第二項 特殊部隊相手に鮭ですか?

文字数 5,568文字

 輝月先生が赴任されてから、1週間ちょっとが過ちました。月曜日が学園の設立記念日でお休みのため、明日(土曜日)からは3連休です。
 学生寮で暮らしている生徒(といっても、30人くらいですが)のほとんどが、金曜の授業が終わるとすぐに帰省しました。まだ、部活もほとんどないこの学園では、みなが帰り支度に専念できました。夕方の学園発の送迎バスが何周かして、生徒たちを最寄駅へと送るのです。
 そんな金曜の夜、霧雨が降って少し肌寒い深夜にそれは現れました。3匹の異形です。
 人気のない寝静まった学園に、非常識なお客様の来訪です。体長3メートルくらいある、いやでも目立つ風貌の鬼さんです。この招かれざるお客様は、どこからいらしたのでしょうか?広大な敷地のほとんどが緑地の当学園ですが、外部からお越しの際は、正門をくぐっていただく必要があります。監視カメラのある正門を通って、遊歩道沿いに歩いていただかないと、道に迷うはずなのです。
 もちろん、山林から忍び込むことも可能でしょうが、こちらにも監視カメラがあります。まだ整備されていない雑木林には、いろいろな野生動物が生息しているので、生徒たちの安全を確保するために、学園では緑地エリアも管理しているのです。
 3匹はどこから、いいえ、どうやって入ってきたのでしょう?そんな疑問に答えることもなく、1匹はサキを、あとの2匹は蓮さんを狙うのです。蓮さんとサキは隣同士ですが、今夜は蓮さんが宿直で、高等部校内の宿直室に待機中です。

 「はぁ~……怖いなぁ~……嫌だなぁ~」
宿直室でテレビを見ていた蓮さんが、渋々懐中電灯を手に取ります。
「夜の校舎って薄気味悪いんだよなぁ~……見慣れた教室とかトイレとか、なんか別世界みたいで怖いんだよなぁ~」
 ようやくファンタジーな展開が、異形の鬼とのバトルが始まるかと思ったら、蓮さんが弱腰でビクビク状態です……
 この学園では、夜の20時と23時に見回りを行います。設立したばかりで教員が少ないから、宿直担当の先生は、初等部から高等部まで、全部見て回るのです。テキパキやらないと、1回の巡回で1時間以上かかっちゃいます。真っ暗闇を2時間以上も歩きまわる……しかも、校舎の周囲は森林に囲まれていて、窓の外はうっそうとして真っ黒まなホラー景色です。
 「これもお仕事だし……2週目の巡回、行ってくるか!」
蓮さんは勇気を振り絞って宿直室を出ました。時刻は22時をちょっと過ぎた頃です。本当は、見回りなんかしなくてもバレないんです。他の先生なんて、巡回を2回ともサボっているのが実情なんですもの。ですが蓮さんは、生真面目にも1人ぼっちの肝試しにチャレンジするのです。右手に懐中電灯、左手に小麦粉を握り締めて……

 さてみなさん。さらっと鬼が現れましたが、解説が必要ですよね?この物語には、3種類の異能者が存在します。ひとつは”継承者”と呼ばれる異能者です。プラヴァシーと呼ばれるエネルギー体を宿した方々で、自らグラマトンを放出して、奇跡が置きやすい空間を創り出せます。彼らの創る結界内では、物理法則が歪みます。というか、マンガやゲームに出てきそうな、魔法のようなスキルを発動できます。この物語でいうと、蓮さんと敵のボスクラスが継承者に該当します。残りのふたつは”感染者”と呼ばれるもので、テレパシー的なキ”ャフィス”と、物理的に強化される”プレリュード”と呼ばれる異能者が該当します。
 キャフィスとプレリュードはともに、継承者の張った結界に触れて感染するか、FIGという、新世会がばら撒く薬によって感染します。プレリュードの感染者は、FIGを過剰に摂取することで、化け物に変身することまでできます。
 そんなプレリュードの鬼2匹が、夜の校舎に潜んでいます。決して、窓ガラスを割るためでもなく、バイクを盗むためにでもありません。オドオドビクビクで、挙動不審な蓮さんを襲うためにです。
 鬼2匹は、比較的広くて確認項目の多い(ガス栓などが多くて、確認に時間がかかる)、家庭科室で蓮さんを襲うつもりのようです。

