第二話 感謝祭の夜に

文字数 1,831文字

 その店はマンハッタンの南側、アジア系の人々が多く住む街角にあった。わりと治安も良い場所で、二年前にオープンした和食をメインに提供する小さな店だったが、ニューヨークあたりでは珍しい丼物が——特に日本から来ている——ビジネスマンや和食好きのアメリカ人に好評で、その店名を「ロック・イン・ジャパン」といった。

「——よいしょっと」
 その店の横にある従業員用と思われるドアから、掛け声をかけながらお尻でドアを押し出すように後ろ向きに出てきたのは、この店のオーナー兼コックで名前を高梨圭司(たかなしけいじ)という。その両手には大きなごみバケツを持っている。
 圭司がアメリカに移り住んでかれこれ十年になる。日本での悲しい別れを忘れるためと、ミュージシャンになるという——人生最後ともいえる——夢を賭けて渡米してきたが、身の程を知り今に至る。日本でのアルバイトで覚えた調理の腕がよかったのか、店の味の評判はなかなかよい。「人生最後の夢」よりもアルバイトの方で食ってるのだから、人生なんてわからない。

「圭司、これもお願い」
 いったん閉まったドアが再び開いて、開業の時からウェイトレス——アメリカではサーバーやウェイティングスタッフなどと呼ばれる——として働くステラが、右手に持った小さなゴミ袋を差し出した。ステラは年は三十過ぎだったか、ブロンドのいかにも陽気なアメリカ人だった。ありがたいことに安い週給にも文句ひとつ言わないで楽しそうに働いてくれている。
「なんだよ、ステラ。帰っていいって言っただろ」圭司は両手に持ったごみバケツを下ろすとステラからゴミ袋を受け取りながら言う。
「もうちょっとで片付くからいいのよ」
「せっかくの感謝祭だ。デートでもしてターキーでも食べておいでよ」
「ははっ、そんな相手がいたら、きょうははなっから仕事なんて来てないわよ」
 ステラはそう言って、ちょっと肩をすぼめ、眉を上げておどけて見せた。
「あれ? 面接の時に、彼氏を待たせてるから、雇うかとどうかすぐに決めてって言ってたじゃないか」
「二年も前の話よ。とっくに別れたわよ」
 ケラケラ笑いながらステラがいう。
「そりゃまたお互いに寂しい感謝祭の夜だな」
 二人は目を合わせて小さく笑った。
「ねえ、感謝祭用に仕入れたターキー、余ってたよね。あっためていい?」
 ステラが圭司の顔を覗き込んだ。
「おっ、いい考えだ。じゃあ、俺の秘蔵のシャンパンでも開けようか」
「わお」
 ステラは嬉しそうに笑い、両手の平をパチンと合わせて叩くと右目でウインクをして店の中へ入っていった。圭司はその後ろ姿が店の中に消えるのを見届けると、いったん下ろしたごみバケツを再び両手に下げてごみ置き場へ向かったのだった。

 手にしたごみバケツを集積場に置こうとしたときだ。先に置いていた大きなごみバケツの間で何かが動いた気配がした。犬か猫でもいるのかと思い、そっとごみバケツの隙間を覗き込むと、そこに人間がいた。
「うおっ」っと思わず声を上げて一瞬たじろいだが、それが人間であることを頭の中で整理できると、もう一度ごみバケツの間を確認する。
 そこには感謝祭の夜だというのに、髪の短い子どもが——ノースリーブにジーンズの格好だ——両手で肩を抱きながら膝に顔を埋めていて、しかも小刻みに震えていた。
「そこで何をしてるんだ」
 そっと声をかけると、その子どもは座ったままゆっくりと上目遣いに圭司を見上げた。黒髪のアジア系の女の子だった。
「中国人か?」まず英語で話しかけてみた。女の子は何も言わずに震えながら圭司を見ていた。「日本人、じゃないよな?」
 まさかと思いながら試しに日本語で話しかけてみたが、やはり何も言わなかった。
「アメリカ人か?」
 もう一度英語で話しかけると、今度は青くなった唇を震わせながら微かに頷いた。
「寒い夜にそんな格好で何をしてるんだ? こっちへおいで」
 できるだけ優しい口調でそう言いながら右手を伸ばしたが、逆に女の子は怯えたように後ろへ下がろうとした。しかしそのまま後ろに力なく崩れ落ちそうになる。
「怖がらなくていい。とにかくおいで」
 今度は自ら女の子に近寄るとさっと抱きかかえた。彼女は一瞬抵抗しようとしたが、その冷え切った身体は力なく、抵抗することができなかったようだった。
「心配するな。何もしないから」
 そういうと、圭司は少女を抱きかかえたまま、さっきステラが入っていったドアに手をかけながら、「ステラ!」と店の中へ向かって大声を上げたのだった。
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