第14話 伝説の告白

文字数 8,852文字

翌朝、美紀も僕も目覚ましをセットし忘れていて寝過ごしていた。
「こら、何時まで寝てるの、お二人さん。ドア開けちゃうよ。」元気な、茜ちゃんの声で目が覚めて慌ててパジャマをチェックした。
「あ、そうか山小屋だっけ。」灯りを点けて美紀を起こすと
「目覚ましセットするの忘れた。」美紀も同じ事を思っていたらしくそう言った。
「何だか深い海の底で寝ていた様な感じ。」
「僕は、夢の中で記憶喪失に成っていたみたいで、目覚めた瞬間、薫さんに寝起きを襲われた場面と勘違いして、慌ててパジャマを探しちゃったよ。」
「え、服着ているわよねぇ!」
「大丈夫、昨夜は直ぐ寝たから。」
二人ともまだ寝ぼけていて、情況がハッキリしないまま、部屋から出てきた。
「お、寒いー。」
慌てて着替えをしてトイレに駆け込んだ。
何とか体裁を整えて、広間に行くと朝食が始まっていた。
「よ、お早う、お熱いお二人さん」馴染みの客の一人が茶化した。美紀と二人でテーブルに着いてから
「やっぱりあの部屋何か有るね。」僕がそう言うと
「え、何か出るんですか!」茜ちゃんが心配そうに尋ねたので
「いや、そうじゃ無くて、とんでも無い癒し効果があるかもしれない。」僕は朝食が終わってから、あの部屋の事情を茜ちゃんに説明したが、本当の所は良く解らなかった。
「以前に、地学の専門家の若先生が、この辺の岩盤にはトルマリンが含まれているて言ってたけど、その影響かな。」
「だから、夕紀さん年を取らないんじゃないですか。」美紀が納得した様に付け加えた。
 二日目も天気が良く、いつもの常連客と共に、山スキーで出かけた。いつもの終着点のバス停を過ぎると、売店を兼ねたドライブインがあり、そこには小さいが温泉もあった。その近くにこぢんまりしたスキー場があり、そこで遊んでから、昼食をとり、売店の温泉に浸かって、登りのバスで帰るのが、このコースの行動パターンであった。夕方に小屋に戻ると、今朝早くに着いた車組の常連客に混じって、見覚えのある女の子が混じっていた。女の子は何やら主人と話していたが、僕に気付いたのか此方にやって来た。
「沙織ちゃんか!大きくなったね。」
「はい、高校二年です」その子は、夕紀さんの旦那さんの妹の娘で、僕がバイトをしていた時、彼女がまだ小学生か中学生の頃に良く小屋に遊びに来ていた。
「お久しぶりです。和也さんあまり変わってませんね。」
「え、まだガキぽいて事かな。」彼女はクスリと笑ってから、
「ご結婚なさるとか。おめでとう御座います。」
「うん、まだ一寸早いけど、有り難う。美紀いやポンちゃんとは逢った事無かったっけ。」
「ええ、二―三度お逢いしています。」
「今日は、わざわざどうしたの。」
「冬休み兼小屋の手伝いのアルバイトです。あの、良かったらまた星の話聞かせて下さい。あ、其れと私和也さんの大学目指して頑張ってますから。」
「うん、バイトの時は寒く無いようにして来て。それと、僕は、今東京の方のM大の研究施設にいて、あそこの大学院じゃ無いんだ。」
「え、そうなんですか。そのお話も後で聞かせて下さい。」そう言い残すと、小屋の中に消えていった。側で聞いていた、茜ちゃんが
「私たちもその辺のお話を聞きたいですよね。」と茶々を入れた。
その日の夜は、霧も掛からず絶好の天体観測となったが、とても寒くアンドロメダの位置の説明と最新のお隣さん銀河の情報を話しすのがやっとであった。早々に、小屋に入って玄関の脇に有る屋内の長椅子に座りながら、小屋に保管してある資料を使って話を続けた。話が一段落した時、主人がやって来て、
