社会的な差別、区別に疎い

文字数 1,186文字

わたしは幼い頃から、いじめられている子を見てもいじめられていると判断できていなかった。いつも通り話しかけては、「何故頻繁に不在なのだろう」と不思議に思っていた。
いじめられている子に話しかければ自分もいじめられるからと、いじめられている子を避けて通る人たちの考えも共有せず、わたしにとっていじめられている子は「あまり学校に来ない子」に他ならなかった。
そしてわたしはそのまま大人になり、今日では盲目の人を見ても、手足がない人を見ても肌の色の違う人を見ても、背の高い人を見ても小さい人を見ても、警察官を見てもコンビニの店員を見ても差別的・区別的な感情は一切抱かない。抱かないようにしているわけではなく、自然と抱けないのできっとある種族の人たちからすれば「無神経な態度」につながっているかもしれないし、普段から差別を受け慣れている人たちからすれば「ありがたい」態度なのかもしれない。
例えば、わたしの目の前に肌の色で差別を受けている人がいて悲しんでいたとしても、何が悲しいのか、その人の何がどう差別・区別の対象になるのかがわからない。「何をして欲しいのか」を個人的に聞くことはできる。しかし「大変だったね。辛いよね。差別を受けているんだったらこういったことをしてあげます。」といった反応にはならない。それを相手が求めているという確証もない。
目の前に耳が聞こえない人がいたら、どうすれば良いのかを聞いたり、考え出して、例えば筆談しようと試みたり、視覚に関係のないことをして一緒に時間を過ごすことはできるだろう。
「耳が聞こえなくてかわいそう」「耳が聞こえない人には近づかないでおこう」と言う考えにはまずならない。相手はわたしと同じ普通であり、一人の個人なのだ。
人間はみんな個人の主観では己を「普通」だと思っている(普通じゃないと言い張る人もいるだろうが、基本的に「常識」とは各々の主観からなる認識だと理解しているし、それは各個人が持つ「普通」という感覚から成り立つ物だと思う)し、客観的に見れば全員が全員「異なる」。
それをすることで利益が生まれるのならば一人一人ある程度のカテゴリには振り分けることができるだろうけど、そのカテゴリの振り分けによって区別する対象になるとは思えない。
もう一つ例を出そう。例えばわたしが、50代半ば、肩につくほどの黑髪で中肉中背の女性10人に石を投げられたとしよう。そうしたらわたしは50代半ば、肩につくほどの黑髪で中肉中背の女性に近寄りたくないと思うだろうし、50代半ば、肩につくほどの黑髪で中肉中背の女性は怖いものだと認識をするようになるだろう。
このように、自分が受けた経験からある一定の層を怖がったり、距離を置くことはあると思う。
しかしこのように独自のルールがあるわたしたちからすれば、世間一般が思う区別、差別には基本的には同意していないと思っていい。
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