第五項 北風と太陽
文字数 3,941文字
「かんばーい!」
プシュッ!と音を立てて口を開き、彼らは乾杯しました。疲れきった表情で、それでいてふざけた笑顔を浮かべながら。
ここは都内のオフィスビル。ある金融機関の市場(マーケット)部門が入ったフロアの、システム会社さん用の事務室です。ナレーションは引き続き、早苗沙希が担当しています。
え?”職場で乾杯ってどういうこと?まさか、仕事中に飲酒してるのか”って?そうですね。ちゃんとご説明しないと、誤解されちゃいますよね。
実は今、連休前日の夜21時ちょっと過ぎ。システムトラブルで4時間近く対応していて、ようやく解決したところです。”だからって、職場で飲酒はよくない”って?そうですね。もし、さっきの”プシュッ!”が缶ビールとか缶チューハイだったら問題ですよね。でもあれは、缶の栄養ドリンク(炭酸入り)だったんです。
詳しくご説明すると、この会社では、15時からの17時の間に自動計算処理を行います。15時に証券や資金取引のマーケットが終了して、17時までにその日のマーケット取引の結果(損をしたのか、得をしたのか)を、システムで計算して確認、報告するんです。ところが、この日は自動計算の途中でエラーが出てしまったのです。何度やり直してもエラーになって、処理が全然進みません。ログを見ても、よくわからないメッセージばかりで、”どこで、何が原因でエラーになっているのか”が、見ても全然わかりません。私のような子供はただオロオロして見守るくらいしかできなのです。ですが、蓮はいつものペースで
「今、調査を続けてるんですが、今日は変わった取引をしたとか、取引先を追加したとかないですか?」
とシステムユーザーである銀行員に問いかけ
「ログファイルを送るから、急いで解析してもらえます?」
と、パッケージ販売元のシステム会社さんに依頼をしています。
え?当たり前の対応じゃないかって?実はそうでもないんです。システムトラブルが起きたとき、こちらの銀行さんだと”解決法”より”犯人探し”が始まるのです。つまり、”誰が悪いのか、責任は誰が取るのか”ばっかりの議論になって、喧嘩が始まったり、怒声が飛び交って、解決するために協力することができないのです。蓮曰く
「縦割りの会社だと、どうしてもね。減点法で社員を評価するから、みんな責任の押し付け合いになっちゃうんだよ。だから、誤魔化したりするスキルばっかり発達して、問題解決力がある人材が育たないんだよね」
だそうです。
会社によっては体制が旧くって、理不尽な状況に陥ってしまい、物事が進まなくなってしまうのです。だから、トラブルが起きたときは、”協力して解決”することより、”責任の擦りつけあい”が始まってしまうのです。システムユーザーは自分のミスを、システムベンダーはシステムの不具合を隠そうとするのです。ただ、蓮が間に入るとサクサク話が進んで
「ごめんごめん。俺が登録間違えた。日付設定を歴日じゃなくて、営業日でデータ入力しちゃった」
と、最後にはミスを認めさせ、そのまま栄養ドリンクの差し入れまでさせちゃったのです。
「対応完了メールで報告して、協力してくれたみなさんにお礼メール出してっと。ほい、完了。みんな、お疲れ様。遅くまでありがとうございます」
そんなこんなで、本来は怒声と罵声が飛び交いそうな状況を穏やかな空気で解決して、蓮は差し入れの栄養ドリンクを口にするのです。
「いやー、蓮君がいてくれて助かったよ。さすがだね、北風と太陽スタイル」
ジャケットを着てカバンを抱え、システムエンジニアのリーダーさんがお帰りです。
「いえいえ。だって、減点法とか犯人探しで、人間関係が悪くなるのって嫌じゃないですか。せっかくみんなで頑張ったんだし、笑顔で終わった方が気分いいですからね」
そんなこんなでトラブル対応は解散となり、私たちも退社することになりました。
「ねえ蓮」
「何だい?」
私たちは、駅前のファミリーレストランで夕食を頂くことにしました。本当は、21時過ぎに食事しない方がいいかもですが、お腹ペコペコだったので、今日はダイエットを忘れることにしました。
「”北風と太陽”スタイルって何?」
そう、金融機関でのシステムトラブルとは相容れない、童話の名前を冠したスタイルって、一体何なのでしょうか?
