第7話 最期に見たもの
文字数 2,667文字
7
エリカとひとつ屋根に暮らして1年が経とうとしていた。
カレーライスを食べ終わり、テレビを見ている時だった。
「亮、私、今月で仕事終わる。だから、来月帰る。国へ」
エリカが、目に涙を浮かべ、ぼそりと言った。
「そうか! 今月で3年の契約が満期になるのか、良かったな」
亮は座りなおし、エリカを正面から見てその手を握ってやった。エリカの目が潤み大粒の涙が頬を伝った。亮はそっと手を離すと、そのしずくを拭ってやった。
「飯を作ってくれたのに、何もしてやれなかったな」
亮は、稼ぎのほとんどを、神田の母親に送金していた。
「少ないけど国の妹に何か土産を買ってやってくれ」
亮は、わずかな蓄えをバッグに押し込めてやった。
「亮、それはだめ! お金大切。家賃も、食料も、すべて出してもらった。それで十分――」
「心配するな。おまえのお陰で、初めて人間らしい時を過ごせた。ところで国に帰る手はずはきちんとついているのか?」
亮は、この世界の女が騙されて転売され、最後は薬漬けで闇に沈んでいく姿を何人も見てきた。
「亮、ありがとう。心配してくれて。でも大丈夫、店のマスター信用できる」
エリカが、深い眼差しで亮を見つめ、続けた。
「私も心配してる、亮のこと。私、亮の仕事わからない。でも、血のにおいがする……」
亮は一瞬目を逸らしたが、再びエリカの目を見た。
「俺は大丈夫だ。ここから先、もう落ちていくところはない」
そしてその日がやってきた。
エリカの話では、早めに店の仕事を切り上げ、十二時に風林会館のわきで待つ組織の車に乗り込み、成田で一夜を明かしてから朝一番のマニラ行きに乗る手はずだという。
亮は最後に、もう二度と日本には来るなよと言ってエリカを送り出した。
午後11時半、二本目の仕事が飛び込んできた。
「葵セキュリティサービスです」
ジローが電話に出た。その横顔に緊張が走るのがわかった。
「わかりました。5分で行けると思います」
「亮さん、ちょっとヤバイッす。関西系の筋者です。五人のうち一人はドスを呑んでるようです。今日だけはおれのサバイバルナイフを――」
「それでどこなんだよ、場所は?」
亮はジローの話しを遮るようにして鋭い視線を向けた。
「あ、すんません! クラブ・地中海です」
「えっ――、わかった」
亮は頭の中が真っ白になった。エリカの店だ。亮は初めて、腹に晒を巻いた。ドスが相手のときは血止めになると、昔神田が教えてくれた。
亮は外に飛び出し、スズキGT250のエンジンをスタートさせた。
すぐにマシンと一体になり、夜の新宿を疾走する。
亮の頭には二つのことが占めていた。もし無事に終われば、これを最後に足を洗おうと。もう一つは、失敗すれば、自分もエリカも歌舞伎町の藻屑と消えるだろう……。
コマ劇の裏に回ったところで、バイクのエンジンを切った。
亮は、クラブ・地中海の豪奢なドアを蹴破った。中は修羅場と化していた。
マスターはすでに床の血溜りに沈んでいる。カウンターの女が中で二人の男に襲われていた。ズボンを脱がされた中年の客たちが壁際に整列し、スキンヘッドの男が財布を集めている。外人ホステスたちはフロアの隅に押し込まれ、木刀で威嚇されている。転売商品にするためか、手出しはしていない。
その中に目を丸くして亮を見詰めるエリカがいた。亮は目でうなずくと、最初にスキンヘッドのみぞおちに足刀(そくとう)をぶち込んだ。次に木刀男に駆け寄り、いきなり飛び二段蹴りを顔面に炸裂させる。反転着地し、よろよろと立ち上がったスキンヘッドの頭部に止めの回し蹴りを決める。カウンターから、ズボンを引き上げながら二人の男が飛び出してきた。戦場で肉欲に目が眩んだ者は、すでに敵ではなかった。
だが、もう一人足りない。腰を落とし、身構えた時だった。
「おんどれ! 舐めたまねしよってからに」
右手に長ドスを握った男が、ステージの陰から現れた。あばた顔。吊り上がった目。だらりと下がった長ドスが、鈍い光を放っている。亮は思わず後退さった。情けない過去がフラッシュバックし、全身が凍りついた。その時だった。一瞬エリカと目が合った。地獄を覗くような目の奥に、故郷に帰りたいという光がのぞく。
男がじわりと間合いを詰めてきた。自分を忘れているようだ。
