第2話 家電業界

文字数 2,360文字



 大学中退で職を探すという事が、これほど難しいとは思いもしなかった。思い切って学歴を高卒とし、食業安定所に通った。工業や商業系高卒の求人ばかりで、普通高卒はほとんどなかった。
 買い置きのインスタントラーメンが底をつきそうになった時だった。「家電営業マン募集・学歴不問」の求人に目が留まった。場所は恵比寿、今のアパートからも近い。
 すぐに応募の準備をした。履歴書に、空手の二文字はない。たった一つのプライドが、今は触れてはいけない屈辱の言葉となった。
 都内では、ケーズデンキやヨドバシカメラなどの家電量販店が華々しくオープンし始めていた。応募した「ヒロセ電器店」は従業員7人ほどの、いわゆる「街の電器屋さん」だった。
 面接には広瀬社長と専務の総川が前に並んだ。
 企業の面接とは様子が違い、アットホームな雰囲気で話が弾んだ。亮は素性を隠すつもりだったが、すべて正直に話した。二人は驚くこともなく、逆に同情してくれた。
 実直そうな社長は電気工事から転身した叩き上げで、五十歳過ぎに見えるが、引き締まった体躯をしている。一緒に事業を興したという専務は、都内でも名の通った大学を中退しており、この業界の懐の深さがのぞいていた。隠すことがない面接は、気さくに話ができ、営業向きととらえられたようだ。元々酒屋で育った気質が残っていたのかもしれない。亮は首尾よく採用された。
 最初は総川につき、家電営業の実践を学んだ。同じ、大学中退ということもあるのか、彼は親身になって販売のコツを教えてくれた。夜は商品知識の勉強で、1年はあっという間に過ぎた。
 仕事帰りの本屋で空手雑誌に手を伸ばすこともなく、休日には近くの公園でジョギングに興じた。記憶のすべてから空手の二文字は消えていった。ただ、鍛え上げた肉体が、日に日に衰えていくことには堪えられず、アパートで指立て伏せだけは続けた。 
 職場の飲み会も、最初の居酒屋で失礼し、暴力の種が見え隠れする路地裏の二次会は断った。それが、牙を失った狼が、草原で生き残っていくための唯一の手段だと思った。
 学生時代、亮の中で鬼火のように燃え続けた闘争本能は、いつしか遠い記憶となった。
 仕事が終わった、休憩室のテーブル。この道10年という先輩の小杉が、入社したころの凄まじい訪問販売の様子を教えてくれた。
 冷蔵庫が大型化し、古い小さな冷蔵庫の買い替え戦略がどこの店でも行われていた。今は反省していると前置きをしてから、しみじみと語ってくれた。
 小杉は、いつもの50CCバイクで見込み客である中年夫婦の家に出かけた。昼の時間帯、夫は不在だ。引き戸を開け、声をかける。すでに運送屋の服装をした他の二人は、小型トラックに新品の大型冷蔵庫を載せ路地に控えている。「この前お話しした冷蔵庫の件、ご主人様とご相談いただけたでしょうか」小杉は満面の笑みを浮かべ、小太りの奥さんに話しかける。もちろん、「はい、買うことに決めました」などという言葉は100パーセント返ってこない。小杉はそっと時計を見る。約束の時間まであと1分。「そこを何とか」などと時間を稼ぐ。ジャストタイム。荒々しく玄関の戸が全開となり、大きな声が響く。「こんにちは! 原さんのお宅ですね。遅くなりましたー」戸口の上端にぶつかりそうな大きな冷蔵庫が、玄関の中に運び込まれる。小杉は迷惑そうな笑顔を張りつける。「ああ、こまったな。問屋も気が早くて。まだ商談中なんだよ」もちろんこのやり取りは決められたシナリオだ。二人は聞こえないふりをして、どんどん家の中に入っていく。台所の場所はあらかじめ話してある。「すみません、何かの手違いで問屋が伝票切っちゃったみたい。私が責任を持ちます。気に入らない場合は返品でけっこうですから、とりあえず使ってみてください」小杉は、誠意に苦渋を重ねた表情で、ひたすら頭を下げる。台所では手はずどおり、ところどころ黒ずんだ小さな冷蔵庫から、すべての食品が真白でピッカピカの大型冷蔵庫に移されていく。最後の仕上げは、古い冷蔵庫の裏側を見せ、その横に並べる。どこの冷蔵庫も背面は埃だらけだ。ネズミの死骸が垂れ下がっていることも珍しくはない。誰でも、食べ残しや痛みかけた野菜を一度収めた冷蔵庫を返品するのは気が咎める。一日たりとも眺めたくない長年の生活の足跡。すべては計算済みだ。最後は、「査定はゼロですけど、特別1万円で下取りいたします」の一言で、契約率は百パーセントだったという。小杉はある時台所で、「この冷蔵庫まだまだ使えるのに、世間の人は贅沢なもんね」と、どこかの下取り品を愛おしく撫でる妻の姿を見て、この押し売り商法から足を洗ったという。
 5年ほど前、訪問販売法が施行された。これまでのような強引な売り込みは影を潜めたが、足を使い、見込み客をつかむという営業マンの基本は変わらなかった。
 量販店は、商品が同じであれば安いほどいいという原理が働く。買う側も売る側も、一瞬のかけ引きで決まる。
 訪問販売は、価格だけでは決まらない。信頼を基本とする人間関係が重要だ。子供の誕生日には、リボン付きのハンカチセットを贈る。たまたま同じ方向に行くときは、デパートや歯医者に送っていくこともある。そうして築き上げた信頼と言う名の断りがたいつながりの中で、ぽつりぽつりと商品が売れていく。それでも数がまとまれば、ノルマをこなすことができた。
 若夫婦が真剣な顔で新型カラーテレビの説明を聞く姿に、亮は自分の人生では望むことができない世界を見せつけられる思いに駆られる。同時に、希望を求めて生きる彼らの夢を現実化できるこの仕事に、ささやかな生甲斐を感じるのも事実だった。

 こういう生き方もありだな……。

 亮は自分にそう言い聞かせるのだった。

 
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