「久ぶりね、和君の天体講義も。」
「夏より星が綺麗だけど、寒くて外に長い事いられませんね。」
「うんん、でもあの時二人は、結構頑張っていたわよね。」主人が唐突に言った言葉に、
「ああ、そう言えば、あの時も此処から見てましたね。ちょうどあのテーブルに二人が対面で座って。あの告白も、伝説の一つですかね。」そんな会話に、興味をそそられたのか、
「何の話?」
「聞きたい。」
「伝説の告白!」
美紀と茜ちゃんと沙織ちゃんの三人が反応した。常連客の一人が、
「圭輔と薫の話だろう。」
「お兄ちゃんの!」茜ちゃんが強く反応したので、主人と一緒に話し始めた。
「僕がここでバイトをしていた時で、薫さんを追いかけるように圭輔さんが小屋にやって来たんだ。何でも薫さんは、当日帰国したばかりなのに飛行機乗り継いで、此処まで来たんだけど、それを何処で知ったのか、圭輔さんが追いかけて来たんです。」
「ケイ君に連絡したのは私だけどね、まさかあんなに早く来るとは思わなかったわ。」主人が付け加えた。
「それで、小屋に着くなり真剣な顔で、薫さんを連れ出して、あのテーブルに対面したんです。今日の様にとても寒かった夜ですよ。僕は心配になって、暖かいココアを作って持って行ったんですが、その時の様子では、圭輔さんが物理の講義でもしている様子で、ディラックがどうとかポジトロンが何とかで、告白タイムと言った情況には見えなかったけれどね。此処に戻って夕紀さんと窓越しに様子を窺っていると、薫さんの顔を正面から見直して何かきっぱりと言った様に見えたんです。」
「私は、その時、『ケイ君が告ったわよ』て言ったのよ。」再び主人が付け加えた。

「その後、薫さんが、圭輔さんの顔を両手で押さえて、凄いキスをしたんです。」ここまで静かに聞いていた一同から歓声と拍手が起こった。
「圭輔さんは暫く呆然としてから、雪の上を転がり回って喜んでました。」
「そうね、四年越しの告白が実った瞬間だものね。」
「雪の上を転がり回っている圭輔さんとは対照的に『ココア凍っちゃったわよ』て冷静な顔して戻ってきた薫さんとの対比が面白くて、夕紀さんと思わず吹き出してしまいました。」僕と主人の話は、天文の講義より面白かったのか、その後も色々な話題が飛び出てきて一同を驚かせたり、楽しませたりした。多少お酒も加わり、眠気に耐えられずに僕は部屋に引き上げる事にして、美紀の耳元で声を掛けた。
「先に寝るよ。」美紀は、うなずいてから
「私もそろそろ引き上げるわ。」そんな会話が茜ちゃんの耳に入ったのか
「美紀さん、美紀さんの部屋に泊まりに行ってもいい。何だか変な体験が出来るとか、和也さんが言ってたけど。」小声で、美紀に話している茜ちゃんに
「でも和君居るよ。」
「大丈夫でしょう、美紀さんが居れば。」
「あーまー、そうだけど。」この二人の会話をさらに、耳を側立てて聞いていた沙織ちゃんが、
「私も泊まらせて。」と小声で参戦して来た。
「僕が何処かに移ろうか。」
「空き部屋は、女性部屋しかないよ。それに、あの部屋結構広いし。」沙織ちゃんが、早速、小屋のアルバイトの本領を発揮して言った。
「まあ、みんなが良いなら。和也が何かしそうに成ったら、私が責任を持って押さえつけるから。」美紀が楽しそう言ったので、他の二人から笑いが漏れた。
「え、じゃぁ僕寝ても良いんだね。何だか誤解を招きそうな会話だけど。」部屋に戻ると、
