだ。

顔や頭も痒かったので両手の指で掻いてみると、腕と同じようにボロボロと表皮が剥けた。
髪の毛も表皮にくっ付いて、一緒に抜けてきた。

僕は着ていた服を全部脱ぐと、体中を掻き毟って、表皮を剥がしていった。
すると全身がつるつるの硬い皮膚に入れ替わって、とても気持ち良かった。

顔を触ってみると、鼻も耳もなくなっていた。
それでも臭いはするし、音も聞こえる。
頭は、髪の毛が全部抜けてツルツルだった。

行かなくちゃ。
その時突然、僕の中に衝動が走った。

僕は立ち上がると、ゆっくりと歩き出す。
何だかとても歩きにくかった。

家を出た僕は、覚束(おぼつか)ない足取りで、街中を歩き始めた。
道行く人が僕を見て、息を吞んでいるのが見えた。

それでも僕は歩き続けた。
早くあそこに行かなくちゃ。
僕は必死で歩き続けた。

やがて僕は見覚えのある場所に出た。
何度も夢の中で見た街並みだ。

――ここはどこだろう。
――そうだ。ここは僕が昔住んでいた所だ。
――長野県にある小さな町だ。

やがて僕は草叢に出た。
中にあの少年が立っている。

あれは僕だ。子供の頃の僕だ。
漸く僕は思い出した。

僕は、子供の僕に駆け寄ろうとして、草叢の中に倒れ込んだ。
何故か立ち上がることが出来ない。

僕は必至で這った。
早く、僕の所に行かなくちゃ。

僕は這い続けた。
早く行って僕を咬まないと、始まらない。
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