第7話

文字数 3,073文字

 一枚の花びらが目の前をはらはらと舞いおりてきました。
 おんなの子のまわりにいつのまにかたくさんの花びらがきらきらと舞い動いているのに気がつきました。そのどれもが、まるで冬の夜空の星々のような透きとおったかがやきをおびて光っているようでした。それらの花びらは、どれものびやかな空気と戯れ舞いおどっているように見えましたが、実は散っているのにちがいありませんでした。やがてそれらは、一枚一枚池の水面(みなも)におりたようにひととき静止して、おのおのそこにとどまりました。まわりはいつか夜の星空から池の水面にかわったようです。
 花びらはとてもおおく、たくさんの花びらが池の水面にとらえられたというのに、まだまだ一杯の花びらが舞い散っており、また池の水面もそれらをうつしかえして、花びらの姿であたりはおおいつくされたようになりました。池の水面は、散りおちて動かない花びらと、のびやかに宙を舞う花びらの水にうつる姿の動きとがまじりあって、またそれぞれの光がたがいに響きあいもして、とても美しい宇宙をかたちづくっているようでした。
 それでも、少しづつ水面にうかぶ花びらの数がふえて、自由に舞い動く花びらの姿が少なくなってきました。するとそれらは池の水にひきこまれるように一枚づつしづんでゆくのでした。花びらの姿とその光はめっきり少なくなりました。それに応じて、豊かにたたえられていた池の水も徐々に減って、干上(ひあ)がってきているようでした。あとに見えたのは、黒っぽい泥田でした。それでも、おんなの子とそのまわりには光がかがやきあふれていたので、その光はやがて雨のように静かにそこに降り注ぎました。
 たちまち一面透きとおった水で満たされます。いつのまにか睡蓮が生えだし、茎があちらこちらに伸びてきて緑の葉が広がると、きれいな花がゆっくりとあちらこちらで綻(ほころ)びました。睡蓮の花はやがて一斉に閉ぢ、またしばらくおいて一斉に開きました。それが三度くりかえされると、とうとうしぼんだきりになって花はばらばらに水面に散り、すると水にしづんでいた睡蓮の根茎が一度に水面にあらわれてきたように見え、それほどに池の水面がぱっと明るくなったかと見ると、それは青くすみきって高い空にかわっていました。睡蓮の根茎もさらに細くわかれて、おおきな樹の枝にかわり、水面に散った花びらはそれぞれの位置で一つひとつがふくらみ開いて、八重(やえ)に咲く桃の可憐な花となりました。
 それがまたいま、一斉に散りはじめ、花びらが一枚一枚きらきらしながらながれるようにあたりを舞い出しました。さっき一枚の花びらに気がついた時とおなじ光景があらわれたのです。
 それはとてもゆっくりした時間のなかでの静かなできごとのようにも、一瞬のうちに起こったはげしい變化(へんか)のようにもおもえました。それでも、おんなの子に少しもかわりはなく、おとこの子もいま初めて気づいたことだけれども、実は初めからここではそうしたできごとが続いていたのだとおもい、ごく自然にうけとめてあまりおどろきもしていないのでした。おんなの子がかわりないので、まわりがどんなに移りかわろうと気にはならない。おんなの子と一緒なら、そのあいだに宇宙をひとめぐりしたってきっと気がつかないか、あるいはそれがわかってもちっとも気にならないにちがいないと、おとこの子はおもいました。
 目の前をはらはら花びらがおちてきます。おんなの子のまわりはいっそうおおくの花びらが舞い光っています。おんなの子がかるく手を上にさしあげると、そこに一枚の花びらがゆっくりおりてきて、まるで蝶々がとまるようにおんなの子の細く美しい指先にとどまります。おんなの子は静かにほほえんでいます。おとこの子もおなじように花びらをつかまえてみようとおもいましたが、花びらはするりと指のあいだをすりぬけていってしまいました。おとこの子もおんなの子に向かってほほえみました、もっともそれは照れ隠しのわらいでしたけれども。
「この花びらもほんとはかくれてたんだね」
 おとこの子はなにかがわかったようにつぶやきました。
「お空にかくれてお星様になる。お池にかくれて睡蓮の花になる」
 花が星に、池が空にかわるのも、隠れているものがいろんな姿としてあらわれるだけのことだとわかりました。それはたいへん美しい世界だとおもいました。でも……。でも、もっと美しい、なによりきれいなおんなの子は……。
「でも、きみは……」
 それでも、おんなの子にはいつまでもかわってほしくないし、隠れてもほしくはない。おんなの子はいつまでもおんなの子のまま、そしていつも一緒にいてほしい。
「もう、かくれないで」
 おとこの子がそう言おうとおもった時、目の前をまた一枚の花びらがとおりすぎました。また別の一枚も降ってきたのでおもわず上を見上げると、空とおもったところに池の水がたたえられて、いくつもの睡蓮の花がふくよかに開いていました。おとこの子が「あっ」と叫ぶと、睡蓮の花はねむるようにゆっくりその花びらを閉ぢました。
 おとこの子はおんなの子のほうに目を転じると、その優美で小さな指先にとまっていた花びらがひらひらとゆっくり動き出し、本当に蝶々になって舞いはじめました。おんなの子のまわりの花びらはいま一枚、つぎもう一枚とゆっくりおりてきてはとまり、そこで美しい變身(へんしん)をくりかえして蝶々になって舞うのでした。
 おとこの子の目の前にも一羽の蝶々が舞い飛んできました。おとこの子はこの指にとまれというように一本指を立てて蝶々のほうに向けました。蝶々はなおもひらひらしていましたが、おんなの子が合図をおくるとちゃんとおとこの子の指先にとまってくれました。おとこの子はおんなの子とおなじになったのでとてもうれしくなりました。にこにこしてもう一度おんなの子のほうを見ると、おんなの子は一面の花園のまんなかにいて、たくさんの蝶々が舞っていました。おとこの子の指先にとまった蝶々もそのなかまのほうへ飛んでゆきました。おとこの子は自分も蝶々になっておんなの子のほうへ飛んでゆきたいとおもいました。そうおもうと、たしかに飛んでいるような気分になりました。本当に蝶々にかわってしまったような感じです。
「あれ、ぼくもかわってる。ぼくもなんでもあるんだろうか」
 そう考えると、いま、ぼくの姿はきえてるんだ、蝶々になっているから、もうどこにもぼくの姿は見えないんだ、と知りました。すると、ぼくは隠れていることになるんだろうか。ぼくはちゃんといるけれども、ぼくの姿は見えなくなり隠れてしまっている。隠れることになってもなくなることにはならないことがわかりました。それはそれで安心したのですが、でも、隠れてるぼくをおんなの子はちゃんと探してくれるだろうか、一杯いる蝶々のなかからちゃんとこのぼくを見つけ出してくれるだろうか、とおもうとやっぱり不安でした。飛んでいる気分は楽しいものです。頭で考えることはないようにおもいます。でも、もしも、とおもうと、どうしても頭が働きました。そして、また不安が頭をもたげてくるのでした。
「やっぱりかくれんぼうはいやだ」
 おとこの子はおもいきるように絶叫しました。そう言うと、おとこの子は前のめりになって顔から前におちました。おちる瞬間、自分の姿は前のような年をとった羽ぼろぼろのチビテングにかわったように見えました。それも自分のなかに隠れていたものなのか。
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