あっという間に眠りに付いていた。多分明け方、携帯のアラームで目を覚ますと背中と胸の中に暖かい物を感じて、慌てて小さなライトを点けた。抱き抱えているのは美紀の様で、背中に居るのは・・・いつもの情況なら、綾姉であったが、僕はライトをそっと背後に照らして確認した。『ええ、何で綾姉が居るんだよ!』と思った瞬間、『ああ、夢か。』と思い直し再び、浅い眠りに付いた。二度目のアラームで目が覚めて、着替えを持って外に出た。僕は、暖炉がある広間に行き、暖を取っていた所へ、沙織ちゃんがやって来た。
「あれ、まだ部屋じゃなかったの。」僕が言うと、
「ええ、朝の手伝いも有るし、あの部屋に泊まるのは止めにしたんです。」
「あ、じゃぁ茜ちゃんが来てたのか。」
「いいえ、茜さんも泊まってませんよ。」
「ええ、じゃあ誰、三人目は?」
「和也さんも美紀さんも部屋に戻ってから、昨夜遅く着いたお客さんが居たんですが。」
「一寸、その人僕の関係者とか言ってなかった。」
「ええ、ご主人とも顔見知りの様で、でもどう見ても、私位の年にしか見えなくて、和也さんに妹さんが居たのかなって、それで後で聞いてみようと思って居たんですが。」
「ああ、間違いない僕の関係者です。従妹です、妹じゃなくてどちらかと言えば姉ですね。」
「え、お姉さん。あの人が!」
「従妹ですけどね、もう三十路の。」
「でも、凄い人ですね、あんな時間に女一人でやって来るなんて。」僕はかい摘んで、綾姉の事を沙織ちゃんに説明した。彼女は疑問が解けて納得した様子で
「でも可愛いお姉さんですね。私も欲しいな、あんなお姉さん。」
「あれ、沙織ちゃんも兄弟居なかったっけ。」
「ええ、一人っ子です。」
「あそうなんだ、僕も美紀も一人っ子で、従妹の姉さん、綾佳て言うんだけど、一人っ子だよ。」
「へーえ、じゃあ和也さんも美紀さんも私のお兄ちゃんとお姉ちゃんに成ってくださいよ。」
「ああ、喜んで。」そんな話をしている最中に美紀が着替えを抱えながら、慌てた様子で此方にやって来た。
「びっくりしたわ。目が覚めたら、隣りに綾佳さんが居たんで。てっきり茜ちゃんか沙織ちゃんだと思って居たのに。」
「僕は、沙織ちゃんから事情を説明されるまで、解らなかったよ。夢だと思って、此処で
寝ぼけた頭を整理していたら、沙織ちゃんが謎解きのヒントをくれたて訳かな。」三人で今の情況を確認しあっていると、朝食の支度をしていた主人夫妻に呼ばれ、沙織ちゃんがその場を去った。
「綾姉に何かされなかった。」僕は美紀に小声で聞いた。
「された、胸揉まれた。始めは、和君かと思って、そう言えば、あの二人が来ている筈と思い、止めさせようとしたら、何だか背中の感触が違うので、慌ててライトを点けたのよ。そしたら、綾佳さんが居るので、最初は、私も夢かと思ったわ。でも和君も居ないし、ともかく此処から出ようと思って、そしたら夢か現実かハッキリするじゃない。それで着替えを持って慌てて部屋から出てきたって訳。」
「相当寂しかったのかな、綾姉。僕も美紀が襲われる前に、多分羽交い締めにあっていた様なんだ。変な夢を見ていて、その夢の中に突然綾姉が出てきて。でもそれが夢じゃなかった。綾姉があんな状態になるのは、淋しい時なんだ。」僕らがそんな話をしていると、朝食の支度が一段落したのか、主人がやって来て
「ビックリしたわよ、昨夜わ。まさかあんな時間に、女の子一人でやって来るなんて。」
「まあ、綾姉なら何が出てきても、投げ飛ばしてしまうだろうけど・・・冗談は置いといて、綾姉何か言ってました。」
「あまり会話らしい会話はしなかったけど、兎も角暖かい物でも食べさせてと思って、うどんとおにぎりを作ってあげたのよ。それをペロリと食べてから、和君の部屋を尋ねると、丁重に和君が世話になっているお礼を言って、宿泊の許可を打診されたのよ。始めは、女性部屋の方と思ったけど、茜ちゃんと沙織ちゃんが和君達の部屋に行くのを諦めてくれたから、あの部屋に通したのよ。」
