第1話 紙一重の危険

文字数 4,989文字

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 居酒屋の暖簾を押し分け、一歩外に出た。
 冷たい風が頬をなぜていく。
「ダンシングオールナイト」の掠れた声が、ほろ酔いの脳裏に心地よく響く。歌舞伎町の街は、暮れの雑踏で溢れ、おびただしいネオンに埋め尽くされていた。
 今日は大学の学園祭で、空手部の演武会が成功裏に終わり、その打ち上げで新宿に繰り出していた。東北の地方都市から出てきた亮(りょう)は、なぜかこの街が好きだった。故郷を逃げるようにしてきた自分も、ここでは振り返る人もいない。
 二次会が終わり、ここで解散となった。
「おい杉山、もう一軒いってみようか」
「押忍(おっす)!」
 副主将の亮は、主将の神田に快くこたえた。
 神田は、長い髪をからっ風になびかせている。演武の最後を飾る四方破りが綺麗に決まり、機嫌がいいようだ。亮も、得意とする貫手試割りが一撃で決まり、心が浮き立っていた。
 貫手とは、爪と一体になるほどに鍛え上げた指先で急所を攻撃する技で、演武では細紐で吊るした試割り板を真っ二つにする。ここまで来るには、人知れず鍛錬を重ねてきた。毎日100回の、腕立てではなく指立て伏せを行う。五本の指でも相当きついが、貫手に使う中三本でできるまでには、1年近くかかった。
 ここまで空手に心血を注いできたのには、理由があった。
 亮は、酒屋の次男として育った。体格は人並みだが気が弱く、中学三年の時には、不良下級生に取り囲まれ小遣いをせびられる始末だった。少しでも強くなりたいと高校では柔道部に入った。格闘の基本を学び、少しは自信がついた。だが、夜道を彼女の家に送って行く途中、街の不良に取り囲まれた。男の手先で揺れる冷たい光に足がすくみ、彼女が車に引きずり込まれるのを茫然と見ているしかなかった。彼女は山中で解放されたが、その後自ら命を絶った。腰抜けのレッテルを貼られ、地元には残れず、武道で有名な東京の大学に入学した。
 迷わずに空手部の門を叩く。主将の神田は、高校で初段黒帯を取っており、全国大会でもトップクラスの空手家だ。それから三年近く、弟のように接してくれる神田を師と仰ぎ、血のにじむような修行に明け暮れ、この秋に黒帯を取ることができた。
 二人は靖国通りから区役所通りに出て、花園神社へと抜ける道に入った。ちょうど車の往来が途絶えた時だった。
 亮はうっかり、向かい側の歩道を歩く黒い集団の一人と目が合った。嫌な予感がした。
 歌舞伎町は愚連隊も多く、むやみに視線を向けるのは危険だ。
「誰にガン飛ばしてんだよ!」と、喧嘩を売ってくることも珍しくはない。だが、その度に喧嘩を買っていれば、命がいくつあっても足りない。道場訓その五「血気の勇を戒むること」早々にこの場を離れなければならない、と思った時だった。

 やはり、きた――。

 五つの黒い陰が、向こうから、ばらばらっと飛び出してきた。
 神田はまっすぐ前を見て歩いている。目の端でとらえているに違いない。亮も、この場を逃れようと、神田の後に続いた。
 男たちが、二人の前に立ちふさがった。
 全員がその獣のような体躯をスェットの上下で覆っている。相手は五人、こちらは二人。なめ切って喧嘩を売るつもりなのか。あるいは、空手家が放出する波動がどこかで暴力の匂いと重なり、それを売り物にする連中の闘争心に火をつけたのかもしれない。
「おんどりゃあ! わしらをなめとんのか、こらぁ」
 吊り目で浅黒いあばた顔の男が、あごを突き出すようにして前を行く神田に詰め寄った。ゆるいスェットの首から刺青が覗いている。肩がいかつい割には体全体に力みがない。かなり喧嘩慣れしている。
 二手に分かれれば、狂気の鎖を突破することは可能に思えた。亮は神田から離れた。後で合流する作戦を描いていた。だが、神田に回避の気配は見られない。まさか乱闘に雪崩れ込むとは思わなかったが、念のため、腕時計を外した。と、その時。

