第5話 廃日記

文字数 770文字

「管理人?」
僕は今狐に摘ままれたような顔をしているのだろう。夏花は楽しげに僕の腕を掴んだ。
「あーごめん。説明してなかったかー。」
ストロングゼロを飲みながら歩き出す。薄いガラスを踏み潰す音がした。

夏花は部屋を出て、半開きのエレベーターをスルーして心許ない階段に向かった。ガラスの無くなった窓枠から見た薄水色の空に、もう月が出ている。白銀の、異様に大きな満月だ。
「もうすぐ満月だね。」
楽しげな声を聞くと、淡い空の色が不安になってくる。広大な空もガラスのように踏み潰して欲しい。

「この部屋。」
その部屋は異様な光景だった。
大量のパイプ椅子が絡み合い、天井まで届く歪な塔を形作っている。
天辺から、誰か見下ろしていそうな。
「こっち。」
目を引くオブジェを無視して、夏花は壁に置かれたテーブルに近づく。
壁には、アラビア語やハングルで文章が描かれている。それは詩か、呪詛か、命令か。
その壁に寄せて置かれた長いテーブルに、
青いキャンバスノートが放置されていた。
「新しい。」
廃墟に似つかわしくない、まだ買ったばかりの質感。
表紙に、幼い筆跡で「管理日誌」と書かれている。
パタパタ、カタン。
先ほどまで自分がいたフロアから物音がする。
ページを捲りたくない。
「ほら。」
僕の逡巡を無視して、夏花が表紙を捲る。
「私は管理人です。今日は月が綺麗な夜です。
今日からがんばります。」
表紙と同じ、幼い筆致で書かれた言葉は、いつ、誰に向けたものか。
少なくとも、このビルが廃墟ではなかった頃のものではないだろう。
「新しいんだよ。昨日今日書かれたやつだろこれ。」
誰かがこの廃墟を根城にしているのかもしれない。ヤンキーや、ホームレス。それらならまだわかる。だが、この言葉は一体何だろうか。
「今日からがんばる」。何を?

「書いたのは、たぶん先週だよ。」
バタン。金属音の後、入り口の扉が閉まった。
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