第5話 地獄のしのぎ

文字数 2,525文字



 執行猶予がついたとはいえ、前科者がありつける仕事は限られていた。
 亮は深夜の道路工事や下水道の清掃などの仕事をしながら、ドブの臭いが立ち込めるアパートで、その日その日を縫うように暮らしていた。人間は希望が無くても、食料があれば、動物として生きていくことだけはできるようだ。ただ生きるだけの、最低の日々が続いていた。
 ある日、無力感にさいなまれ、重い足取りで家路についていた時だった。
 黒文字が並ぶ大きな看板に浮かぶ、「空手」の二文字に目が吸いよせられた。脳裏で何かが弾けた。さまよえる魂は、救いを求めるように、格闘技道場の門を叩いた。
 そこは大学の空手部とはまるで違っていた。鉄骨が剥き出しの薄暗い空間に、汗と皮の臭いが充満している。背丈ほどもある黒革のサンドバッグが下がる奥には、太い鉄柱で組まれたリングがある。様々な風貌の練習生たちが、修行僧のようにサンドバックを軋ませている。街のスポーツジムとは明らかに違う。地下格闘技や用心棒をシノギとする男たちの、実戦鍛錬の場のように見えた。
 日々の稼ぎのわずかな余裕を注ぎ込み、亮は再び格闘の汗を流すようになった。目的や目標がなくても、サンドバッグの重い衝撃を拳で受ける度に、心が癒された。
 亮はここで暴走族上がりのジローと知り合い、空手の腕で高給を稼ぎ出せる、夢のような仕事にありついた。孤独な生き方に、限界を感じていたことは確かだった。自分は仲間が欲しかったのかもしれない。たとえそれが善悪を超えたものであっても……。
「葵セキュリティサービス」は、ネオン街の治安を守る警備会社となっており、公安委員会の認定も取っている。だがそれは表向きで、お客は歌舞伎町一帯の闇世界につながる歓楽街だ。
 仕事の内容は、組織の傘下にあるクラブや風俗店で客が暴れ出したり、外人グループに店ごと襲われたときなど、一刻を争い駆けつけ制圧するのが役目だ。
 だが、裏で仕切っている組織の全貌は何一つ知らされていない。明確なことはただ一つ、失敗は許されない。それは死を意味する。誰も知らない闇の仕事だ。堕ちるだけ堕ちても、それを悔やむ余裕は亮にはなかった。
 午後七時、亮は愛車のスズキGT250のエンジンをスタートさせた。いつ聴いても爽快なエンジン音だ。当時はすでに生産が打ち切られた2ストロークエンジンを積んでいる。吹き上がりが良く、瞬発力はナナハンを優に超える。都内のバイク便に使用していたものを友達から譲り受けたものだ。車の間を縫って走行できるよう、ハンドルは一文字に改造されている。
 新宿一丁目の雑居ビル二階にある事務所に向かった。
「葵セキュリティサービスです」
 今日、最初の電話が鳴った。ジローがいつものように抑揚の無い口ぶりで応対している。
「わかりました。二人ですね。一人は蛮刀を振り回している。5分で着くと思います」
 ジローは眉を剃り落とした目をこちらに向けた。
「アジア系が二人、女を返せと店のフロントで暴れてるようです。ソープランド・姫です。亮さん、おれのサバイバルナイフ貸しますよ――」
「ああ、親切だけはもらっておく――」
 銃刀法違反で捕まれば、組織に迷惑を及ぼす。もちろん明日から職はない。亮はジローの口癖を右から左に流しながら外に飛び出した。
 その仕事は意外と簡単にけりが着いた。確かに一人は研ぎ澄まされた蛮刀を持っていたが、ひょろりとした二人は亮が一喝しただけでそれを放り出し逃げていった。おおかた海を渡って一緒に来た女友達が歌舞伎町という巨大な蜘蛛の巣に引っかかり、欲望の餌食となってしまったのだろう。

 午前四時、事務所を出る。ビルの谷間が、うっすらと明るくなり始めた。二人は、早朝の食堂を探しながら、嘘のように静まり返った繁華街を歩いた。
「先輩、今日も色々ありあましたね。何であんな馬鹿をやるのか、歳は取りたくないっすね」 
 今日は凶暴な筋者より手強い事件があった。中年のサラリーマンが、惚れたキャバクラ嬢をトイレに監禁し、一緒に死ぬといい出したのだ。男は出刃を隠し持って入店しており、本当に殺る恐れがあった。警察を呼べば、店の違法営業がばれる。亮の出番だった。
 元々堅気の亮は、中年男の悲哀をよく理解している。ドアの外から、語りかけるような説得で、ついには出刃を取り上げた。
「俺たちもヤバい仕事に手を染めてるが、エリートの世界も裏を返せば、ああいうバカの集まりさ」
「先輩は色んな世界を知っていて尊敬しちゃうよ。俺なんか、中学もろくに行かないで、人の残りものを拾って生きてきた……」
「いいじゃないか。今はそこそこの金も稼げるし、何かの役には立っている」
 その時だった。見るからに未成年の愚連隊風が二人を取り囲んだ。

「金さえ出せばそれでいいんだ。大人しく全部置いてきな」

 プロを相手に、無謀な人間がいるものだ。だが相手は10人以上。数人が、腹に巻いていた黒光りする得物を取り出した。バイクのチェーンだ。まだあんなものを振り回すヤツがいたのか。意外と手強いかもしれない。
「先輩、ここは逃げましょう。こんなガキ相手にしても何の得にもなりません」
 ジローが、逃げる態勢を取り始めた。
 一人が、チェーンを振りかざし挑みかかってきた。
 ヤツらの隊列が乱れた。
「先輩、今です。チェーンのわきを蹴散らせば駅方向に逃げられます」
 だがなぜか、亮の足は動かなかった。
 チェーンの一撃をスイングでかわした。そのまま、回し蹴りを腹に叩き込む。男はつんのめり、胃の内容物を吐き出した。路上にすっぱいものが立ち込める。
 その時、背中にずしんという激痛が走った。巻きついたチェーンを握り、振り向きざま裏拳を顔面に叩き込む。白い欠片が、血糊を引いて飛んで行った。
 なぜか、ヤツらが一斉に逃げ始めた。
「先輩、ヤバいっす。パトカーです」
 二人は、ヤツらの反対方向に逃げた。
「先輩、なんであんなヤツらにかかわろうとしたんですか?」
 ジローが息を切らせながら、亮を見つめた。
 亮はハッとした。あの時、もしかしたら神田も、後輩の自分がそこにいたから、逃げなかったのかもしれない。黒御影の中から神田が言った言葉が、今わかったような気がした。

 
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