「恥」言う言葉は辞書にはない

文字数 1,058文字

前に述べたことだと思うが、わたしは人見知りは一切せず、恥じらいというものを持ったことがない子供だったと思う。
初めて会った人に突拍子もないことを聞いて何年間も根に持たれたり(冗談にしてもらっているので感謝している)
初めて会った見ず知らずの人に質問をして
「会話のきっかけをつくってくれてありがとう」
と感謝されたり、
飛行機で隣に座った知らない人と友達になって着陸したり
わたしの行動は「大胆」で、「羞恥心がない」ものなのだと思う。
しかしわたしは一時期、人前で話す際に「人見知り」のような恐怖心を持っていたことがある。
この恐怖心を発揮していた2年間の間は、人前に出ると頭が真っ白になり、何も言えなくなるほどだった。この状態に陥ったのは学校での「自己紹介」の時間だった。
2年間、年度の始まりに自己紹介をし、3年目から、「自己紹介」を聞くクラスの人間を眺めているうちに気がついた。
「この人たちは壇上で話している人が今日何を言おうと、1年後には一言たりとも覚えてはいない。」
それが事実かどうかは個人の記憶力や発言の影響力に依存するので絶対的に正だとは言えない。しかしその考えを実装してからは、人前で話すことへの恐怖心はなくなった。
「わたしが今何を言おうと誰も1年後、16年後、50年後には覚えていない。」
後から考えればこれはわたしが完全・完璧を求めるが故、わたしが何を言えば正解なのかがわからず、
「自己紹介のフリースタイルさ」
に滅入っていただけだったと思う。
わたしは一度この考えを持って大勢の人前で話す恐怖心を取り除いたことがある。そして、今でも同じ考えのもと状況を打破することもある。しかしこの論理は大人になった今、全ての状況に当てはまるものではないということもまたよくわかっている。
わたしが提案する企画書は今後開発に使われて、わたしの発言は長期的な影響をもたらすかもしれない。
わたしのスピーチが録画されていて、長い間色々な人に聴かれるかもしれない。
相手が子供であれば、子供の柔らかい脳にすぐにわたしの発言を情報として吸収し、一生の教えかのように覚えているかもしれない。
しかし過去にわたしが持っていた恐怖心は
「わたしの行動、および発言に欠ける完全性」に対してのものだった。
つまりわたしが完全に自分が満足するほどのパフォーマンスを発揮して、長期間受け継がれても問題がない発言ができるならば、その恐怖心は特段支障をもたらすものではないのだ。
わたしは恐怖心の塊であるが、恥という感覚はわたしの恐怖心の中に宿るものではないと認識している。
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