 神田は、予想外の行動に出た。

「なんだ、俺たちになにか文句があるのか」
 神田は恐れることもなく、吊り目の男を見下ろすように険のある視線を投げた。
「若造が、でかい面しよってからに――」
 次の瞬間、吊り目がノーモーションで左ストレートを放った。それはボクサーの動きを彷彿とさせた。だが残像を残しそれをかわした神田は、カウンターの左正拳突きをスキンヘッドのこめかみに炸裂させた。骨が骨を打つ鈍い音が響いた。一瞬のできごとだった。
 せめて吊り目が何らかの動きを見せれば、こういう展開にはならなかったはずだ。立ち止まる余裕もなく、一線を越えてしまった。
「バカヤロー! おれを誰だと思ってるんだ」
 神田の左正拳は腰に戻っている。頭蓋を突き抜ける衝撃で一瞬意識が飛んだスキンヘッドは、前のめりの恰好でその場に崩れ落ちた。
 相手の拳が速ければ速いほど、空手が反応するスピードは意識を超える。それは先手を許されない空手の宿命ともいえた。封印された空手の極意、まさに後の先(ごのせん)だった。もう後戻りはできない。亮は一瞬で、路上にさらされる自分の命を意識した。
 他の四人が一瞬たじろいだように見えた。だが、殺気はさらに異様な色を帯び始めた。誰か一人でも刃物をかざしていれば、神田を促して、逃げるという選択肢もあったろう。
「あほんだらが。いてまうぞ、われ!」
 暴力を生業とする裏世界の男たちに、退散という二文字はない。
 だがいくら喧嘩のプロであろうと、丸腰で空手黒帯を倒すのは容易ではない。空手は前後左右に瞬間移動が可能だ。そこから繰り出す蹴りという、拳の七倍の威力を持つ武器がある。まさに凶器だ。
「一人も殺すなよ! 殺しちゃヤバイ。こいつらトーシロじゃない」
 神田の目に、これまで見たことのない緊張と焦燥の色が走っている。彼らのバックにある闇を察知したに違いない。
「押忍!」
 初めて遭遇した本物の暴力に、亮も全身に戦慄を覚えた。
 彼らは確かに喧嘩慣れしていて強かった。だが、研ぎ澄まされた空手の上段突きは、彼らの振り回す拳やガードをすり抜け、顔面の急所を正確にとらえていった。鼻骨が潰れる者、前歯を折る者、股間にめり込んだ蹴りで路上を転げ回る者、あっというまに四人はもがき苦しむ肉塊と化した。
「おい、行くぞ!」
 神田が服装を正しながら歩き出した。亮は振り返った。吊り目の男が、ゆらりと立ち上がる姿が目に入った。亮は急いで神田のあとを追った。パトカーのサイレン音が聞こえてきた。向こうから走ってきた警察官とすれ違う。二人は歩を速めた。
「おい、どこかに身を隠すぞ!」
 神田がそういうと、わきの路地に入った。猥雑な看板やネオンが闇の向こうに呑まれている。神田は、三件目のスナックのドアを開けた。左に15席ほどの長いカウンターが奥に伸びている。
「いらっしゃい!」
 髪の長い女が、愛想のいい声を上げた。
 中ほどに、空いたスツールが二つほど見える。神田は奥のほうに、亮はそのわきにかけた。店内は、語り合うサラリーマンや一人客もおり、常連で成り立っているように見えた。
 亮と同じようなスポーツカットのマスターが、小さな笑みを作り、ご注文はと声をかけてきた。神田は何もなかったように笑みを浮かべ、ビールを注文した。亮は強張った体をほぐしながら、同じものを、と言った。
 神田は江戸っ子のマスターと気が合うらしく、世間話に興じながらいつのまにかオンザロックを舐めていた。亮も一本目を空けるころは少し落ち着き、二本目のビールを注文しようとした。その時だった。