「ああ、あれね。あれは最後の僕の電話のことだよ」
「電話?」
「調査の結果、ユーザーの操作ミスだってわかったでしょ。しかも、トラブル発生でクレームを入れてきた片岡さんが原因だった」
「うん。原因もわかったし、対処方法が決まったけど、それを報告したら、またひと悶着あるのかなって心配したよ」
「そうだね。システム対応でみんな振り回されて、何人も居残りさせられた。でも、片岡さんも自分のミスを簡単には認められない。だから」
「だから?」
「”北風と太陽”作戦の出番なんだ」
「それって、どういう意味?」
「北風と太陽のお話は知ってるよね?北風と太陽が、”通りかかった旅人のコートを脱がせる”っていう勝負をするんだ。先攻の北風は強い風を吹かせた。それでコートを吹き飛ばそうとしたんだよね。だけどさ、旅人はその風が寒くって、むしろ必死でコートが飛ばないようにしたんだ。今日のことも、これと同じなんだよね。もし僕が、”あれ、片岡さんのミスですよ。みんなに謝ってください”って言い方をしたら、片岡さんは素直に謝れなかったはずだ。意固地になって、”システムに欠陥があったんじゃないか”とか、”こういったケースへの配慮がされていない、システム設計が悪い”って、騒ぎ出したんじゃないかな」
「そうなるんじゃないかって、ハラハラしたもん。でも、蓮が電話してるのを聞いて、笑いそうになっちゃって」
そうです。だって蓮の電話を横で聞いていると
「解決しました!よかったですよ。これでみんな、連休に休みが取れます。片岡さんも、休日出社しなくてOKですよ。いやぁ~、よかったよかった」
なんて、片岡さんのミスに敢えて触れず、”これでみんな、ハッピーになりました”的な、嬉しくて仕方がないような演技をするんです。すると不思議なことに、相手が自分から謝り出したのです。そして、ここからが蓮のすごいところで
「いやー、大変でした。差し入れとか、気を遣わなくていいですよ」
って笑いながら言い出して
「でも、ブラックコーヒーは勘弁ですよ。今から目が覚めて、追加のお仕事したくないですからね」
なんて言い出すんですもの。受話器から片岡さんの笑い声が漏れ聞こえてきました。そして数分後
「みんなありがとう」
って言いながら、片岡さんが大量の栄養ドリンクを差し入れてきました。
「わざと明るく、”解決して嬉しい”って感じで演技したからね。敢えて操作ミスを責めなかったんだ。”解決してよかった”って、前向きな発言を楽しそうに繰り返したらさ、片岡さんの方から謝ってきたよ。自責の念ってやつだね」
「すごいと思ったよ、蓮のこと。敢えて逆の行動をとって、円満に収めたんだもの……あ!これって」
「そう。太陽がポカポカ照らして、旅人自らコートを脱ぐように仕向けたんだ」
「なんていうか、不思議だなぁ……童話を実生活、というか、お仕事の教訓にできるなんて」
「もともと童話って、生きるためのヒントを子どもに教えるためのものだからね」
そういえば、スメラギさんがおっしゃっていました。蓮は空間を支配するって。それはカリプソ(後で説明しますね。)の特殊能力だけじゃなく、実生活においてもだって。
「彼が現れると、空気が変わるでしょ?喋りだすともう、蓮野劇場が開幕して」
そうです。いつの間にか蓮のペースで、なんとなく蓮の思惑通りに進んでいくのです。
そんなこんなでお話が一区切りするタイミング、聞きたいことも聞けたとき
「おっ!キタキタ」
注文した料理が運ばれてきました。蓮は焼き魚定食で、私はハンバーグ定食です。
「ふふっ」
私がハンバーグに夢中になっていると、蓮が微笑んでいました。
「どうしたの?」
「いや、可愛いなって思ってさ」
「なにが?もしかして僕、変な食べ方してた?それとも、ご飯粒着いてる?」
「そうじゃないよ。ファミレスで晩御飯食べるとき、サキはいつもハンバーグだなって」
「そうだっけ?あんまり意識してないけど」
「毎回ハンバーグで、目玉焼きが乗ってるよ。それに、テーブルに配膳されるとき、子供みたいにワクワクした表情をしてくれる。鉄板のジューって音なのか、目玉焼きがそうさせるのか、お子様な表情が可愛いよ」
「そ、そうかな?どうしよう、恥ずかしい……」
自分の無意識の癖を指摘されて、私は少し恥ずかしくなってしまいました。恥ずかしくなって、食事の手を止めてしまいました。大好きな半熟たまごに、これからナイフを入れようと思っていたのに……
「ごめんごめん。悪いことじゃないよ。むしろ、これからも続けて欲しいな。サキのワクワク顔を見ると、とっても癒されるから」
「もうっ!変なことばっかり言って……」