「堅気崩れが、極道にジギリをかけてなんになるんや。あほんだらが。わいのドスがあんさんの血を吸うたところで、なんも喜びはせん。フケるんなら今や」
男があの時のガラス玉のような目で、低く吐いた。
亮はその時初めて、あのとき神田が叫ぼうとした言葉の意味を悟った。神田は、自分を生き延びさせるために刃を離さなかった。やっと誰かのために闘う時が来たのだ。いつも肝心なところで逃げてきた人生。今がすべてに決着をつける時だと、亮は思った。
下から救い上げるような一閃の煌きが走った。頬から熱いものが滴り落ちる。次の瞬間、焼けた火箸を突き立てられたような衝撃が走った。腹にドスが喰い込んできた。男が口角を上げる。亮はにやりと笑い、左手で白刃を強く握った。男の目に怯えの色が走る。「て、てめえは、あん時の――」亮はドスをぐいと引いた。男が半歩近づく。その瞬間亮は、鍛え上げた右の貫手を放った。水平に並ぶ三本の指が、柔らかな標的に吸い込まれていった。怨念の血しぶきが腕を濡らしていく。
喉仏を破壊された男は、悲鳴を上げる間もなく、首をがくりと垂れ、ひざまずいた。
亮は腹を貫くドスを握ったまま、フロアに崩れ落ちた。
頬を濡らす熱い雫が、薄れかけた意識を呼び覚ました。すぐ上にエリカの目があった。
「ドスを抜いてくれ」
「だめ! 血が噴き出す」
「大丈夫だ――」亮は笑みを浮かべる。
腹筋が吸いついた刃が、やっと抜けた。晒がじわりと、温かいものを呑んでいく。
「待って、誰か呼んでくる」エリカが立ち上がろうとする。
「やめろ、早く行け! まだ間に合う」
亮は叫んだ。
震えるような寒気が襲ってきた。
小さなジャケットが体を覆った。懐かしい花の香り。エリカが悲しそうな目で見下ろしている。
「早く、行け……」亮は、渾身の力を振り絞った。
ドアへとかけていくエリカの脚が、視界から消えていった。
真っ暗な渦へと引きずり込まれる中で、神田の顔が浮かび上がった。
弟を見るような目が、涙の中で怒っている。
「バカヤロー! 死に急ぎやがって」
「先輩――」
意識が闇に覆われていく寸前、目の前を真っ白な空手着と、黒帯が舞った。
(了)
エリカとひとつ屋根に暮らして1年が経とうとしていた。
カレーライスを食べ終わり、テレビを見ている時だった。
「亮、私、今月で仕事終わる。だから、来月帰る。国へ」
エリカが、目に涙を浮かべ、ぼそりと言った。
「そうか! 今月で3年の契約が満期になるのか、良かったな」
亮は座りなおし、エリカを正面から見てその手を握ってやった。エリカの目が潤み大粒の涙が頬を伝った。亮はそっと手を離すと、そのしずくを拭ってやった。
「飯を作ってくれたのに、何もしてやれなかったな」
亮は、稼ぎのほとんどを、神田の母親に送金していた。
「少ないけど国の妹に何か土産を買ってやってくれ」
亮は、わずかな蓄えをバッグに押し込めてやった。
「亮、それはだめ! お金大切。家賃も、食料も、すべて出してもらった。それで十分――」
「心配するな。おまえのお陰で、初めて人間らしい時を過ごせた。ところで国に帰る手はずはきちんとついているのか?」
亮は、この世界の女が騙されて転売され、最後は薬漬けで闇に沈んでいく姿を何人も見てきた。
「亮、ありがとう。心配してくれて。でも大丈夫、店のマスター信用できる」
エリカが、深い眼差しで亮を見つめ、続けた。
「私も心配してる、亮のこと。私、亮の仕事わからない。でも、血のにおいがする……」
亮は一瞬目を逸らしたが、再びエリカの目を見た。
「俺は大丈夫だ。ここから先、もう落ちていくところはない」
そしてその日がやってきた。
エリカの話では、早めに店の仕事を切り上げ、十二時に風林会館のわきで待つ組織の車に乗り込み、成田で一夜を明かしてから朝一番のマニラ行きに乗る手はずだという。
亮は最後に、もう二度と日本には来るなよと言ってエリカを送り出した。
午後11時半、二本目の仕事が飛び込んできた。
「葵セキュリティサービスです」
ジローが電話に出た。その横顔に緊張が走るのがわかった。
「わかりました。5分で行けると思います」
「亮さん、ちょっとヤバイッす。関西系の筋者です。五人のうち一人はドスを呑んでるようです。今日だけはおれのサバイバルナイフを――」
