第9話

文字数 3,129文字

「待って」
 おとこの子は悲鳴にも似た叫び声を上げました。おんなの子を見失うたび、おとこの子はどきっと胸が震え、心が凍るおもいがしました。ちっともそれになれるどころか、たび重なるごとに激しくなるようでした。
「ああ、あなたは、かわりたくない、かえたくないとおもって、反対にいまという時を動かし、時を過ぎ去るだけのものにかえてしまう。遠い近いという区別をして、反対に距離をつくってしまう。距離を縮めようとしたら、時間はどんどんのびていってしまうわ。そういう世界にあなたはいる。待って、なんて、時が過ぎ、相手が行くのを認める言葉。なぜ逆のことをおっしゃるの?」
「いやなんだ。なんと言おうといやなんだ。きみが隠れるなんて、絶対に。ああ、神様、どうにかして」
 おとこの子はもう見失ってしまったおんなの子に対して、ききわけなくわめきました。
「ああ、神様おねがい。ぼく、いい子になります。ぼくオニではありません。かくれんぼうなんてもうごめんです。絶対いい子になりますから、あのおんなの子を……」
「ああ、あなた、神様もいつもそのお姿を秘めていらっしゃるのに」
「そんなことあるもんか」
 おとこの子は自分の叫びで一番身近でともし火をかかげたおんなのひとが持っていた花を散らしてしまったのを知りました。と同時に、風が乱れ吹き、そのおんなのひとをはじめとしておんなのひととともし火の列まで目に紛れてしまいました。「しまった」とおもってももうとりかえしがつきません。
 おとこの子の散らしたおんなのひとの花びらが何倍もの数になっておとこの子のまわりにたくさんながれおちてきました。おんなの子のいた高みにはあいかわらず花園のようにきれいでいろんな種類の花花が咲き、樹樹に咲く花も爛漫(らんまん)と天までおおってにおいたつようです。枝をはなれた花びらも光に映(は)え、宝石がきらめき揺れるように見えます。そう見ると、そのまんなかに美しいおんなの子の姿が見えました。けれども、おんなのひとのともし火の列がきえたためか、今までのように清(さや)かには見えないのが気がかりです。さらにおとこの子の目の前におちてくる花びらが邪魔でした。それらは吹きすさんだ風に散らされたはずなのに、元気なくのったりとただおちてくるばかりであっていっそう邪魔なのです。
「散るな」
 おとこの子は心はさらに騒いで、目の前をおちる花びらを手で払いのけるしぐさをくりかえしました。すると、それがかえってさらに花を散らせたように、いっそうたくさんの花びらがおちて目の前をさえぎります。
「そうするとどんどん時を動かしてしまいます、あなたのお気持ちと反対に」
 見えない声にはっとして、おとこの子は花びらを払いのけるしぐさをぴたっとやめました。ひょっとすると、この花びらの一枚一枚は、あのおんなのひとたち、小鳥たちかもしれない、とおもうと、もうそれ以上乱暴なことはできませんでした。
「そうしてあなたはかわってしまうわ。あなたのいまという時はもうおなじでなくなってしまう。あなたがどんなに一緒でいようとしたって、もう移り過ぎてかわってしまいます。時の動きにあなたは乱れ、いまをかきけす」
 ああ、神様、この世界はあなたが守ってくださっているのではないのですか。
 かなしいことに、もうどうしようもないようでした。いくら神様におねがいしようとしても、もう世界がかけはなれているようです。もうどうしたって、いま淡い姿で見えているおんなの子が再び隠れずにいないような感じがしました。おんなの子は最後のお情けであらわれてくれたように感じます。おんなの子とのあいだを結ぶおんなのひとのともし火の列がきえてしまった今となっては、もうここに見えるおんなの子の姿がきえれば二度と会えないかもしれないような気がするのでした。とうとうそういう時が……。
「そんな、時、なんて」
 おとこの子はくやしそうにそう言いました。おんなの子はまだ隠れずにいました。静かにだまったまま見守っているようでした。
 突然――
「時、とまれ」
 おとこの子はおもわず叫びました。
 おとこの子にはようやくわかりました、かくれんぼうの遊びでなくてこんなきれいなおんなの子といつも一緒にいるためには、時間が永遠に止まってしまうしかないっていうことが。
 でも、それはできない相談でした。
 時を止めて。その叫びには、神様さえ否定する響きがありました。しかし、おとこの子はなにもおそれていませんでした。むしろ、いまここで世界が終わりになることのほうが、おとこの子の本望にかなうことなのかもしれません。
 おとこの子はその時、心臓がぴくっとふるえたのを感じました。そして、ふるえたとたん、急にきゅんと締めつけられるような痛みをおぼえました。
 おとこの子は泣きました。おしだまったまま、なみだだけながして。声をたてない初めてのなみだ。痛いために出たなみだぢゃない。なみだの痛み。なみだが血よりも濃く、心臓よりもっとおくふかいところからおしだされてくるのを感じました。おとこの子はそれまで、空気に錆(さ)びていない、からだのなかを生きてしんから真っ赤な血を見たことがないように、そのように濃くふかく、命とおなじだけ重いなみだを知ることがなかったのでした。
 そのなみだは、おんなの子の目にも光っていました。はかりしれなく美しいなみだでした。おんなの子はなにも言いませんでした。けれども、おとこの子はおんなの子のなみだから「かなし」という言葉を読みました。
「かなし」――それはおとこの子の知らない言葉でした。「いたい」とか「いやだ」とか、「きつい」「くるしい」などとかというのとは、全然種類のちがう言葉。それらはなみだが出る時の言葉ではあっても、なみだそのものの言葉ではありませんでした。なみだでおしながす必要のあったごみに近いものでした。それがなみだにまじって、なみだの言葉と見えただけかもしれません。でも今、おんなの子のなみだから読んだ「かなし」という言葉――しかしそれは「言葉」でしょうか――は、なみだそのものの芯(しん)にきらめく光に見えました。心の深い底に隠されたはかりしれない秘密に接して、おもわずなみだの玉に凝(こ)ってあらわれた美しい言葉にちがいありませんでした。
 おとこの子はなみだをながしながら、そこにおんなの子の光を宿し続けていることを幸福に感じました。最初こそ痛みをおぼえたけれども、今はとっても幸せな気分でした。
 おんなの子は安心したようにほほえみました。そして、なみだに光る目を手でおおって目隠しをすると、なみだの光と一緒におんなの子の姿も隠れてしまいました。それと一緒に、おとこの子のなみだも止まりました。かくれんぼうの遊びをするのに、泣いてなんかいられません。
 そうだ、かくれんぼう遊びしているんぢゃないか。
 おとこの子はもうオニがどうのとおもいませんでした。どちらが隠れ、どちらが見つけるのでもない、どちらも隠れ、どちらも見つけるんだ、だからいつも一緒なんだ、自分の時は移りかわっても、かくれんぼうを続けているかぎり、いつもおんなの子の、いま、ここ、にかえれるんだ。もう、どこもいつもかわりはない。
 おとこの子はおんなの子に呼びかけるように静かにささやきました。
「かなし」
 一緒にね。(さあ、みつけて)
 そして、続けて声をはりあげました。
「もういいよ」
―終わり―
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