白光の守護天使②
文字数 2,105文字
いつものヒヨルなら歓声を上げ、きらきらする青い瞳でミツハに笑いかけてくれただろう。
しかし今日のヒヨルは、掌に置かれたそれに気づく気配もなく、いまだ眠り続けている。
呼吸は浅く早く汗ばんで、時々うなされるように身体をねじり、手足をバタバタさせた。それでも目をさますことはない。
きっと夢の中で歌っているのだろう、声もなく唇が動くこともあった。
こんな小さな子どもが、誰に保護されることもなく、非現実の世界を彷徨っている。
それだけでも、ミツハにとってはたまらないことだ。
しかも、ハオランは言う。この状態が何日も続く場合は考えものだ。肉体の消耗が夢の中でも続くようなら、ちいさなヒヨルの身体ではじきにエネルギーが枯渇してしまうだろう、と。
普段は意気軒昂なハオランが、別人のように意気消沈していた。
例の呼び出しさえなければ、もう一日寝ずにヒヨルについてやりたかったはずだ。
ヒヨルのこととなると母性を炸裂させるブリュンヒルドなら、猪突猛進に総統の御前に乗り込んで助力を強要していてもおかしくなかった。
なのに、こんな状態のヒヨルを置いたまま、鬼よりも怖い総統の誘いを蹴りまでして、はっきりしない用事で出掛けて行ったまま帰っていない。それも謎だ。
夢の中でヴィラの仲間たちといっしょならまだいい。自分がいたならもっといい。
それがただの幻想であっても、ヒヨルを守ってくれるだろう。
しかし、だ。もしも悪夢の中に潜む恐ろしい怪物に襲われ、帰ってくることができなくなっていたりしたら?
ヒヨルの異能に目をつけて、さりげなく近づいてくる人外のものはとても多かった。
その多くはほとんど大した力も持たない真昼の影のようなもので、ミツハの放つ気合い一つで霧散させることができた。
だがこの先、ヒヨルの能力が目覚めてくることのなれば、何が起こるか予想はつかない。
異能の力は常人には計り知れず、心配は尽きなかった。
自分に
彼ら
のような力があったなら……!それは危険な考え方だと利口なミツハは理解している。それでも、願わずにはいられなかった。
――
ムーゼという女神がどんな存在なのか、ミツハは文献でしか知らない。
古代ギリシャ神話に登場する9人の女神、ムーサたちを指す名詞である。
この女神たちは、音楽、詩、芸術、科学など様々な知識と芸術の神であり、創造的なインスピレーションの源とされていた。
ヒヨルは間違いなくムーゼに愛されている、
とはいえ、神々の寵愛とは気まぐれなものだ。
どうか、数多の人間が歩むような辛い思いを、ヒヨルさまにだけはさせないで欲しい。その分の重積は全てわたしが引き受ける覚悟がある。
だからどうか……!
ふと気づく。
ベルリンのシンボルともなっている、
錯覚だ。
厳密には黄金色の天使であるということ以外は別物なのだから。
それなのにミツハの奇妙な感覚はおさまるどころか大きくなっていくのだった。
まるで自分の身体が縮小していき、代わりに守護天使像が巨大化していくように。
幼い頃に目の錯覚を利用して、掌の上に巨大な建造物を載せてみた時のことを唐突に思い出した。
あれは「お化け煙突」だった。
鮮やかな映像といっしょに、今まですっかり忘れ果てていた日本での生活が怒涛のように脳裏に蘇ってくる。
男たちの難しい政治の話を横から茶化してばかりのひょうきん者の父がいて、美貌でしっかり者の母もいた。
礼儀作法に厳しい剣道師範の祖父、何かと大甘な祖母がいた。
仲の良かった叔父叔母たち。働き者の使用人たち。愉快な遊び友だち。ライバルだった学校友だち。
そして、兄ちゃんは宮本武蔵みたいな剣豪になるんだろ? と言ってくれた弟の笑顔。
父上とお役目を終えたら、すぐ日本に帰ってこれるもんな? 兄ちゃん、また稽古つけてくれよな!
すまない。ミツハは一度目を閉じる。
わたしはもう帰ることはできない。この異国の地で見つけてしまったんだ。
わたしが生涯かけて守っていくべき人を――
そして目を開いたその時。
遠く、ヒヨルの歌声を聞いた、と思った。
ヒヨルの心臓の鼓動を感じる。
それにぴたりと寄り添って、音叉のように心臓が共鳴していくのをミツハは受け入れた。
ベッドに寝ているヒヨルの身体の周りに、緑の草が萌え始めるのを見た。
たちまち茎を伸ばし、葉を茂らせ、ヒヨルの身体を高く持ち上げた。
ヒヨルさま! と手を伸ばしたミツハの身体も巻き込まれた。
そして、頭上にぽかりと開いた水面を思わせる鏡に、二人の身体は呑まれていったのである。
>>>第7話終了、第8話につづく