第1話

文字数 1,620文字

 まだ6歳だった。それでも易感染状態のため個室管理。ひとりぼっちで夜を過ごす。

 消灯後、処置を終え廊下に出たところでナースコールが響いた。
 個室のドアの上、オレンジ色のランプが点灯している。まりえの部屋だ。廊下は既に暗闇の中。足早に進み、指先でボタンを軽く押してランプを消灯させ、病室内へ入った。

 ドアを開けるなり、吐物で汚れた姿を見て「気持ち悪いの?」と思わず当たり前のことを口走ってしまう。
 まりえは小さな左手でピンク色のガーグルベースンを口に当て、右手でティッシュを持っていた。ガーグルベースンは空のままで、私と目が合うと「ごめんなさい、間に合わなかったの」と泣きじゃくりながら、ベッドランプだけが灯る薄明りの中で、ティッシュで汚れたシーツとパジャマを拭いていた。
「そんなことしなくていいよ。まだ吐きそう?」と訊くと、ゆっくり首を横に振る。「着替えられそう?」またゆっくりと、今度は縦に頷いた。
 一度吐いてすっきりしたようだった。コップに水を汲み、口を漱ごうとガーグルベースンを受け皿にするために口に当てると、大丈夫、と部屋の隅の洗面台まで歩いて行く。

 着替えるために、脇の椅子にちょこりと座ったまりえの、猫のキャラクターが描かれた赤いパジャマの前ボタンを外す。胸の皮下に埋め込まれたポートと呼ばれる点滴装置の膨らみが見える。点滴針が刺入されているそこは、幸い汚れた様子はなかった。
 針先から中心部への静脈へとカテーテルが繋がり、薄く細い体の奥へ、抗がん剤が入っていく。これが吐気の原因なのだ。でも止めることはできない。彼女の命綱でもあるから。
 お母さんがキレイに縫って作ったお手製のホルダーも猫のキャラクターがついていた。可愛らしい彼女によく合っている。

 まだ顔が真っ白だ。急いで横シーツを交換し、ベッドに横にすると「またちょっと気持ち悪い」と端坐位に戻る。
 制吐剤は既に入っている。輸液ポンプに繋がった輸液を見つめる。もどかしい。
「まりえ、つらいね。つらいよね。」背中をさすりながら、ごめんね、こんなことしか出来なくて、と心の中で追加する。

 少し落ち着いたのか、まりえがふと呟いた。
「お月様キレイ」
 つられて窓の外へと視線を移した。
 今日は満月だろうか。ほんの少し開いていたカーテンの隙間に、ぽっかりとまんまるの月が浮かんでいた。そのまた月明かりに照らされたまりえの横顔。頬には涙の跡がついていた。
「あったかいタオル持ってくるね。顔も拭こう」

 温タオルを手に戻ると、まりえはまだ月を見上げていた。
「看護師さん、お月さまってね、自分で光ってるんじゃないんだって」
「へえ、よく知ってるね」
「ママが言ってたの。お日様の光り、もらってるんでしょ。わたしの髪の毛とかいろいろ足りなくてもお日様助けてくれるかな」
 ぎゅっと抱きしめたくなる衝動を抑え、小さな頬をそっと拭う。
「あったかくて気持ちいい」
 まりえは温タオルに両手を添えた。
 吐気が落ち着いたので、汚れた寝具と寝衣を片付けようと離れると「もう少し居てくれる?」と彼女がこちらを見ていた。にっこり笑い「もちろん」と答えて、ベッドの隅に腰を下ろした。
 廊下でコールが響いている。ポケットのピッチが振動する。夜勤を一緒にしている相方の足音が聞こえる。ごめん、と心で手を合わせる。
 ようやく横になったまりえに布団を掛け、眠るまでいるよ。と頭を撫でる。半分ほどになってしまった髪の毛。頭皮があちこち見えている。個室の病室にいても日中はきちんと帽子を被っている少女。お洒落さんなのだ。玉蜀黍のひげのような柔らかな髪の毛が、私の指先をさらさら滑り落ちてゆく。

 眠った彼女を見て、そっと私はベッドを後にした。
 夜は日付を越えていく。闇の中、ただ朝を待つ不安。ただ今を乗り越えてゆくだけ。明日はもっと穏やかにいられますようにと願いながら。
                        まりえ6歳(了)




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