第4話 解けた封印

文字数 1,991文字



 亮は、専務の総川に可愛がられ、着実に業績を伸ばしていった。読書が趣味だと言う華奢な体つきの総川は、その風体にはそぐわない大酒呑みだった。物腰や体つきがなんとなく頼りになるのか、亮をよく酒のお供に連れ出した。
 上半期の売り上げ目標が達成され、打ち上げの飲み会が催された。酒を飲まない社長は、機嫌よく一足先に帰って行った。二次会は総川が仕切り、新宿駅前の飲食街に繰り出した。
 小奇麗な居酒屋で終電近くまで飲み、お開きにしようと皆が立ち上がり始めた時だった。総川が、笑みを浮かべ近づいてきた。
「杉山君、もう一軒どうだい。今夜は私の驕りだ」
 量販店に押され気味の中で、今回の打ち上げはよほど嬉しかったに違いない。亮にしても、過去のどす黒い記憶は、今は昔のこととなっていた。
 二人は歌舞伎町に出た。総川は、学生時代は顔だったなどと言いながら、ネオンの瞬きに目を走らせている。メイン通りの脇にふと目を引くスタンド看板が明かりを灯している。総川も気に留めたようだ。ふと、嫌な予感がよぎった。
 すでに総川は、地下へと続く薄暗い階段を降りている。総川は、目を少年のように輝かせ、もつれる足で「ドルフィン」と刻まれたメタルプレートが光る堅固な木のドアを開けた。
「いらっしゃい――」 
 そこだけに地上の灯りが落ちたようなカウンターの中に、リーゼントの男と目の周りを真っ黒にメイクした女がおり、男が二人に一瞥をくれると、どうでもいいような声を投げた。
 ここは常連で成り立っている店なのだろう。10席ほどあるカウンターは半分以上が同じようなブラックファッションの男たちで占められている。薄暗い壁際のボックスでは、モヒカンの男が真っ赤なミニスカートの女の腰に手を回している。
 亮は、場違いなところに入り込んだと思ったが、この穴倉に漂う特殊な波長を察知することができない総川は、「よぉー飲んでるかい!」などとカウンターの連中に声をかけながら、彼らの隣に腰を落とした。亮もそのわきにかけた。隣のピアスをした男の前には、どこかアジアの国を思わせるビール瓶が置いてある。
 総川は、「同じものを」と、瓶を指差しながら注文した。グラスが二つと栓が開けられたビールが、無言で女からカウンターに差し出された。
 変わった味のビールだった。総川は相当酔っているのか、腹に響く重低音のミュージックに、頭を揺らしている。
 ほどなくして、心配は現実のものとなった。
「おぉ兄弟!」といいながら総川が男の肩に手をかけ、彼のグラスにビールを注ごうとした時だった。

「よせ! いちゃつくんじゃねぇー」

 ピアス男がその手を大袈裟に払った。
 バランスを失った総川はスローモーションのように背後、そう、モヒカンが女を抱いているボックスの方へとひっくり返っていった。カウンターの誰もがその動きに目を見張った。亮も一瞬息を呑んだ。
 総川の右手に握られたビール瓶から吐き出された冷たい液体が、計算されたようにモヒカンの頭部を直撃した。
「な、なんだ、このヤロー!」
 ミニスカ女の胸に手を入れていたモヒカンが、バネ仕掛けのように立ち上がった。よろよろと起き上がろうとした総川の横っ面に、まるでサンドバックで戯れるように拳を叩き込んだ。専務の頭部が背中を向くほどに回転し、眼鏡がカウンターの中に飛んでいった。
 ボックスの中で、ミニスカ女が脚をばたつかせ、もっとやれと手を叩いている。
「専務! 大丈夫ですか?」
 亮はすぐに、ボックスとスツールの間で意識を失っている総川を抱き起こそうとした。その時だった。

「こらぁ! 外に出ろ!」

 女に煽られたモヒカンは、無防備な亮の背中をブーツの靴底でドカッと踏みつけてきた。背後でモヒカンの喉の奥から絞り出すような声がして、首筋に生暖かいものが滴った。
 それだけならまだ耐えられたはずだ。
「ここはおめぇーらのようなチキン野郎がくるところじゃねぇーんだよ」
 再び酒臭いぬめりが後頭部を濡らす。
 戒めの鎖が、音もなくはじけ飛んだ。
 モヒカンを左目の端で捉え、ゆっくりと立ち上がる。流れるように左足を押し出し、そのまま腰の回転に乗せた右正拳をモヒカンの顔面に炸裂させた。嫌な感触が拳に残った。見ると、白い欠片が二つ、拳に刺さっていた。
 ミニスカ女が、呻きながら血の床を這うモヒカンを、茫然と見下ろしている。
 カウンターの女が、電話の受話器を取るのが、目の端に見えた。
 亮は、封印したはずの空手が、いつの間にかより巨大な暴力と化し、自らを支配し始めたことに戦慄を覚えた。

 亮は傷害罪現行犯で逮捕され、起訴された。頚椎損傷の重傷を負った総川の証言と、社長が依頼してくれた腕利きの弁護士の力で、実刑だけは免れた。回復に向かった総川は引き留めてくれたが、亮は自らヒロセ電器店を去った。善良な家庭をお客とする業界が最も嫌うのは、暴力だった。

 
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