 とんでもない爆発でした。家庭科室のガラスが全て吹き飛びました。サキの部屋に迫る1匹の鬼が、驚いて身を隠すほどに。
 鬼は茂みに隠れ、どうすればいいかわからなくなっていました。深夜にこっそり忍び込んだのに、向こうの校舎が火事になったんですもの。爆音で帰省していない人間がみんな起きてきて、消防車とか来ちゃうでしょう。何より、炎の光で明るくなって、闇に乗じることもできません。
 さあ、みなさんならこんなとき、どうしますか?潔く諦めて、撤退しますか?それとも諦めきれなくて、目的(サキを襲う)を達成しようとしますか?
 ここでの正解は、”諦めてすぐに逃げ出す”ことだと思います。もちろん、さっきの爆発が事故ではなくて、罠かなにかだった場合は、逃げられないかもしれませんが……
 プロスペクト理論って、聞いたことありますか?経済学の行動ファイナンスの初歩なんですが、”人間は、非合理的に動いてしまう”というものの一例です。投資家の方が、株とかに投資しているとしましょう。景気が悪くなって、株価が下がり始めたとします。そんなときって、本来なら”持っている株を売る”のが普通なんです。このまま株価が下がり続けたらどうしよう?そういったものをリスクと呼び、リスクを減らすには、持っている値下がりしそうな銘柄を売るのです。でも、人間はいつも合理的という訳ではありません。ちょっと値下がりして損しそうなとき、むしろ負けを取り戻そうと、リスク愛好的(値下がり銘柄を持ち続けたら、買い増したり)になることがあるんです。”パチンコとか競馬で、負け始めると熱くなって、一発逆転を狙ってしまう”と説明した方が、わかりやすいかもですね?
 説明が長くなりましたが、今、撤退するか迷っている鬼の心境が、ちょうどこんな感じなんです。当初の目的が果たせそうになくって、なのに諦めきれなくって、進むも戻るもできないでいるのです。そんな鬼のすぐ後ろに、彼は立っていました。

 「いやぁ~……びっくりしたね。ゲホゲホ」
棒読みで姿を現したのは、蓮さんでした。
「急に家庭科室が爆発しちゃってさ、死ぬかと思ったよ」
咳き込むような素振りを見せて、白々しく笑ってみせるのです。
「ところでキミ、どうしてまだ逃げないの?」
鬼相手に、まるで知人に話しかけるように落ち着いている蓮さん。正直、その笑顔は不気味でした。満面の笑みなのに、まるで返り血でも浴びたかのように、ドス黒い何かを浴びているような……そんな印象の笑顔でした。
「なるほど。薬で化け物に変身できたがゆえに、軍人としての戦い方を活かせないんだね。体つきが変わっただけでしょ?」
優しく鬼を見下ろす蓮さん。そんな彼に、鬼は跳びかかりました。

