第60話 藤原帰一『戦争を記憶する』(講談社現代新書)

文字数 1,111文字

 第二次世界大戦の記憶が、勝戦国と敗戦国、侵略された側と侵略した側では、同じ平和を希求する立場であっても解釈が異なることに着目し、そのことが時によって歴史の修正だと相手を非難する一因になっているのではと論じている。
 とくにアジア諸国では、日本や諸外国に占領、または植民地化された苦難と、その苦難から解放されて独立を勝ち取った歓喜が重なり、先の戦争の解釈は、さらに複雑である。
 そのことについてアメリカのスミソニアン博物館と広島の原爆資料館を象徴的な例として取り上げている。

 広島は絶対平和と核なき世界を切望することを主として、原爆という度を越えた殺戮兵器を投下したアメリカを断罪した展示はない。それゆえ今回の広島市長の答辞でも、福島の原発事故を憂い、被爆した住民や汚染された土地にいて同情の念を述べたのだろう。
 広島にとっては、多くの市民が巻き添えになる原爆や何世代にも渡って苦しみを強いられる核は、絶対悪で、いかなる大義もないのである。

 一方、スミソニアン博物館は、ナチスのホロコーストの残虐性や非人道性を膨大な資料で提示し、その絶対悪に立ち向かったアメリカ市民の勇気を賞賛し、あれは正義の戦争であったことを示している。
 私はスミソニアン博物館を実際に観たことはないので、それがすべてであると断定することは控えたい。ただ以前読んだベトナム戦争やイラク侵攻に従事した兵士の証言集では、両者とも戦争について非難しているものの、ベトナム戦争は共産主義から守るため、イラク侵攻はテロリスト支援国家を殲滅させるためという言葉が多く見られた。
 大義があれば、正しい戦争はありうるという思考が、根底に流れている気がする。

 その違いを戦争に負けた側、勝った側のちがいと決めるのは簡単だが、この戦争が次世代にどう影響を及ぼすのか、百年千年といった単位の民族間の絶対的な断絶や憤怒につながらないか、絶対的な平和を世界が手中におさめることを望むならば、そのような観点からも戦争を問うべきではないだろうか。
 著者は「集団」による戦争解釈、記憶の構築が、ともすれば強烈な「ナショナリズム」を生む原因となりうると、指摘しているものの、理想とすべきものは示していない。
 ただこの本を以下の文でしめている。

《沖縄南部につくられた慰霊碑である。名前ばかり記された石が並ぶこの慰霊碑には、ベトナム戦争の記念碑より一歩進んでいて、日本人、朝鮮・韓国人、アメリカ人、または軍人・市民を問わず、沖縄戦の死者の名前が、わかる限りすべて刻まれている。死ぬ必要がなかった人々の、一人ひとりへの追悼が、ここにある。虚飾を取り払った後に、残された戦争の記憶が、ここにある》
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