そんなこんなで、ハラハラしたり、ワクワクしたり、ちょっぴり恥ずかしかったりと、蓮との社会人ごっこはとっても楽しかったです。お仕事するのは大変だったけど、大好きなヒトに教わりながら、守られながら、いろんなことを学ぶことができました。私の大切な思い出であり、今も、彼への執着を捨てられない、私を縛る枷のお話です。
そんな私の恋心が、こうもあっさりと砕かれてしまうなんて……
蓮を、”輝月先生”にとられてしまうなんて……
プシュッ!と音を立てて口を開き、彼らは乾杯しました。疲れきった表情で、それでいてふざけた笑顔を浮かべながら。
ここは都内のオフィスビル。ある金融機関の市場(マーケット)部門が入ったフロアの、システム会社さん用の事務室です。ナレーションは引き続き、早苗沙希が担当しています。
え?”職場で乾杯ってどういうこと?まさか、仕事中に飲酒してるのか”って?そうですね。ちゃんとご説明しないと、誤解されちゃいますよね。
実は今、連休前日の夜21時ちょっと過ぎ。システムトラブルで4時間近く対応していて、ようやく解決したところです。”だからって、職場で飲酒はよくない”って?そうですね。もし、さっきの”プシュッ!”が缶ビールとか缶チューハイだったら問題ですよね。でもあれは、缶の栄養ドリンク(炭酸入り)だったんです。
詳しくご説明すると、この会社では、15時からの17時の間に自動計算処理を行います。15時に証券や資金取引のマーケットが終了して、17時までにその日のマーケット取引の結果(損をしたのか、得をしたのか)を、システムで計算して確認、報告するんです。ところが、この日は自動計算の途中でエラーが出てしまったのです。何度やり直してもエラーになって、処理が全然進みません。ログを見ても、よくわからないメッセージばかりで、”どこで、何が原因でエラーになっているのか”が、見ても全然わかりません。私のような子供はただオロオロして見守るくらいしかできなのです。ですが、蓮はいつものペースで
「今、調査を続けてるんですが、今日は変わった取引をしたとか、取引先を追加したとかないですか?」
とシステムユーザーである銀行員に問いかけ
「ログファイルを送るから、急いで解析してもらえます?」
と、パッケージ販売元のシステム会社さんに依頼をしています。
え?当たり前の対応じゃないかって?実はそうでもないんです。システムトラブルが起きたとき、こちらの銀行さんだと”解決法”より”犯人探し”が始まるのです。つまり、”誰が悪いのか、責任は誰が取るのか”ばっかりの議論になって、喧嘩が始まったり、怒声が飛び交って、解決するために協力することができないのです。蓮曰く
「縦割りの会社だと、どうしてもね。減点法で社員を評価するから、みんな責任の押し付け合いになっちゃうんだよ。だから、誤魔化したりするスキルばっかり発達して、問題解決力がある人材が育たないんだよね」
だそうです。
会社によっては体制が旧くって、理不尽な状況に陥ってしまい、物事が進まなくなってしまうのです。だから、トラブルが起きたときは、”協力して解決”することより、”責任の擦りつけあい”が始まってしまうのです。システムユーザーは自分のミスを、システムベンダーはシステムの不具合を隠そうとするのです。ただ、蓮が間に入るとサクサク話が進んで
「ごめんごめん。俺が登録間違えた。日付設定を歴日じゃなくて、営業日でデータ入力しちゃった」
と、最後にはミスを認めさせ、そのまま栄養ドリンクの差し入れまでさせちゃったのです。
「対応完了メールで報告して、協力してくれたみなさんにお礼メール出してっと。ほい、完了。みんな、お疲れ様。遅くまでありがとうございます」
そんなこんなで、本来は怒声と罵声が飛び交いそうな状況を穏やかな空気で解決して、蓮は差し入れの栄養ドリンクを口にするのです。
「いやー、蓮君がいてくれて助かったよ。さすがだね、北風と太陽スタイル」
ジャケットを着てカバンを抱え、システムエンジニアのリーダーさんがお帰りです。
「いえいえ。だって、減点法とか犯人探しで、人間関係が悪くなるのって嫌じゃないですか。せっかくみんなで頑張ったんだし、笑顔で終わった方が気分いいですからね」
そんなこんなでトラブル対応は解散となり、私たちも退社することになりました。
「ねえ蓮」
「何だい?」
私たちは、駅前のファミリーレストランで夕食を頂くことにしました。本当は、21時過ぎに食事しない方がいいかもですが、お腹ペコペコだったので、今日はダイエットを忘れることにしました。
「”北風と太陽”スタイルって何?」
そう、金融機関でのシステムトラブルとは相容れない、童話の名前を冠したスタイルって、一体何なのでしょうか?
