第52話 さあ、歌って

文字数 2,499文字

 ——フーミン!

 会議室の扉を開いた先に姉の顔を見つけて圭司は思わず声が漏れそうになった。だが、その史江と目があった瞬間、おそらくその場所にいた誰も気がつかなかっただろうが、史江がじっと圭司を見ながら、本当に僅かに顔を横に振った。おそらく他人だったらわからなかっただろう。

「生徒さんを真ん中に、保護者の方が左右に座ってください」
 姉——なぜここにいる——に英語で促され、圭司たち3人が面接官とテーブル二つ挟んで座った。部屋に入ってきた時から相変わらず、フーミンは圭司を見ても顔色ひとつ変えなかった。この部屋にいる誰もが、西川史江と圭司が姉弟(きょうだい)などとは知りもしないだろう。
 面接官だろうか、学校の関係者と思しき人は2人いて、その隣にフーミンがすまして座っていた。

 姉が英語で口を開いた。
「それでは面接を始めます。真ん中に座っているのが今回の面接の責任者で横浜聖華国際学園の副学長、田辺です」
 英語で紹介をされ、フーミンが目で合図をすると田辺副学長が「田辺です」と言って頭を軽く下げた。お世辞にも綺麗な英語ではない。
「隣が生徒採用の担当者、総務課長の大河内です」と続けて紹介されると隣の大河内が同じようにさらに副学長より少しマシな英語で挨拶をした。
「私は当学園の英語教師で、今回の面接の通訳をさせていただきます、西川です」と最後に史江がすまして自己紹介をした。
 ——当学園の英語教師? え? 聖華の先生ってこと? そんなこと一度も聞いてない。
 圭司が唖然として固まっていると、フーミンが圭司を睨みつけるように「どうかしましたか。何か問題でも?」と言いながら、左手の中指でずれた眼鏡をちょっと上に直した。慌てて「いえ、なんでもないです」を答えて、気を取り直すように椅子に座り直した。

 最初は入学願書を見ながら、定型的な質問をいくつか繰り出してきた。
 曰く、志望動機は。曰く、日本語は大丈夫か。日本の面接には慣れている圭司が何度も圭に答え方を叩き込んだおかげで、田辺副学長と総務課長の質問にフーミンの通訳を介して圭はそつなく回答をしていた。

 今のところは問題なくうまくいっているはずだ——

「で、歌が得意、と」願書と思われる書類を読みながら、さりげなく日本語で田辺がいう。「じゃ、歌ってみて」
 ——は? いや、歌うなんて面接にありか? 準備してないぞ。
 圭司は少し慌てた。まさか歌えとか言われるとは想像もしてなかったので、こんな場所で歌う曲を考えてなかったのだ。いきなり圭がシャウトを始めたらどうしようか。

聖華の面接で流石にシャウトはまずいだろ——
 そんな圭司の心配をよそに、とても小さな奇跡が起こった。田辺のその言葉を史江が通訳をする前に、田辺が自分で「プリーズ シング」と

な英語で圭を促したのだ。

「シング? OK」
 圭がにこりと微笑んだ。そして椅子から立ち上がって静かに歌い出した。
 ——カーペンターズの「シング」か!
 もともとは世界的に有名なアメリカの子供向け番組「セサミストリート」用に作られた、カーペンターズの楽曲だった。日本人にもファンが多い。

 ——さあ歌おう。大きな声で

 優しくも歌声が会議室に流れた。日頃はR&Bなどが得意な圭だが、これはこれで美しいメロディが心地よい。カレン・カーペンターとはまた違う圭の個性が映える。そこにいた誰もがうっとりと聞き惚れていた。

 歌い終わると、圭は圭司から教えられたように日本式の「おじき」をして椅子に腰掛けた。面接官と史江もにこりと笑い、小さく拍手を送った。

「急に歌わせて悪かったね。歌うことが得意とわざわざ書いてあったから、ぜひ聴いてみたくなってね。ありがとう、素晴らしかったよ」
 田辺は日本語でそう言うと、史江を見る。その言葉を史江が英語で言うと、圭は嬉しそうにはにかんだ。

「さて、実は本日の面接で一番聞きたかったのは、当学園に通うことになった時のお嬢さんの日本での生活環境です」と田辺が一区切りすると、英語で史江が通訳をする。面接ではこの形を繰り返している。
「もちろん学園としても最大限のバックアップはしようと思ってはいますが、それでも四六時中お嬢さんをみておくことはできません。学園が私生活に介入するのには限度があるからです。そこでどうしても聞いておきたいのですが」と言ってチラリと史江を見て、史江が通訳し終わるのを待ってさらに圭司をじっと見て一息入れた。
「単身で日本へ行く予定ということですよね。そうなるとお嬢さんは日本で一人暮らしをすることになると思いますが、お父様としてはどのような生活環境を準備するご予定ですか」
 ——やはり、それは聞いてくるか。
 姉の史江とは結局あれ以上の話はできていなかった。
「妻に内容がわかるよう、このまま英語で通訳はしていただきたいのですが、私は日本語でもよろしいですか」とまず圭司は日本語で田辺に言った。そして史江が訳そうとするのを目で制した。田辺が頷く。
「横浜は私が生まれ育った街ですので、しばらく離れていたとはいえ、多くの知人や友人が横浜にはいて、この子が暮していけるようにさまざまなサポートができると思っています」
 圭司は日本語で少し曖昧な答えかたをした。まだ暮らす場所を決めていなかったことが引っかかる。
「その場合、住む家とかは、どうするおつもりですか」
 だが、田辺はやはり面接慣れしているのだろう、圭司が曖昧にした部分に直球で切り込んできた。
 ——どう言おうか。
 この面接に来るまで散々考えたのだが、実はまだ答えを見つけていなかった。もしここを聞かれなかったら、今は黙ってスルーしようと考えていたのだ。
 返答に窮してチラッと史江を見てしまった。その瞬間——
 史江は圭司を正面から見てるわけではなかったが、圭司が史江を見た瞬間に、小さく縦に首を振ったのを感じたのだ。それで圭司には十分だった。
「この子は、もし来年からそちらの学園に預かっていただくことができたら、横浜の私の実家から3年間通うことになっています。全く問題ありません」
 圭司は自信を持って答えたのだった。
 ——ありがとう、フーミン

 
 
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