マダムの赤いルビーのブローチ③
文字数 1,923文字
ちゃめっ気のある叔母の一人が、こっそり着せつけてメイクアップまでしてくれた。
あの時鏡を覗いた時の、雷に打たれたような衝撃は、何年経っても忘れられない。
女の子になったアタシは、今まで見た村の花嫁の誰よりもずっと綺麗だったからだ。
その夜は熱に浮かされたようにとりとめのない夢の中で、あの水たまりのバレリーナになりきって、アタシはバレエを一晩中踊り続けた。
◇
お葬式の当日は息が詰まってしょうがなかった。普段馴染みのないカトリックの教会は、等身大の偶像だらけ。血を流すグロテスクなイエス・キリストの像や、イエスの処刑までの陰惨な絵物語などがずらりと並んでいたりして、とても気味が悪かった。
それに、おしゃべりな叔母さんたちのおかげで、母さんと父さんとの馴れ初めを知らされていた。
器量の良くない姉娘と大酒飲みの馬丁の恋物語の結末は、駆け落ちだった。どおりで、アタシたち姉弟は、祖父にも祖母にも一面識もなかったわけだ。
今度もお酒に逃げて、せめて祖母にこれまでの不義理の詫びをしようともしなかったかった父さんが、子ども心にもつくづく情けなかった。
祖父に申し訳ない気持ちはすごくあった。
でもどうしても、一度も会ったことがないと悲しみもわかなくて、アタシはトイレに行くふりをしてこっそり教会の外に出た。
青い空に向かって大きく深呼吸したら、全身がほろほろと解けていくような開放感を感じた。
凸凹した石畳に数日前の雨の余韻が残って、青い空を写していた。
アタシはつい昨日のバレリーナの姿を思い出し、水溜りの端から端までを爪先立ちで横断するという無意味な遊びに夢中になった。
どれくらいそれを続けていただろう?
司会の端をフルーのドレスの裾が何度もかすめた。
振り返っても誰もいない。でも、前を向くと端にまたブルーが通る。
ふと足元の水たまりを覗き込んだ。
水鏡の中に、あのバレリーナがすっくと美しいポーズで立っていた。
◇
アタシはどれだけの時間、踊るバレリーナに見惚れていたかわからない。
不意に名前を呼ばれた。振り返ったら、祖母が立っていた。
「お前にはあれが見えるのかい?」と長身の身をかがめ、声を潜めて聞かれた。
アタシは用心深く首を横に振ったけど、祖母はすっかりお見通しだった。
「うちの家系にはな、たま〜に霊感の強い女の子が出るのさ。結婚して子どもを産む頃にはたいがい消えちまうんだが。
それが男の子に出るとは珍しい。そういや親戚にそういうのがいたな。
お前、身体は男の子でも、心はそうじゃないんじゃないのかい?」
アタシは何も答えられなかった。女らしくない女や男らしくない男は、どこにいっても爪弾きにされる。そういう時代だ。
父さんがあんなで、アタシまでこんなだと、母さんが責められることになって可哀想だと思ったんだ。
祖母はただ大きなため息を一つ吐いた。アタシの頭を骨張った手でゴシゴシ痛いくらいに力を入れて撫でてくれながら、こんなことを囁いた。
「霊感はお前のもう一つの目みたいなもの。本格的に目覚めてきたら逆らわないことだ。
上手くやれれば大叔父さんみたいに、イギリスで霊媒師をやって大金持ちになるようなことができるかもしれない。
だけど、よくよく気をつけるんだよ。その力のことは、よほど信用できる相手以外は話してはいけない。
その力は金にもなるが身を滅ぼす元にもなる。大叔父さんは長年の大親友だった男に寝首をかかれたんだからね」
◇
その夜のことだ。
アタシはどういうわけか寝苦しくて、深夜を回っても眠れなかった。階下にある大時計のカチコチいう音が夜になるとものすごく耳障りに聞こえた。
なんとかしようと階下に降りた。
今の大時計の脇には、大きな鏡があった。
好奇心で覗いてみると、蒼白い自分の顔にひゃっと声が出そうになった。
「何よ、アタシの顔じゃない」と言ってみた。
鏡の赤のアタシは口を動かさなかった。
ジロジロ見た。見れば見るほど、それは似ても似つかない別人の顔みたいに見えてきた。
怖さに飲み込まれる前に、アタシの負けん気が勝った。どうせこんなの鏡像でしょ、とたかをくくり、ぐいと手を伸ばしてみた。
手はあっさり鏡を突き抜けた。
そして、鏡の中の誰かの襟元に潜り込んだ。
冷たかった。
「挨拶もなしに、失礼な子ね」という顔で、その人物はアタシを睨んだ。
アタシはその場にへたり込んだ。
尾骶骨を強か打ってからやっと、それがあの水たまりのバレリーナだ、と気づいた。
◇
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