「でも、此処に来るのを誘った時は、雪人さんの施設での世話、子供達の事ですが、有るからって、来られないて言ってたのに。雪人さんと喧嘩でもしたのかな?まあ、事情は本人から聞くしかないけど。」
「そろそろ起こしますか、綾佳さん。あの部屋だと何日でも寝てられそうだけど。」朝の身支度を終えてきた美紀が言った。
「まあもう少しほって置きましょう。お腹が空いたら起きてくるでしょう。顔には出さないけど、大分疲れているでしょうから。」そんな主人の言葉に甘えさせてもらい、内心起こすと五月蠅そうなので、ほって置く事にして僕らも、朝食の準備に参加した。
宿泊客達が食事を済ませ、今日の予定をあれこれ話していた時、主人からアナウンスがあった。何時の間にか小屋は、濃い霧に包まれていたので、暫く外へ出るのを控える様にとの事で、今後一時間於きに玄関の鐘を鳴らすので手伝って欲しいとの依頼であった。鐘は小屋の位置を知らせるための処置で、近くまで来ている人への合図である。
「朝霧だから、お昼までには上がるよ。」常連客の一人が事態を説明してくれていた。鐘を鳴らしに玄関の外に出て見ると、本当に数十センチ先が見えなかった。
「霧と言うより、スッポリ雲の中に入ってしまっている状態だね。」隣りにいる美紀に話しかけると、何時の間にか、僕の背後に回り込んでいた美紀に鼻を摘まれて
「正に、鼻を摘まれても解らない状態ね。」とからかわれた。
出足を挫かれた状態となった宿泊客達はそれぞれに、暇つぶしの方法を見つけ出し幾つかのグループに分かれていた。そんな一つに僕らはいて、茜ちゃんや沙織ちゃんと共に、小屋の主人用にと持ってきた雪人さんの作品紹介のDVDを見ていた。
「モデルの人て、綾佳さん!」沙織ちゃんが言った。
「うん、今穴蔵で寝てる三十路の姉さんさ。」
「可愛い人ですね。昨夜も本当に私位の年の人かと思ってましたが。」
「素性を知らない人は、大体外見でだまされるね。ああ見えても武闘家で、しかもかなり強い。」
「人は見かけに寄らないて事ですね。」と茜ちゃんが口を挟んできた。僕は綾姉に纏わる幾つかのエピソード、修学旅行の引率での話や雪人さんのNPO施設での出来事などを話しているのを後ろで聞いていた美紀が
「そろそろ、起こしますか。」と聞いてきたので
「そうだね、起こしましょう。」それを聞いて、沙織ちゃんが
「では、食事の準備をして於きます。キッチンの方へ来る様に言ってください。」と気を利かせてくれた。美紀と二人で、綾姉が寝ている僕らの部屋に向かおうとした時、窓越しから、霧の中を誰かが此方へ向かって来るのが僅かな霧の隙間から見えた。僕は、綾姉の事を美紀に頼むと、直ぐに玄関に向かい、鐘を鳴らした。暫く鳴らし続けていると、主人が来たので、人影を見た事を話した。
「今日予約が入っている人が居るけど、その人かも。」何だか勿体ぶった表現ではあったが、時期にその答えが解った。霧の中から現れたのは、旅人(たびと)さんだった。
「やあ、こんにちは、鐘を鳴らしてくれたので助かったよ。GPSを便りに霧の中を歩いてきたけど、もうすぐて所で、霧が濃くなって、まいってたんだ。」
「お久しぶりです。今日は霧さんは!」僕が聞くと
「霧に包まれて来たよ。」とジョークを飛ばしたが、
「それって、一部の関係者以外には通用しないわね。」と主人が言った。
「そうかな・・・霧は妊婦なんで置いてきた、今は実家に居るけど。」
「わおーおめでとう。それでどの位。」
