第6話 サンパギータの香り

文字数 3,366文字



 新宿コマ劇の裏に亮がよく行くラーメン屋があった。南米やアジア系の客が多い店だった。面が割れることを恐れるヤバい仕事には都合が良かった。
 宵の初めから事件が飛び込み、亮は夕飯を食いっぱぐれた。途中で腹が減り、行きつけのラーメン屋に向かった。
 店の前で、クラブ勤めと思われる衣装の女が、五、六人の男たちに囲まれている。よくある風景だ。二人の男が、女を抱えるようにして、路上駐車の車へと引きずり始めた。
「助けてください!」
 やっと覚えたような日本語が、亮の耳に突き刺さる。
 一瞬の逡巡。亮は行動に出た。
「おお、マリアじゃねぇか。勝手に花売ってると、組のもんがだまっちゃいねぇーぞ。あほんだらが」
 通行人が足を止め始めた。男たちは顔を見合わせると、女を路上に放り出し、車を走らせた。
 店に入り、カウンターの端のいつもの席に座る。ラーメンを大盛りで注文した。マスターは顔見知りだが、「毎度どうも」とは言わない。歌舞伎町で10年も店を張っていれば、情は通っても、それ以上は踏み込まない。歌舞伎町とは、そういうところだ。
「いらっしゃい!」
 マスターが入り口に向かって、威勢のいい声を上げる。
 まだ顔に恐怖の色を残して入ってきた女は、とっさに名前をつけたマリアだった。彼女は、おずおずとした態度で、亮のスツールに近づいてきた。
「さっきはありがとう。私もラーメン食べに来た。ここに座ってもいいか」
 女が亮の目を見ると、ためらいながら訊いてきた。くりくりとした目が可愛い、フィリピン人だった。
 亮は無言で、あごを小さく動かした。
「マスター、ラーメンください」
 マリアが、マスターに小さな笑顔を向けた。マリアも常連のようだ。マリアが、亮の横顔に話しかけてきた。
「私、マリア違う。エリカ。でも、それで助かった。本当にありがとう。私わからない。花を売るって?」
 洗い物をしていたマスターが、ちらりとこちらを見た。
 亮は、初めて口を開いた。
「そんなことは知らなくていい……」
 隠語の意味を知らないまま、その世界に棲む女に、亮は哀しい同類のにおいを覚えた。
「へい、おまちどー」
 湯気を上げるラーメンが二人分、同時にカウンターに載せられた。
 亮が気を許すことができる、たった一つのひと時だ。隣からも、エリカが無心にラーメンをすする音が聞こえてくる。いつも一人で味わうスープの温かみに、今日は人間の温もりが加わった。久々に、潤いのある時を過ごした。
 エリカが、水を一口飲み、嬉しそうに口を開いた。
「いつも一人、でも、今日は二人。ラーメン、とても美味しかった」
 マスターが、二人のどんぶりが空になったのを見て、口を開いた。
「今日は、おひとり分サービスします」
 亮は、怪訝な表情を返した。
「あの連中には困ってました。もう来ないでしょう」
 マスターは、店先の騒動に気づいていたのだろうか。
「それじゃ遠慮なく」
 亮は、一人分の小銭をカウンターに載せた。
「ちょっと待って、私も払う」
 エリカがハンドバッグに手をかけた。
 亮は首を横に振り、店を後にした。

