アジア人差別 -大きな流れに組み込まれることへの違和感

文字数 1,680文字

最近、アメリカでのアジア人に対する差別的行為や、差別的感情を動機にした犯罪などが毎日のように報道されている。女性やお年寄りなどを狙った卑劣な犯罪が多く、強い憤りを感じる。  

ヨーロッパ在住の日本人である私にとっても、これは関心のある話題だ。相次ぐロックダウンで精神的にも経済的にも疲弊した人々の不満は捌け口を探している。コロナの件で中国を始めとしたアジアのイメージはかなり悪くなってしまったので、少数派で攻撃しやすい欧米在住のアジア人にヘイトが向いてしまうのは、どの国でも考えられる問題である。

アジア系へのヘイトが許せない、と思う気持ちと同時に、私は「被差別グループ」としてカテゴリ化されることに抗いたい気持ちも持っている。私が住んでいる欧州の国の現状として、アジア人差別は激しくない。むしろ、目に見えるような差別はほとんどないと言っていい。

中には、アジア人を馬鹿にしてくる子供や乱暴者などもいるが、彼らは基本的に人と違った点だとか、脆弱性を持った人をだれでも攻撃している暇人なので、アジア人だけをターゲットにしているとも言えない。 

それなのに、アメリカでの人種差別問題に乗じて(ではないのかもしれないが)、「私はアジア人だから攻撃された」などと公に自分の経験を語っている人々を見ると、やや違和感を覚える。ここはアメリカではないし、私自身は差別を受けた経験が特にない。だからと言って、他の人が人種差別の対象になっていない、とは言えないが、アジア人は、世界中どこの国でも関係なく差別される存在なのだろうか?例えば私が夜道で攻撃された場合、それは人種的な動機からきていることになるのか?  

「被差別人種である。」

それは世界的な視点で見たときに、アジア人が当然のように受け入れなくてはいけないことなのだろうか?  



比較的最近の話だが、私が住んでいるヨーロッパの国で、ある有名なアジア系の女性政治家が「私は有色人種として」という表現を用いた。私はそれを聞いて、ショックを受けた。次に、心にもやもやと怒りが溜まってきた。

この国で「有色人種」という言葉が発されるのを実際に聞いたのはそれが初めてだった。有名政治家がこのような用語を使った結果、それまで何も考えずにこの国で暮らしてきた外国人の一部、主に彼女と同じ人種に属するアジア人は、一斉に「有色人種」のラベルを貼られてしまった。  

「あるグループに対する差別(もしくはいじめ)が存在する」と宣言することには、常に利点と欠点がある。差別に対する対策を講じることができる一方で、それを聞いた人々の意識の中に「あのグループは差別の対象なんだ。」という前提を刷り込んでしまう。その情報をどう使うは、受け取り手次第なのだ。

私の現住国では、「アジア系に対する差別の問題があるので、早急に解決されるべきだ。」と宣言することの方が、害が多いように思われる。この国のほとんどの人は人種差別をしていないし、人種差別にも公的に反対しているわけなので、人種差別が社会全体に広がる悪のように論じられることを不愉快に思うかもしれない。現在進行形で、人種差別とか、その他いろいろな迫害やいじめをしているどうしようもない人たちは、逆に差別感情を強めるかもしれない。

被害者意識が行き過ぎると、それがより大きな問題につながったり、当事者間の隔たりを生んだりすることもある。

私はアメリカでの人種差別を否定するつもりは一切ない。それは切実な問題なのだろうし、一刻も早くアメリカのアジア系住人が安心して暮らせる社会になることを願う。

でもそこには、国の歴史や社会構成といった複雑な背景があるので、アメリカの人種問題を世界中のどこにでもそのまま持ち込むことはできないのではないか、と考えている。というか持ち込みたくない。私は自分が自分であることに誇りを持っているから。アジア人だから嫌がらせをされた、とは思いたくない。


そういった理由で、私は現在住んでいるこの国で、「よーし、アジア系へのヘイトをなくすために私も社会運動に加担するぞー!」とは、思えないのだった。 


 


 


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