「五ヶ月目、本人も来たがって居たけど流石に無理でしょう。この霧も霧の焼きもちか。」と周りを見回した。旅人さんは、年齢的には、僕と圭輔さんの中間に位置する存在で、僕にとっては、身近な兄の様な人で、また、その奥さんと成った霧ちゃんは、美紀と同じ位の年齢で、二人とも気の知れた山仲間であった。美紀が戻ってきて、早速旅人さんを見つけ
「お久し振りです。霧ちゃんは?」
旅人さんが、さっきと同じジョークを飛ばしたが、美紀がポカーンとしていたので、僕が事情を説明した。
「赤ちゃん出来たんですか。おめでとう御座います。」美紀が言うと
「まだ、生まれて無いけど、そう言えば、君たちも結婚するとか、圭輔さんのメールにチラッと書いて有ったな。」
「発信源はそこか。」僕が言うと
「それで、式を此処でやりたいとか言って、夕紀さんに頼みこんでいるとか!」
「当たりです。」
「そう言う事なら、後で霧から詳しい内容を送らせるよ。小屋にもアルバムが有ったと思うけど。」僕らがそんな会話をしていると、
「和也寒いぞ。服が無い。荷物何処だ。」綾姉がいつものフランス人形が着ている様なパジャマの格好でうろうろ歩いてきたのに旅人さんが驚いた様子で
「誰、写真撮って良いかな。」とカメラマニアの旅人さんの被写体にされているのにも無反応で、ストーブの側に座り込んだ。
「まだ寝ぼけてますけど、僕の従妹です。お互いに一人っ子なんで、小さい時から姉みたいな存在です。」

「姉さん・・・どう見ても妹だな。」
「怒らせないで下さい。ああ見えても武術の有段者で、男の一人や二人は軽く投げ飛ばしますから。」そう言うと、旅人さんが慌ててカメラを閉まった。寝ぼけ状態の綾姉に、美紀が荷物を探して持って来たので
「寝起きに暴れなかった?」と僕が聞くと
「完全に、寝ぼけて意識が飛んでますね。アパートの部屋と間違えているみたい。」
ふと気づくと、旅人さんと付近に居た数人の常連客が、目を丸くして硬直していた。綾姉が人目も気にせず、と言うか寝ぼけて意識がない状態で、着替え始めていた。美紀が慌てて、綾姉の体を隠したが
「スゲー、霧も負けてるぞ。」
「え、霧さんてでかかった、でしたっけ。」僕は不足の事態を取り繕う様に対応した。
「今は、かなりでかいぞ。」一瞬のハプニングに、それぞれに目が覚めた様な思いにかられ、その場を離れて行った。僕は、主人から指示されていた部屋に旅人さんを案内する途中で、
「綾姉、いや今の従妹ですが、近々雪人さんと結婚する事に成ります。」
「ええー、あの伝説の救済員と。それは、楽しそうと言うか、羨ましいと言うか。」
「旅人さん、何か変な事考えてません。」
「はは、」とお茶を濁したが
「そう言えば、霧が言ってたけど、雪人さんが、絵で賞を取ったとか。」
「ええ、秋の芸術院賞です。大きな賞らしいですが・・・実はそのモデルが綾姉なんですけど。」
「はあ、そう。やっと雪人さんを救済してくれる人が現れたって事か。」と旅人さんが言った言葉が気にかかった。
「え、それってどう言う意味ですか?」
「昔だけど、あの人が南米とかアフリカとかアラブとか旅してた頃のスケッチや写真を見せてもらった事があったんだ。その中に各国の子供達をテーマにした作品が幾つかあって、それを見ながら雪人さんが言ってたんだ、『僕を救済してくれるのは、この笑顔なんだ』て、恐らく、和也君の従妹さんはそれを持っているんだろう。だから素晴らしい作品も画けるし、一緒に居たいと思っているんじゃないかな。」
