第3話 一瞬の油断

文字数 4,126文字



 三年目からは単独で動けるようになった。給料が高くなった分ノルマが増えた。
 退社の間際、総川が声をかけてきた。
「杉山君、コーヒーでも飲んでいかないか」 
 声は優しいが、何か言いたそうな雰囲気だ。
 亮が一口飲んだところで、総川が口を開いた。
「このままいくと、今月は店のノルマ達成が危うい。何でもいい。手っ取り早いのは白物だ。何か一台、大型の伝票を上げてもらえないか」
 日立特約店となっているヒロセ電器店は、月々の売上額がノルマとして課せられてくる。仕切り値がそこで決まり、店の盛衰がかかる。総川には何かと面倒を見てもらい、ここまでやってこられた。
「わかりました。何となるかもしれません」
 急に退社してしまった小杉の助手として冷蔵庫の修理に行った時の、水商売の女を思い出した。亮は、残りのコーヒーを飲み干した。
 翌朝、亮はすぐに分厚い「見込み客カード」に目を通した。
 女のカードがやっと出てきた。カードには、「冷蔵庫買い替えの見込みあり。ブラックリストチェックのこと」と書かれている。水商売関係者はブラックリスト該当者かどうか、メーカー筋のクレジット会社に問い合わせる規則となっている。だが今はそんなことを言っている場合ではない。この会社が拾ってくれなければ今の生活はなかった。亮は意を決した。
 最近は高層マンションが建ち始めたが、まだまだ古いアパートが立ち並ぶ住宅街へとバイクを走らせた。 
瀟洒な家々を抜け、その裏の隅のほうに、見覚えのあるアパートが見えてきた。ぎしぎしと音を立てる階段を二階へと上がる。文字がぼやける表札を確かめる。「山田順子」、あのときのままだ。順子は場末のクラブで働くホステスだった。ノックする。

「だぁーれ」

 ドアを半分ほど押し開き、グレーのジャージ姿の順子が、化粧のはがれた眠そうな顔を現した。そっと名刺を出す。
「ああ、電器屋さん。今ごろなんでくんのよー、なんの用?」
「あ、すみません急にお邪魔して。近くにきたものですから。その後、冷蔵庫の調子はどうなったかと思いまして――」
 順子が使っていた冷蔵庫は相当古く、おまけに小さかった。扉の周囲に取り付けられている白いゴム製のパッキンはカビで黒く汚れ、裏側に取り付けられているコンプレッサーは錆び付き、耳障りな振動音を発していた。修理で訪問したときは防振部品などを交換したのだが、そのとき順子は「もう少し大きな冷蔵庫が欲しいんだけどね」と、確かに言っていた。
「あの冷蔵庫、未だ使ってますよね?」
 亮は、腫れぼったい目をした順子の顔を上目遣いで窺うように尋ねた。
「まだ使ってるわよ。音がうるさいけど、頼んでも修理には来てくれないし」
 小杉が量販店に転職したことは知らないようだ。順子は亮のことを薄っすらと思い出したらしい。
 幾分和らいだ視線を足元から上のほうにさらりと移す。
「それで今日は何かあんの、いい話とか」
 順子のサンダルの足が、何かを押し隠したように見えた。
「どうでしょうか、新しいのに交換されたら。型落ちですが、お安くできるのが1台、店にあるんです。色は薄いグレーで、今お使いのものより一回り大きくなります。今回は特別お安くしますので」
「安くするたって、元々が高いもんでしょ。いったい、いくらすんのよ、それ」
「定価で九万九千円のものですが、先ずは下取りで端は切らせてもらいます。あとはご相談で……」
 亮は、わずかな会話の中で、順子の目が微妙に色めき立ってきたのを見逃さなかった。
 バッグから単品カタログを取り出し、目の前に差し出す。
「あー、これね。なかなかいいわね……」
 順子は、用紙の半分を占める、グレーに光る2ドア型冷蔵庫をまじまじと見詰めている。
「それじゃさー、明日持ってきてくれる」
 順子は、急に何かが閃いたように顔を上げた。
「えっ! 買っていただけるんですか?」
 亮はあまりにも早い展開に目を丸くした。たった30分で大型商品が売れた! と感じた瞬間だった。喜びで顔が綻びそうになるのを、手を揉みながら必死に堪えた。
「ありがとうございます! 明日午後一番にお持ちいたします」
 亮は腰を直角に折り曲げ、深々とお辞儀をした。顔を上げ、順子に感謝いっぱいの笑顔を向ける。
「そのかわり安くしてよー」
 順子も口元に笑みを浮かべながら、悪戯っぽい目で亮を見た。
 亮は、アパートの錆びた階段を降りながら、気持ちは逆に天にも昇る嬉しさでいっぱいだった。

 翌日、配達用トラックが午後一時きっかりにアパートの前に到着した。
 グレーに光る2ドア型冷蔵庫があっという間に順子の部屋のキッチンに収まった。
「明日、夕方五時に来てくれない。現金でお支払いするわ。出勤前だから遅れないでね」
 キッチンの端にすっぽりと収まった、そこだけに光が差しているような大きな冷蔵庫を満足げに眺めながら、順子は言った。
「かしこまりました」 
 亮は、順子の横顔に深々と頭を下げ、踵を返した。
 錆びた階段、ふと立ち止まる。サンダルの足、ブラックリスト、階段の揺れに重なるように不安が襲ってきた。だが、会社への恩返しができたという喜びが、つまらない詮索はやめろと背中を押す。
 亮は車のキーを回した。
 そして次の日。
「こんにちわ。ヒロセ電器店です」
 ぴったり五時に、亮は順子の部屋のドアをノックした。
「どぉーぞー、ドア開いてまぁーす」
 中から順子の、よそ行きのような声が響いてきた。
「失礼しまーす」
 亮は、真っ赤なハイヒール一足だけがきちっと揃えてある三和土(たたき)に少し違和感を持った。
 その横に自分の靴を並べ、キッチンの突き当たりのリビングへと進んだ。
 半開きのドアから一歩中に入った時だった。