「ああ、あれね。あれは最後の僕の電話のことだよ」
「電話?」
「調査の結果、ユーザーの操作ミスだってわかったでしょ。しかも、トラブル発生でクレームを入れてきた片岡さんが原因だった」
「うん。原因もわかったし、対処方法が決まったけど、それを報告したら、またひと悶着あるのかなって心配したよ」
「そうだね。システム対応でみんな振り回されて、何人も居残りさせられた。でも、片岡さんも自分のミスを簡単には認められない。だから」
「だから?」
「”北風と太陽”作戦の出番なんだ」
「それって、どういう意味?」
「北風と太陽のお話は知ってるよね?北風と太陽が、”通りかかった旅人のコートを脱がせる”っていう勝負をするんだ。先攻の北風は強い風を吹かせた。それでコートを吹き飛ばそうとしたんだよね。だけどさ、旅人はその風が寒くって、むしろ必死でコートが飛ばないようにしたんだ。今日のことも、これと同じなんだよね。もし僕が、”あれ、片岡さんのミスですよ。みんなに謝ってください”って言い方をしたら、片岡さんは素直に謝れなかったはずだ。意固地になって、”システムに欠陥があったんじゃないか”とか、”こういったケースへの配慮がされていない、システム設計が悪い”って、騒ぎ出したんじゃないかな」
「そうなるんじゃないかって、ハラハラしたもん。でも、蓮が電話してるのを聞いて、笑いそうになっちゃって」
そうです。だって蓮の電話を横で聞いていると
「解決しました!よかったですよ。これでみんな、連休に休みが取れます。片岡さんも、休日出社しなくてOKですよ。いやぁ~、よかったよかった」
なんて、片岡さんのミスに敢えて触れず、”これでみんな、ハッピーになりました”的な、嬉しくて仕方がないような演技をするんです。すると不思議なことに、相手が自分から謝り出したのです。そして、ここからが蓮のすごいところで
「いやー、大変でした。差し入れとか、気を遣わなくていいですよ」
って笑いながら言い出して
「でも、ブラックコーヒーは勘弁ですよ。今から目が覚めて、追加のお仕事したくないですからね」
なんて言い出すんですもの。受話器から片岡さんの笑い声が漏れ聞こえてきました。そして数分後
「みんなありがとう」
って言いながら、片岡さんが大量の栄養ドリンクを差し入れてきました。
「わざと明るく、”解決して嬉しい”って感じで演技したからね。敢えて操作ミスを責めなかったんだ。”解決してよかった”って、前向きな発言を楽しそうに繰り返したらさ、片岡さんの方から謝ってきたよ。自責の念ってやつだね」
「すごいと思ったよ、蓮のこと。敢えて逆の行動をとって、円満に収めたんだもの……あ!これって」
「そう。太陽がポカポカ照らして、旅人自らコートを脱ぐように仕向けたんだ」
「なんていうか、不思議だなぁ……童話を実生活、というか、お仕事の教訓にできるなんて」
「もともと童話って、生きるためのヒントを子どもに教えるためのものだからね」
そういえば、スメラギさんがおっしゃっていました。蓮は空間を支配するって。それはカリプソ(後で説明しますね。)の特殊能力だけじゃなく、実生活においてもだって。
「彼が現れると、空気が変わるでしょ?喋りだすともう、蓮野劇場が開幕して」
そうです。いつの間にか蓮のペースで、なんとなく蓮の思惑通りに進んでいくのです。
そんなこんなでお話が一区切りするタイミング、聞きたいことも聞けたとき
「おっ!キタキタ」
注文した料理が運ばれてきました。蓮は焼き魚定食で、私はハンバーグ定食です。
「ふふっ」
私がハンバーグに夢中になっていると、蓮が微笑んでいました。
「どうしたの?」
「いや、可愛いなって思ってさ」
「なにが?もしかして僕、変な食べ方してた?それとも、ご飯粒着いてる?」
「そうじゃないよ。ファミレスで晩御飯食べるとき、サキはいつもハンバーグだなって」
「そうだっけ?あんまり意識してないけど」
「毎回ハンバーグで、目玉焼きが乗ってるよ。それに、テーブルに配膳されるとき、子供みたいにワクワクした表情をしてくれる。鉄板のジューって音なのか、目玉焼きがそうさせるのか、お子様な表情が可愛いよ」
「そ、そうかな?どうしよう、恥ずかしい……」
自分の無意識の癖を指摘されて、私は少し恥ずかしくなってしまいました。恥ずかしくなって、食事の手を止めてしまいました。大好きな半熟たまごに、これからナイフを入れようと思っていたのに……
「ごめんごめん。悪いことじゃないよ。むしろ、これからも続けて欲しいな。サキのワクワク顔を見ると、とっても癒されるから」
「もうっ!変なことばっかり言って……」
そんなこんなで、ハラハラしたり、ワクワクしたり、ちょっぴり恥ずかしかったりと、蓮との社会人ごっこはとっても楽しかったです。お仕事するのは大変だったけど、大好きなヒトに教わりながら、守られながら、いろんなことを学ぶことができました。私の大切な思い出であり、今も、彼への執着を捨てられない、私を縛る枷のお話です。
そんな私の恋心が、こうもあっさりと砕かれてしまうなんて……
蓮を、”輝月先生”にとられてしまうなんて……