第17話 美紀の事情と四月の門出

文字数 2,775文字

退院後も相変わらず仕事は忙しかったが、研究施設は一応大学の付属機関のため、各部署で春の年度変わりの休みに入り始めた。そんな中で、僕は美紀の両親のゴタゴタの後始末を手伝っていた。両親は結局離婚と言う事になり、母親は、実家の薬局に戻り昔の様に経営に付く事になった。父親の方は、相変わらず帰国しないまま、メールや電話での対応に終始した。僕は美紀の母親の方には、挨拶に行っていたが、父親とは未だ逢えず仕舞いでいた。
「お父さんには、手紙を出しておいたよ。」休日を利用してあちこち飛び回っていた美紀が、僕の部屋に戻ってきたのは、三月も終わりに近かった。
「引っ越しとか、不動産屋の手続きとか色々頼んじゃってごめんね。」
「家引き払っちゃっていいの。ずっと暮らしていた家だろう。」
「うん、暫く彼処には住みたく無い。でも相続の話で、あの家は私の所有て事になりそう
なので、取りあえずリホームして、誰かに貸すつもりだけど、良かったかな。」住み慣れた家をあえて捨てる様な美紀の決意に、彼女の心の中の軛くびきを解放しようとしている葛藤が感じられた。美紀の両親は二人とも薬学部出で、そんな事もあり当然の様に彼女も薬学部に進んだ。父親はドイツの某薬メーカーに勤め、当初母親も自分の薬局の経営に参加していた。美紀が生まれて暫くしてから主婦業に専念する事になったが、手が掛からなくなると、再び薬局の仕事を始めていた。そんな家族事情の中で、帰国しない父親と経営に忙しい母親との間に次第にすきま風が吹き出し、その風の温度が徐々に冷えっていってついに、二人の間に頑強な氷の壁を築きあげてしまった。
「高校の時、親の忠告を無視して一人旅に出たのも、家に居るのが嫌だったからなの。母と二人で暮らしている時は特に何にも感じないけど、父親がたまに帰って来た時の空気はいたたまれない、だから夏休みや冬休み、特に年末年始なんか、家に居たく無かった。でもそのおかげで和君と出逢えたし・・・」美紀は何時の間にか荷解きを止めて、昼食の準備をしている僕の背中に寄り添っていた。
「何だか久しぶり、和君の温もりの感じ。」僕も背中越しに、同じ事を感じていた。 
綾姉の居なくなった空間を、美紀の荷物が埋めるのに二日程掛かったが、空間的にはまだ余裕があった。
「これなら、一人目は大丈夫ね。」部屋の間取りを眺めながら美紀が言った。
「え、できたの。」
「残念でした。まだでーす。それに、できちゃったら山に行けなくなるし。」
僕らは四月の初めに婚姻届けを出して、晴れて夫婦となった。結婚式は、お互いの仕事の関係と小屋の事情で五月の連休を予定していた。四月になって、僕も正式に研究施設の職員と成り、けじめが付いたが、一寸厄介な問題も舞い込んで来てわいた。片付けも一段落し、お茶を飲みながらメールのチェックをしていると、圭輔さんからのメールが飛びこんで来た。
「カイラス・・・」僕は圭輔さんからのメールを見て驚いていた。
「ええ、カラスがどうかしたの。」美紀が聞き間違えて反応した。
「カラスじゃなくてカイラス、カイラス山て知らない?チベットと言うかヒマラヤと言うか、そこにある山、確か仏教の聖地、霊場て言った方が正しいかな。」僕が慌てて、ネットで検索し始めると、美紀が覗きこんで来た。
「そのカイラス山がどうしたの。」
「岳さんの行き先らしい。」
「ええ、そこに居るの、岳さん。」
「山自体は、未踏峰で登山は許可されていないけど、その周辺は霊場で信者たちが礼拝する所らしい。」僕は、ネットで検索した結果と圭輔さんのメールに添付されていた岳さんからの絵はがきを見せた。
「じゃぁ、多恵さんの遺灰を・・・」

「そうかもしれない。」僕がそう言いながら、二枚目の添付写真を開いた時、二人して驚いて声をあげた。その写真には、岳さんの側にいる茜ちゃんが写っていた。
「ええ、何で。」僕が言った言葉に
「やっぱり、そう言う事だったのね。」美紀が一人で納得している間に、僕は圭輔さんの長いメールを読み進んだ。そこには、茜ちゃんの情熱的で無謀な行動が説明されていた。
「今チベットに居るらしい。ラサで雪解けを待ってカイラスに向かう計画みたいだが・・
茜ちゃんは取りあえず帰国してから、夏にまた行くみたいだ。」僕は、メールの内容を要約して美紀に説明した。
「茜ちゃんがそこまで思い込んでいたとは知らなかった。」僕は多恵さんの告別式の後の茜ちゃんの様子を思い出していた。
『岳さんはこれからどうするつもりなんでしょうかね。一生多恵さんの思いを背負って行くのかしら。』
『多恵さんはそれを望んではいなかったけど。そう簡単に吹っ切れる思いじゃない事は事実だね。』
『多恵さんと岳さんの関係の詳しい経緯いきさつてご存じですか。』
『あまり詳しい事は知らないけど、多分、茜ちゃんのお兄さんか薫さんの方が詳しいはずだね・・・僕が知っている範囲で話せば、あの小屋での伝説的な告白の一つに入っている話でもあるけど。』帰りの駅に行く道すがら、綾姉と美紀達と一寸距離を置いて歩いていた茜ちゃんと僕との会話であった。
『岳さんは、ああ見えても凄腕のサイクリスト、自転車乗りで、何か変な表現かな。学生時代は、日本一周は勿論、フランスの一般参加の自転車レースで上位に入賞している位の人なんだけど。多恵さんとは小屋で知り合ったのが切っ掛けだと思う。その後親しくなってから、多分数年後位かな、彼女の病気を知ったらしい。この間の経緯は圭輔さんの方が詳しいよ。岳さんも随分悩んだみたいだけど、多恵さんのこれからの一生を全て受け止めようと決意して・・・多分それが多恵さんにとって最後の小屋の日々であったろう日に、
夜通し自転車を漕いでやって来たんだ。そして小屋に居た全員の前で求婚したらしい。それがあの小屋の伝説的な告白の一つと成っている話。』
今思えば、彼女(茜)はあの時点である決意をしていたのかもしれない。
「ねえ美紀、茜ちゃんは岳さんの救済員に成ろうとしているのかなぁ。」僕が聞くと
「まだ若いから、そんなに深い事を考えていないかもしれないけど、岳さんが好きな事は事実ね。」
「岳さんと多恵さんの事は其れなりに、随分話したと思ったけど・・・」
「解っての行動だと思うわね。チベットまで追いかけて行くのには相当な情熱が無いと出来ない行動よ。私も和君のためならすると思うけど。」
「それは有り難いお言葉です。でも、愛した人の面影をそんなに簡単に消せるものだろうか。」
「消せないとは思うけど、何処かで区切りが付けられればその先には行けると思う。だから、岳さんは茜ちゃんを受け入れようとしてるんじゃないかな。この写真、私にはそんな風に見えるけどな。」たしかに、岳さんの横に居る茜ちゃんの笑顔と岳さんの笑顔が、新たな出発を暗示している様に見えた。
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