 「なんなんだ!?なんなんだアイツは?」
蓮さんに返り討ちにあった鬼は、必死に走って逃げました。深夜の森の中を、方向もわからず全力で逃げました。小枝やら何やらが頬をかすめ、うっすらと血を流して。鬼から元に戻って、変身前のラフな服装になった彼は、腕や足にたくさんの擦り傷、切り傷をこしらえていました。
 鬼であった彼は、3メートルくらいの体躯を誇っていた彼は、蓮さんに跳びかかりました。一発で殺せてしまえるような、そんな状況で彼は、返り討ちにあったのです。
 簡単に避けられて、謎の鈍器で後頭部をぶっ叩かれたのです。あまりの衝撃にクラクラしていると、もう一発が顔面に炸裂しました。鬼は何が起きたのかわからず、3発目を顔面に頂いていました。
 「ぐ……き、貴様……」
殴られたダメージのせいか、薬の効果が切れてきて、彼は徐々に人間の姿に戻りつつありました。戻りながら
「なんだよ。それ!?」
蓮さんの手に握られた、その鈍器を指差しました。
「これ?見てのとおり、新巻鮭だけど?」
なんと蓮さん。軍手をして握り締めていたのは、年末に上野アメ横で売ってそうな、まるまる1本の鮭でした……
「さ、鮭だと……?」
「そ!アイヌ語のサクイベ(夏の食べ物)とか、サットカム(乾魚)からとったとも言われる、サケ目サケ科の動物だよ。全長90センチもあるから、凍らせると立派な鈍器だよね。家庭科室に特注の冷凍庫、設置しといてよかった」
 平気な顔して蓮さんは、とんでもないことを口にしています。
「昔さ、”液体窒素でバナナを凍らせたら、釘が打てる”っていうCMがあったんだ」
ほとんど人間の姿に戻った軍人さんに向かって
「凍らせるだけで、バナナがトンカチになるならさ」
語り続けるのです。
「”魚を凍らせたら、武器になるんじゃないか”って考えたんだ。銀色のお魚さんって、刃物や金鎚みたいに見えるでしょ?だからイメージしやすくって。ただ、ちょっと難点があるんだ。生臭い武器っていう、主人公が使うには残念なオプションが付いてるんだよね」
軍人さんは逃げる機会を窺っていて、当然聞いていないのですが……
「実はこのアイデア、僕のオリジナルじゃないんだ。推理小説だったかな?冷凍マグロで夫を撲殺して、それを料理して警察に振舞うっていうのがあったんだ。刑事さんたちもまさか、自分が食べているお刺身やマグロの竜田揚げが、実は凶器だったなんてわからなくてね。完全犯罪が成立するっていうお話があったんだよ」
語り続ける蓮さんを無視して、彼は走り出しました。それはそうですよね。目の前に敵がいて、逃げ出す隙があるんですもの。だけど
「僕も真似しようと思ったんだけど、さすがにマグロ1本は持ち歩けないし、仕入れが大変だ。だから」
蓮さんは新巻鮭をバットのように振りかぶって、軍人さんと併走しました。隣を笑顔で走りながら、凄い勢いでサケを振り回しました。
「おわぁーーー!?」
とっさに腕でガードしたのですが、軍人さんは吹き飛ばされ、樹木に叩きつけられました。そのまま前のめりに倒れ、意識を失ってしまいました。

 「さてと」
鬼だった軍人さんを仕留めた蓮さんは、気絶した彼を担いで歩き出しました。もちろん、新巻鮭も忘れません。少し歩いた林の中、あらかじめ用意していた”落とし穴”に向かって。
 落とし穴に着いた蓮さんは、そこに軍人さんを落としました。10メールくらいある落とし穴。落下の衝撃で軍人さんは目を覚ましました。
「いててて……」
鮭で殴られたからか、落下したときに打ち付けたのか、何箇所か骨折しているようです。そんな彼が穴の入り口を見上げます。夜空にお月様がキレイなのですが、痛みと不安でそれどころじゃありません。ジャンプはもちろん、登ろうにも泥濘んだ壁のこの穴から、自力で脱出することは不可能です。
「残念だったね。筋力とかが非常識に強化されたとしても、形がある以上、何かしらの物理的な制約を受けるんだ。さて」
そう言って見下ろす蓮さん。新巻鮭を穴に落としました。
「もし、飢えて苦しくなったら、その鮭を食べていいよ」
それだけ言って立ち去ってしまいました。
 ひとり取り残された軍人さん。実は、ちょっとホッとしていました。蓮さんの気配が無いことを確認して、小型の音響装置を穴の外に投げました。そう、無線通信はできなくても、人間の耳には聞こえない高周波数の音波を使って、SOSを出すことはできます。
「早く来てくれよ……」
痛みと不安だけでなく、解け始めた鮭の生臭さが、一層彼を残念な気分にします。でも、数分で救助部隊が現れるので、それまでの辛抱です。

