第14話 井上靖『おろしや国酔夢譚』(文春文庫)

文字数 1,347文字


 大黒屋光太夫の漂流譚を題材にした長編小説。
 のちに映画化されるに至って、この数奇な運命を辿った光太夫の名が世に知られることになったことでも、マイルストーン的な作品。光太夫を船主とした十七名は、七か月の太平洋漂流後、アリューシャン列島にあるアムチトカ島に漂着。その後、ロシアに渡り過ごすこと十余年。その間に、十二名はロシアの大地に倒れ、二名はロシアの地に残ることになる。仲間が一人消え、二人消えていこうとも、帰国へ思いは減ずることなく強くなるばかり。様々な策を講じたのちに、晴れて女帝エカテリーナの命で、日本の地を踏むことになる。

 帰国できたのは三人。
 大黒屋光太夫とは如何なる人物であったのかと、俄然興味が湧くのは、人なればこそ。この小説に描かれている大黒屋光太夫の人物像は、鋼のように強い精神力とリーダーシップ。それに事の成り行きを正確に判断できる洞察力を持った人物。場合によっては、計画遂行のためには非情な決断も辞さない性格にも映る。
 たぶん極寒のイルクーツクでの生活に耐える人物として、そのように鉄の意志を持たなければ、とうてい悲願の帰国まで成し得なかったという著者の思いがあるのだろう。仲間のうち十二名が、帰国の願い叶わず落命したのだから、その意図もわからぬわけでもない。
イルクーツクへの旅が決まったときの光太夫の言葉。

《人に葬式を出して貰うなど、あまいことは考えるな。死んだ奴は、雪の上か凍土の上に棄てて行く以外に仕方ねえ。むごいようだが、他にすべはねえ。人のことなど構ってみろ。自分の方が死んでしまう》

 また帰国が決まったものの、凍傷で片足を失った庄蔵をロシアの地に残さなければならない。それを告げたときの光太夫の行動。

《すぐ庄蔵の許を離れ、そのまま背を見せて宿舎を出たが、外へ一歩踏み出したところで、小児のように泣き叫ぶ庄蔵の声を聞いた。うしろ髪をひかれる思いだったが、それに耐えた》

 ただこの苦行僧のような感情を押し殺した精神力だけで、漂流した仲間が謀反を起こさず光太夫に追随したとは思えないし、帰国の途につけるように多くのロシア人が尽力したとは、信じ難い。ロシア語を身につけるのが早く、問題に対して機転が利き、そして社交性に富む人柄に、多くの人を惹きつける魅力があったのではと思うのだが。
 とくに光太夫の帰国に並々ならぬ情熱を燃やしたラックスマンは、友情を超えた魂の結びつきがあったと思う。光太夫たちに不自由な思いさせないように配慮し、さらに帰国の嘆願書を書き、幾度も女帝エカテリーナに上申している。同情だけでは、これ程までに突き動かされるわけがない。

 発表されたのは一九六七年だから、すでに五〇年の歳月が流れている。その間に大黒屋光太夫についての研究はすすみ、この本に描かれているような、帰国後も幕府監視下、幽閉の生活を強いられたわけではなく、一度郷里の伊勢に帰るのを許されている。そのあたりは、のちに発表された小説、吉村昭『大黒屋光太夫』に詳しい。
 歴史は、新たな古文書や資料が出てくることで、その人柄に血が通い、人物像に奥行が出てくる。さらに五〇年後、大黒屋光太夫を題材にした小説が登場したら、この数奇な人生に新たな視線が投影され、更なる魅力的な人物となるに違いない。
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