 ドアが静かに開き、黒っぽい陰が滑り込んできた。
 
「いらっしゃっ――」
 来客にかけた女の笑顔が凍りついた。
 亮の左目の端がその訳をとらえた。吊り目の男の右手に下がる長ドスが鈍い光を放っている。いつか見た光景だ。亮は思わず、固唾を飲んだ。
 カウンターの端から舐め回してきた吊り目の男の視線が亮のところで止まった。神田は相変わらず盛り上がる話に腹を抱えている。
 亮は神田の肘をつつきながら静かに立ち上がった。吊り目の男がじわりと歩を進める。その時、やっと女の悲鳴が上がった。カウンターの賑わいが潮が引くように止んだ。
 亮は奥へと後退さった。
 神田がスツールを蹴り、攻撃態勢に入ろうとしたが、遅かった。振り降ろされた白刃が、神田の鎖骨に喰い込む嫌な音が響いた。
 亮の闘争心は刃の不気味な光りに破壊され、戦意は完全に喪失していた。
 神田は勇猛に闘った。左手で白刃をつかみ、右の拳を吊り目の顔面に叩き込む。だが、首から夥しい血が噴き出す神田の牙は、すでに、折れていた。
 刃を握った神田の口が歪み、何かを叫ぼうとしている。助けようとするが、もぬけの殻のようになった体が言うことを聞かない。空手の貫手など、何の役にも立たなかった。
 神田が、刃物ごとカウンターにねじ伏せられた。血溜まりが見る見る左右に広がっていく。亮が震える脚で、それでも助けに入ろうとした時だった。返り血でぬめるあばた顔が振り向いた。ガラス玉のような目が亮を見据える。足が磁石のように床に吸いつけられ、動かなかった。
 亮は、断末魔の叫びを押し殺している神田の脇を、他の客に押されるように、店の外へと逃れ出た。
 白刃を握り締めた血濡れの手が、まぶたの裏に焼きついた。
 すぐに吊り目の男が飛び出してきた。長ドスから血が滴っている。「闘え!」と言う声が脳裏に響く。だが、どうしても、足が前に出なかった。黒い大きなセダンが近づいてきた。後部ドアが開く。吊り目の男が転がり込むように車内に消えた。セダンは重厚な排気音を残し、闇の中に消えていった。これも、いつか見た光景だ。自分は最後の最後まで、最低の男だった。
 現場検証で、神田と亮のどちらが入り口側に掛けていたかを訊かれた。亮は咄嗟に神田だと答えた。一瞬、カウンターの女の目が動いたように見えた。マスターはグラスを拭きながら、ボトルが並ぶバックバーの方に目をやった。
「神田さんが犯人と向かい合ったところ、突然切りつけられた。そういうことですね」
 年嵩の刑事が、上目遣いで亮を見た。
「あなたは何度も切りつけられている神田さんの脇を擦り抜けるようにして店外に逃げたと――」
「返り血を浴びた犯人の形相を見て頭の中が真っ白になり、気がついたときは外に……」
 亮は最後まで、自分は先輩を見捨てて逃げたことを認めなかった。女もマスターも、もう亮の方は見ていなかった。
 
 翌日の新聞にこの事件は大きく取り上げられた。
「昨夜、新宿歌舞伎町の路上で愚連隊風の男5人と、都内の私立大学空手部の学生2人が口論になり乱闘。大学生Aが近くのスナックで男の一人が所持していた長い刃物で斬られ死亡。助かったBの証言によると男たちは関西弁を使っていたという。新宿署は刃物を持ち出した男を殺人の容疑で全国に指名手配した」
 亮は悩み苦しんだ。
「神田は自分の代わりに闘った。そして死んだ。おれはそれを見捨てた……」
 暴力に屈した自分の空手はいったい何だったのだろうか? 亮は己の非力を思い知った。空手部を去り、大学の寮の部屋に引きこもった。
 どこから聞きつけてきたのか、寮の玄関に、連日物々しい装備でメディアがやってきた。
 これ以上、大学や寮生に迷惑をかけるわけにはいかない。亮は退学届けを出した。
 マンションの裏の、どぶの匂いが立ち込める安アパートに移り、やっと心の安堵を得た。
 だが、不幸はそれでは終わらなかった。神田の父は教育者だった。就職も決まり、卒業間近の一人息子が、乱闘の末惨殺された。職場でも、相当追い詰められたに違いない。遺書もないまま自殺してしまった。
 一人になった母が二重のショックからか、精神的に異常をきたし、入院したという。何から何まで、最悪の結末となった。

 亮は冬枯れの古刹を訪ねた。墓前でひたすら掌を合わせる。
 黒御影の奥から、神田が浮かび上がった。
 亮は歯を食いしばり、合わせた手を震わせながら神田に詫びた。
「先輩、すみません!」
 だが、荒涼とした眼差しから出た言葉は、意外なものだった。
「俺が悪かった。許してくれ……」
「えっ、先輩、なぜですか?」
 神田は小さな笑みを浮かべ、無言のまま、石の中に消えていった。
 亮はその言葉を何回も、心の中で反芻した。納得することができないまま、寺を去った。

 
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