「それでどこなんだよ、場所は?」
亮はジローの話しを遮るようにして鋭い視線を向けた。
「あ、すんません! クラブ・地中海です」
「えっ――、わかった」
亮は頭の中が真っ白になった。エリカの店だ。亮は初めて、腹に晒を巻いた。ドスが相手のときは血止めになると、昔神田が教えてくれた。
亮は外に飛び出し、スズキGT250のエンジンをスタートさせた。
すぐにマシンと一体になり、夜の新宿を疾走する。
亮の頭には二つのことが占めていた。もし無事に終われば、これを最後に足を洗おうと。もう一つは、失敗すれば、自分もエリカも歌舞伎町の藻屑と消えるだろう……。
コマ劇の裏に回ったところで、バイクのエンジンを切った。
亮は、クラブ・地中海の豪奢なドアを蹴破った。中は修羅場と化していた。
マスターはすでに床の血溜りに沈んでいる。カウンターの女が中で二人の男に襲われていた。ズボンを脱がされた中年の客たちが壁際に整列し、スキンヘッドの男が財布を集めている。外人ホステスたちはフロアの隅に押し込まれ、木刀で威嚇されている。転売商品にするためか、手出しはしていない。
その中に目を丸くして亮を見詰めるエリカがいた。亮は目でうなずくと、最初にスキンヘッドのみぞおちに足刀(そくとう)をぶち込んだ。次に木刀男に駆け寄り、いきなり飛び二段蹴りを顔面に炸裂させる。反転着地し、よろよろと立ち上がったスキンヘッドの頭部に止めの回し蹴りを決める。カウンターから、ズボンを引き上げながら二人の男が飛び出してきた。戦場で肉欲に目が眩んだ者は、すでに敵ではなかった。
だが、もう一人足りない。腰を落とし、身構えた時だった。
「おんどれ! 舐めたまねしよってからに」
右手に長ドスを握った男が、ステージの陰から現れた。あばた顔。吊り上がった目。だらりと下がった長ドスが、鈍い光を放っている。亮は思わず後退さった。情けない過去がフラッシュバックし、全身が凍りついた。その時だった。一瞬エリカと目が合った。地獄を覗くような目の奥に、故郷に帰りたいという光がのぞく。
男がじわりと間合いを詰めてきた。自分を忘れているようだ。
「堅気崩れが、極道にジギリをかけてなんになるんや。あほんだらが。わいのドスがあんさんの血を吸うたところで、なんも喜びはせん。フケるんなら今や」
男があの時のガラス玉のような目で、低く吐いた。
亮はその時初めて、あのとき神田が叫ぼうとした言葉の意味を悟った。神田は、自分を生き延びさせるために刃を離さなかった。やっと誰かのために闘う時が来たのだ。いつも肝心なところで逃げてきた人生。今がすべてに決着をつける時だと、亮は思った。
下から救い上げるような一閃の煌きが走った。頬から熱いものが滴り落ちる。次の瞬間、焼けた火箸を突き立てられたような衝撃が走った。腹にドスが喰い込んできた。男が口角を上げる。亮はにやりと笑い、左手で白刃を強く握った。男の目に怯えの色が走る。「て、てめえは、あん時の――」亮はドスをぐいと引いた。男が半歩近づく。その瞬間亮は、鍛え上げた右の貫手を放った。水平に並ぶ三本の指が、柔らかな標的に吸い込まれていった。怨念の血しぶきが腕を濡らしていく。
喉仏を破壊された男は、悲鳴を上げる間もなく、首をがくりと垂れ、ひざまずいた。
亮は腹を貫くドスを握ったまま、フロアに崩れ落ちた。
頬を濡らす熱い雫が、薄れかけた意識を呼び覚ました。すぐ上にエリカの目があった。
「ドスを抜いてくれ」
「だめ! 血が噴き出す」
「大丈夫だ――」亮は笑みを浮かべる。
腹筋が吸いついた刃が、やっと抜けた。晒がじわりと、温かいものを呑んでいく。
「待って、誰か呼んでくる」エリカが立ち上がろうとする。
「やめろ、早く行け! まだ間に合う」
亮は叫んだ。
震えるような寒気が襲ってきた。
小さなジャケットが体を覆った。懐かしい花の香り。エリカが悲しそうな目で見下ろしている。
「早く、行け……」亮は、渾身の力を振り絞った。
ドアへとかけていくエリカの脚が、視界から消えていった。
真っ暗な渦へと引きずり込まれる中で、神田の顔が浮かび上がった。
弟を見るような目が、涙の中で怒っている。
「バカヤロー! 死に急ぎやがって」
「先輩――」
意識が闇に覆われていく寸前、目の前を真っ白な空手着と、黒帯が舞った。
(了)