 目に飛び込んできた異様な光景に思わず息を呑んだ。

 明らかに本物のヤクザ達が、ガラステーブルの周りを陣取っている。河原の岩石のような面々が、一斉に亮を見上げた。一人は毒々しい刺青を見せつけるように、アロハのボタンを外し、胸を開けている。
 忘れていた暴力のにおい。亮は、その場に固まった。
 ふと見ると、部屋の隅で網タイツの膝を崩し、タバコをくゆらせている女がいる。コバルトブルーのクラブ衣装で身を包み、昨日とは別人の横顔を見せているのは順子だった。
 5人のヤクザたちは、亮の無様な表情から心の動揺を読み取ったのか、ニヤニヤと余裕の笑みを浮かべ始めた。
「にいちゃん、いい商売だね。手汚さずにシノギができてさ」
 順子の脇で胡坐をかいている兄貴分とおぼしきヤクザが、メタルフレームの眼鏡の奥で目を細めながら口を動かした。
「ひひひーっ、へへへー」
 あちこちから野卑た笑い声が上がる。
「あんちゃん、もしかして順子に気があるんじゃねーだろーな。色男ぶってんじゃねーぞ、こらー!」 
 刺青をちらつかせていたヤクザがシャツを脱ぎ捨てた。獣の化身の様な上半身が露わになった。
「おいテツ、あまり大きな声をだすな。俺たちは脅しにきたんじゃねーんだよ」
 兄貴分が刺青をたしなめた。
 亮は彼らの魂胆がわかってきた。家電屋を3年もやっていると、そう珍しいことではない。社長からは毅然と立ち向かえと教えられている。徐々に落ち着きを取り戻した。
「今日はこちらに集金にお伺いしたんです。変な邪魔はしないでください」
 亮はドアを閉めると膝を揃え、やっと言葉を絞り出した。
 兄貴分が、すかさず言葉を叩き出した。
「おう! 言葉に気いーつけるんだな。修理を頼んでも無視しやがって。都合のいいときだけ物売りつけて今日は集金だ! あんた、俺らを舐めとんのとちゃうか? 薄汚い女でも金になればと思って来たんだろ! 言っとくけどな、こいつは俺の妹だ」
「薄汚いとか、そんなことは思ってもおりません」
 亮は、正直に言った。
「自ら手を汚したことのない人間が、俺らを相手に濡れ手で粟のシノギは、少し甘いとちゃうか」
短く刈りつめたゴマ塩頭の男が、吐き出すたばこの煙を眺めながら言った。
 亮は、混乱する頭の中で、このヤクザたちが言わんとすることも、何となく筋が通っているような気がしてきた。
「それじゃ、にいちゃん、その冷蔵庫、おもいっきりサービスしてやってや」
 兄貴分が順子のほうに顎をしゃくりながら、亮を見上げた。
 亮はやっと順子に嵌められたということを悟ったが、既に商品は納めた後だ。
 ヤクザ達の毒気に呑み込まれた亮は、彼らの冷やかしや怒声に煽られながら、値段を下げていった。しかし最後の仕切り値だけは、床に額を押し付け、死守した。プロとしてぎりぎりの意地は見せた。
 亮の顔には修羅の形相が表れていたに違いない。真っ赤なマニュキアが差し出した聖徳太子の重なりが、かすかに震えている。屈辱にまみれて領収書を切る。順子は最後まで、亮と目を合わせようとはしなかった。
 最後にゴマ塩が笑みを浮かべ、意味ありげなことを言った。
「あんさんも、ただもんじゃないな。うちに来たらどうだ。ハハ、冗談だよ、道を外しちゃいけねぇ」
 亮は、脂汗でねとねとになった体を引きずるようにして、順子の部屋を後にした。帰りの車の中で、行き場のない悔しさに涙を流した。しかし不思議と順子に怒りを感じることはなかった。自分と同じようなボロアパートで暮らし、新しい冷蔵庫を前にして子娘のように喜んでいた順子の横顔に、一瞬でも気を許したことは確かだ。プロに徹することができなかった自分の負けを、率直に認めた。
 ヤクザが言っていた「自ら手を汚す」という言葉が脳裏に蘇る。自分はヤクザが言うとおり、肝心な時に逃げてきた。墓石に浮かんだ神田の顔が、ふとよぎった。
 亮は会社に戻り、総川にことの詳細を報告した。
「申し訳ございません。ブラックリストを無視してしまい――」
 帰ってきた言葉は意外だった。
「あそこはリストにはないはずだ。今まで踏み倒されたことはない。ただ、バックにヤクザがいることは辞めた小杉も知っていた。よく5人も相手に、原価を割らなくてよかった。これで店のノルマは達成できる。よくやってくれた」
 眼鏡の向こうで、総川の目が笑っている。世間では家電屋は軽く見られがちだが、亮はこの時、改めて家電屋の奥の深さを知った。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み