 ちなみに、他の2匹がどうやって退治されたのか、ちょっとだけお話しますね。蓮さんを殺そうと、2匹の鬼は家庭科室に入りました。しかし、真っ暗な室内に彼の姿はありませんでした。懐中電灯の灯りもなく、完全な闇に蓮さんは紛れたのです。
 夜目が利くであろう鬼たちは、彼の姿がなくて動揺していました。家庭科室には隠れられるような場所はなく、どうせ机の下に隠れているだろうと考えたのです。でも、2匹で部屋を見て回って、彼を見つけられなかったのです。
 そんなとき、鬼さんは足元に懐中電灯が転がっていることに気づきました。化け物なら、それを手に取ることも、”使おうとすること”も無かったでしょう。でも彼らは、鬼に変身しただけの人間です。暗いなら、灯りを点けてしまうのです。
 彼らが電灯のスイッチをONにしたとき、それは起こりました。点灯と同時に、爆発が起きたのです。
 さて、蓮さんは何をしたのでしょう?彼が持っていたのは、小麦粉と懐中電灯だけです。そう、可燃性の粉と着火するためのスイッチです。
 粉塵爆発というものがあります。密閉した空間に、可燃性の粉末が充満していると、ちょっとしたことで着火して、連鎖反応で炎が燃え上がるという現象です。蓮さんは家庭科室に入ると同時に懐中電灯をOFFにして電球がスパークするようにガラスを外し、部屋には小麦粉をばら撒きました。そして、納品されたばかりで電源を入れていない、大型の冷蔵庫に身を隠したのです。懐中電灯を拾った鬼が、灯り欲しさにスイッチONにすることを見越して……
 爆発で吹き飛んだ鬼は、あまりのショックで失神してしまいました。それを確認したあと、蓮さんは特注の冷凍庫から、新巻鮭を取り出したのです。
 「残念だったね。さて、こいつらを拘束しておいて」
蓮さんはそう言って微笑み、家庭科室をあとにしました。彼と入れ替わりに篠原さんこと、汚れ髪さんが現れて……
「”自見の覚語をもって、他力の旨を乱るることなかれ”……か」
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登場人物紹介

羽矢亜麻乃(はねやあまの)(17)

本作ではヒロインとして、蓮野久希の協力者として活躍する、大人びた美少女。

蓮に惹かれながらも、親友の早苗沙希を想い、一線を引いて彼と接する。

”親に言えない願い事(ペットが欲しい)”のスキルで、クマパンチ炸裂!

蓮野久季(はすのひさき)(21?) 通称:蓮(レン)

本作では、飯嶋蓮乃(いいじまはすの)(23)と名乗り、記憶喪失なのか多重人格なのかを疑わせる、相変わらずの問題児的主人公。

物語の核である、「グラマトン、プラヴァシー、継承者、閉じた輪廻」に密接に関わる、左利きの男。

本作では遂に、その正体が見えてくる。

桜苗沙希(さなえさき)(16)

ちょっと天然な、お菓子系の美少女。

蓮に惹かれ恋人になるが、本作では再開した彼に戸惑うだけである。

しかし、「特異点、欠片」という、特別な秘密があり、蓮との出会いは偶然ではないのかもしれない……

輝月舞輪(きづきまり)(27)

物語の途中で姿を見せる、美人過ぎる音楽教師。

かつて蓮と出会った薄幸の女性。彼女との再会が物語を加速させ、蓮は前世の自分たちとプラヴァシーを受け入れる。

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