第71話 遺言

文字数 1,932文字

「いいか。紗英ちゃんを……探……せ」
 息も絶え絶えになりながら、最後に蓮さんはそう圭司に言い残した。


 電話は菊池からだった。
「蓮さんがいよいよやばいらしい。女将さんからさっき電話もらった」
「わかった」
 菊池は全国キャンペーンのため東京にいない。圭司はステラに日本の恩人の危篤を告げ、図書館の調べ物を途中で打ち切り二人だけで東京の病院へ向かった。電車の中でステラが熱心にスマホで何かを調べている横で、圭司はひたすら蓮さんの無事を祈っていた。

 電車を途中下車し、後はタクシーに飛び乗り一時間ほどで病院に着いた。階段を駆け上がり、病室の前で深呼吸をしドアを静かに開けるとたくさんの管に繋がれた蓮さんと傍に立つ女将さんの姿があった。
「圭司、あんた——やっぱり本当に帰ってきてたんだね」
「週末に帰ってきたんです。蓮さん、どんなですか」
「今朝一回目が覚めたんだけどね、それからどんどん数値が悪くなってさ。主治医の先生から会わせたい人がいるならすぐ連絡をって」女将さんは震えながら鼻頭を押さえた。「この間、この人があんたと話したとかさ、こっちに帰ってきてるなんて知らなかったから、てっきり夢でも見たんだと」
「いや、夢じゃないです。本当にご無沙汰して申し訳ないです」
「元気ならいいんだよ」女将さんは微笑んだ。「で、その人はあんたの嫁さんかい?」
 病室の入り口に立っているステラを見て驚いた顔をしている。
「いや、話せば長いんであれですけど、色々助けてもらっている人で」
「じゃあ、もしかしてまだ一人かい?」
「結婚ってことなら、まあ、はいそうです」
 女将さんは、何か言いたげにしていたが、その時もそっと蓮さんの腕が動いたのでそちらに気を取られたみたいだ。
「圭司、いるのか」と突然、蓮さんのか細い声がした。
「はい。ここにいます」と圭司は慌ててベッドに横たわる蓮さんに近寄った。蓮さんは右手で、こいこいというように手招きをする。圭司はさらに蓮さんの口元に耳を寄せた。
「いいか……圭司。どうしても言っておかなきゃ——」グホッとむせかえった。
「蓮さん、無理に喋らないで」と言いながら、圭司は軽く蓮さんの胸あたりを軽くさすってやる。
「どうしても……言っておかなきゃならんと」ごくりと喉が鳴る。「ずっと……思って……た」息が続かない。
「何? 聞いておくよ」圭司は蓮さんの右手を握る。その手を握り返しながら、蓮さんは続けた。
「いいか。紗英ちゃんを……探……せ」
 そこまで言うと、蓮さんは激しい発作を起こした。女将さんが慌ててナースコールを押し、それから後は慌ただしく医者と看護師が入れ替わり立ち替わりとなり——

 結局、それが蓮さんと交わした最後の言葉となった。病室には親族だけ——女将さんしかいない——が入室を許され、圭司とステラは病室の外で待たされたが二度と生きている蓮さんに会うことはなかった。

  ⌘

 ステラのことは史江に託し、急遽吊るしの喪服を買い、蓮さんの葬式に参列した。黒い額縁の中の蓮さんはふくよかな顔で笑っていて。蓮さんはやっぱり笑顔が似合うよな——

 葬式が終わり、蓮さんの自宅で一息ついた。
「なんか、あっけないね」と女将さんがつぶやいた。葬式の間中、気丈な振る舞いをしていた女将さんであったが、すっかり気が抜けたみたいに小さな背の低い座椅子に座り込んでいる。
「女将さん」
 そんな時ではあったが圭司はどうしても聞いておく必要があった。
 ん? そんな顔をして女将さんが顔を上げた。
「蓮さんが最後に言ったこと、なんですが。なぜ紗英に——」
 女将さんはじっと圭司を見ていた。どのくらいそうしていただろう。
「あんた、本当に何も知らないのかい?」圭司の顔を伺うように。
「いや、まったく思い当たらないので。なぜ突然紗英の名前が蓮さんの口から出たのかも」急に口がカラカラと乾いた。
 やがてゆっくりと女将さんは口を開いた。

  ⌘

 十七年前の夏、八月のことだ。ランチどきに入る前、開店準備をしていた蓮さんの店のドアがガラガラと開いて正田紗英が顔を覗かせた。
「こんにちは」
「あら、紗英ちゃん。久しぶり」
 女将さんは珍しい来客に顔が綻んだ。圭司がこの店で調理場のバイトをしているころは、紗英もしょっちゅうこの店に来ていたが、春先に圭司と別れてからはそれきりとなっていたのだ。
「どうしたの? 遠慮しないで入りなさいよ」
 扉から顔だけ覗かせた紗英が中に入らないので、女将さんがそう声をかけると、やっと大きなお腹をした紗英が照れ臭そうに入ってきたのだった。
 そのときの紗英のお腹には子供がいて——


「あんたの居所を知らないかって。紗英ちゃんがそう言ったんだ」
 女将さんはずっと昔を思い出すように、天井を見つめながら。
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