 それから、エリカとそのラーメン屋で偶然会うことが重なった。
 エリカは助けてもらったことがよほど嬉しかったのか、無防備な笑顔を見せた。いつか二人は肩を並べ、ラーメンをすする仲になった。フィリピン嬢は単独で行動することはないのだが、なぜかエリカはいつも一人だった。吸い込まれるような黒い瞳にドキリとすることはあったが、お互いに、それ以上のところに足を踏み込むことはなかった。
 半年ほど経ったころ、ラーメンを食べ終わったエリカが、亮の目を真っ直ぐ見ながら言った。
「私、亮と一緒に暮らしてもいいか? 私のアパート、大家とても気持ち悪い……。私、行くところない。迷惑、絶対にかけない」
 亮は一瞬戸惑った。だが事情は手に取るほどよくわかる。場末のアパートに訳アリの女だけを集め、警察に届けることができないと見るや、夜中に入り込むような騒動は、掃いて捨てるほどあった。
 だが通常は、外人売春婦は闇の組織が絡み、宿舎は逃げられないように監視されている。
「居場所変えること、あんたの雇い主は大丈夫なのか?」
「大丈夫、パスポート、マスターに預けてある。マスター、逃げられないこと知っている。私も逃げない。契約、大切。信頼関係」
 エリカが悪戯っぽい目を向けた。
 亮は、エリカの瞳の奥にあるものをじっと確かめ、首を縦に振った。
 次の週、エリカは大きなバッグを一つ携えて、亮のアパートに引っ越してきた。
「ごめんね、このご恩、決して忘れない。家賃、半分半分でいいか?」
「それは心配するな。奥の部屋を使っていい。俺も夜の仕事だ。睡眠だけは邪魔しないでくれれば、それでいい」
「わかった。約束する。私、リビングで寝る方がいいと思う。キッチン近い。食事作る時、邪魔にならない」 
「そうか、それもそうだな。でも、三度の食事など、俺には不要だ」
 正直なところ亮は、フイリピン料理は脂っこくて、口には合わなかった。
 エリカは片言の日本語を話すので、二人の奇妙な同棲生活はたいした不都合もなく過ぎていった。
 エリカは外人女ばかり集めたミニクラブのようなところで働いている。もちろんクラブは表向きで、外人女を好む日本人向けの売春宿のようなものだ。だが、体を売る淫靡な世界に棲むエリカは、心にはびっくりするほどの繊細さを持っていた。
 いつだったか一枚の写真を見せてくれた。十四、五歳に見える男女と小女が二人、それに歳をとった女が写っていた。
 亮は写真の目を見て、若い女がエリカだとわかった。隣の男が兄なのか弟なのか訊いてみた。
「これ、兄妹、違う。私の、恋人」
 恥ずかしそうにエリカが言った。そして続けた。
「お父さん、病気で死んでしまった。私、小さい時」
 エリカはリビングの隅で、時々この写真を大きなバッグの底から引っ張り出してきては、眺めていた。
 亮は、写真の向こうであどけない笑顔を見せる女が、毎晩男たちに弄ばれ、その報酬で家族を養い、恋人に新しいジーンズ贈る姿に、自分にはない人間の本当の逞しさを見た。
 意外なことに、エリカの作る料理は日本人の口に合うものだった。特に、豚の角切りが入るカレーライスは、プロ並みに美味しかった。食後は決まって、エリカはコーヒーを入れてくれた。
 ある日、二人は食後のコーヒーを味わっていた。
 異国の風貌を見せるエリカの褐色の皮膚はきめが細かい。コーヒーの香りに乗せて、鼻腔をくすぐるような南国の花の匂いを漂わせている。エリカが懐かしそうに、故郷の国のことを話し出した。
「私の故郷、フィリピンのセブ島。綺麗な花がある。サンパギータ、知ってるか?」
 亮は無言で、首を横に振った。エリカが続ける。
「フィリピンの国花。緑の葉、真っ白な花。永遠の愛という意味がある」
 亮は見たことのない南国の話などを聞きながら、その夜は久々に心地よい夢を見て、眠りについた。

 エリカがアパートに転がり込んできて、二ヶ月ほどが経った時だった。
 部屋の隅でひたすら指立て伏せに汗を流す亮に、エリカがぽつりと言った。
「亮、私をなぜ抱かない? 私のこと汚いと思ってるのか?」
 亮はドキリとしてエリカを見返した。欲望のかけらもない目がこちらを見ている。
「おまえはなにも汚れちゃいない。けどな、おれにはそんな心配は無用だ」
「故郷にいい人いる。だから女に手を出さない。彼女、幸せな人ね」
 エリカが悪戯っぽく微笑んだ。
 亮は、低く言葉を並べた。
「おれの前で、二度とその話はするな……」
「何か気に障ること、私、亮に言ってしまった。ごめんなさい」
 エリカが、泣きそうな顔をして床に手をついた。
「そんなに誤ることはない。つまらない記憶だ……」
 亮は寂しい笑顔を作った。
「私、亮と友達。信じたから、ここに来た。でも、亮と暮らしているうちに、私……」
「それ以上言うな。日本には、泥中の蓮という言葉がある。蓮は泥の中でこそ綺麗な花を咲かせる。糧を得るために身を売ることは尊いことだ。だが、心が一線を越えれば、その先にあるものはけもの道だ。サンパギータのように生きることだ」
「亮の言うこと、難しくて分からない。でもサンパギータ、よく分る。父もよく言っていた。ありがとう……」
      
 
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