旅人さんの言っている事は、理解出来る様な気がした、同時に、綾姉も雪人さんに救済されたのだと思った。何故なら綾姉が今、最も安らげる場所は雪人さんの所だから。そう思ってから、始めは行かないと言っていた小屋に何故やって来たのかを聞かなければと思い直していた。昼近くに成って、霧も薄れて来たが、相変わらず、外へ出るのは、GPSでも無ければ困難な状態であった。綾姉の所在を知りたくて、美紀を捜したが美紀も見あたらずに、大して広く無い、小屋の中をうろうろしたが見つからなかった。ふと気づくと、小屋の女性達の姿が見えなかった。そうこうしているうちに、小屋の主人の旦那さんを見つけたので、聞いてみると
「女性陣は、男子禁制の間に集まってます。」と笑いながら答えてくれた。
「男子禁制の間!」
「うちの奥さんの部屋ですけど。多分ファションショーでもやってんじゃないかと思いますよ。」其の言葉と、見ようと思っていた広間のアルバムが無くなっていた事で、彼女達が何をしているかの察しがついた。旅人さんも部屋に入って寝てしまったのか出てこない。霧に包まれた小屋は暫し冬の静寂の中にいた。僕は自炊場で軽い食事(紅茶と携帯食)を済ませると、玄関脇の長椅子に座って、丘を越えて行く霧、いや雲の切れ端と言った方が正しいかもしれない、を見ていた。そう言えば、大学に入った翌年の夏に、アルプスに登り、頂上の小屋から、峰を越えて行く雲の滝を見ていた事があった。その時も思ったが、もっと昔に、同じ様な景色を見ていた自分がいる様に思える感覚が残っていた。
「デジャブーか。」僕の独り言に、何時の間にか、やって来ていた美紀が
「デジャブー?何の。」
「ああ、やっと出てきた。男子禁制の間で何やってたのかな?」
「それは、内緒。お昼作って来たわよ。」と言って、おむすびとお茶を持って来てくれた。
「有り難う、さっき乾パンを食べてごまかしたけど、どうしようかと思ってた所さ。」
「さっきのデジャブーて。」
「ああ、あの景色の事。」僕は、外を指さした。
「霧が流れて行くわね。」
「あんな景色を見ると、随分昔に同じ様な景色を見ていた様な感覚に成るんだ・・・僕が手術をした時、麻酔から覚める直前位に、同じ様な夢とも幻覚ともつかない景色を見ていたんだ。」
「麻酔の副作用かな。」
「多分、昏睡状態が結構長かったみたいで、今でもその時の事を思い出すと、まだ自分は目覚めていないんじゃないかて気がする時がある。ずーと植物人間のままで。」
「大丈夫よ。ちゃんと現実の私が此処に居るわよ。」そう言って、美紀は優しく手を握った。昼の憂愁から覚めた僕は
「ねえ、綾姉はどうしている。お昼を食べてまた寝たみたい。この霧じゃ何処へも行けないしね。」
「何か言ってた。始めは行かないて言った小屋に、突然夜に成ってしまうと言うのに、やって来て。」
「何でも、世話する相手が居なくなったんだって、雪人さんはNPOの件で大阪に行って、施設の子供達も、親戚や親の元に一時帰宅したとかで。」
「ええ、それでわざわざ、此処まで世話されに来たわけ。」僕がそう言うと、美紀がぷーと吹き出して笑った。
「せっかく、あの部屋での美紀との甘い時間を楽しみにしていたのにな。」僕が、一寸ふざけた様に言うと、
「こら不謹慎だぞ、和也。」美紀もふざけた様に言った。
「でも、あの部屋なら良く寝られるかもしれない。岩窟王の部屋じゃ無くて、眠れる賢者の間にしようか。もっとも寝てるのは、賢者じゃ無いけど。」
「今は、お姫様かな。」
「姫!まあいいや。」
僕らはそれから暫く、外の流れる霧を見ていた。美紀とのこんなゆったりした時間を過ごすのも久振りの事だった。

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