第1話

文字数 1,013文字

 いつも半袖なのだった。そのくせ寒がりなのだった。
 御年87歳になる政好さんが「寒いなあ」と布団をかぶるたび、椅子の背にかけられたカーディガンを勧めるが、頷いたことはない。高度成長期を支えた自負がある。健脚だった、と得意げに登山話をする顔は、輝いていて凛々しい。

 そんな政好さんが発熱したのは一週間前。雪がどっかり降った日の朝。気温が一気に下がり、訪問車のフロントガラスは凍りついていた。急いで解氷と雪下ろし作業をして、朝一番に緊急訪問したのだった。

 その後、内服薬で解熱したけれど、めっきり食事を摂らない。トイレ以外にベッドから出てこなくなって。と、孫娘の由佳さんから心配そうな連絡が入る。
 何もしなければ、体力低下は砂時計の砂のようにサラサラと落ちていく。痩せていく体とは裏腹に「絶対、嫌だ」と入院を拒否する顔は凛としてかたくなで、政好さんらしいともいえた。

 主治医から、病状が急性増悪した際などにだされる『特別訪問看護指示書』が交付され、三日前の月曜日から始まった在宅での毎日点滴。布団をかぶる姿をみて、体温測定をしながら、私は暖房の上昇ボタンを二回押した。

「じいじ、もう点滴しなくていいって言うんです。このまま逝かせてくれって」
 訪問を終えて玄関を出た私のあとを、追いかけるように出てきて由佳さんが言った。
「看護師さんには何か言ってましたか?」
「いえ、特には。でも最初から嫌がってましたからねえ」

 今日の訪問を振り返る。もともとの血管の細さに加え、脱水を伴い点滴を入れる血管がなかなか見つからなかった。なんとか一回で入れたものの、途中で腫れてしまい、つらそうに顔をしかめていたのを思い出す。今までは笑顔で冗談をいうような人だったのに、時々遠くを見たり閉眼したり、あまり言葉は発せず生気がないなと感じた。

 政好さんは訪問看護を導入して半年弱。なぜ孫娘家族と同居しているのか詳細は知らない。会話の流れで一度訪ねたことはあるが「ひとり息子はしょうもないやつで」とだけしか語らなかったので、それ以上家族背景を深く聞いたことはなかった。
 それでも、4歳の子どもを保育園に預けパート勤務をしている由佳さんが、政好さんのことを大切に思い、熱心に介護されている様子は伝わってくる。おじいちゃん子だったのかな。

 「今後どうするのか、もう一度、政好さんに意思の確認をしましょうか」
 そう声をかけると、由佳さんの顔に戸惑いの表情が浮かんだ。
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