人肌の似姿 2—4
文字数 2,052文字
*
夕焼けの紅が薄闇にかわる。
やがて、濃密な夜がやってくる。
ワレスたちの仕事は、そのころ始まる。
砦の東に広がるのは、誰一人として、その奥に到達したことのない暗黒の森。
いったい、どれだけ広いのか、その奥がどうなってるのか。誰も知らない。
わかるのは、そこが人間にとっては地獄だということ。
猛毒を持つ虫。
人を狂わせる花。
強酸を放つ木。
凶暴な大型獣。
何より恐ろしいのは、低脳な獣とはあきらかに異なる、異様な生き物。魔族である。
やつらは人間をあやつり、あるいは食物にし、人とは対立する価値観のもとに行動する。
ユイラ皇帝国開闢 の五千年の昔から、人間はやつらと戦ってきた。
やつらが我が物顔に国じゅうを横行していたころは、世界はもっと混沌としていた。
やつらに対抗するため、人間は魔術に力を求めた。三つの子どもでも魔術をもちいたと言われる魔術全盛時代。
その時代の熾烈 な闘争の結果、人間は魔族を滅ぼし、平和がやってきた。国内で魔物を見かけることはなくなった。
魔神と呼ばれるほどの強大な魔族は、神々との戦いにより封印されたという。
それは伝説だ。
ただし、すべての魔物が滅びたわけではない。国を追われた残りの魔物は、ユイラの国境をこえ、人の手の入っていない東の原生林のなかで生き続けている。
ワレスたち砦の兵士が守っているのは、その魔族の森との境界線だ。
砦の二重の塀と水堀をこえて、やつらが侵入してきたときには、身を盾にして戦わなければならない。
——そういうことを、昼のあいだじゅう、ワレスはエミールに話してきかせた。
だが、この新米の命知らずは、どうも、いまひとつ理解してない。
「ねえ、隊長」
昼間、あれほど人でにぎわった前庭。
夜になれば、ほぼ無人だ。
ワレスたちが見まわるのは、この前庭のごく一部だ。大部分が石畳の前庭のなかで、土がむきだしになった東端のあたりだ。籠城 にそなえた果実酒用のザマの林になっている。
闇の六刻。
大部分の兵士がもっとも深い眠りにつく真夜中。
ワレスはエミールと二人で、ザマ林のなかを歩いていた。夕刻から真夜中にかけての見張りをする第四分隊と、さきほど交代したところだ。
前庭には、衛兵のもつ松明 の明かり以外、光はない。
「ねえ、隊長。聞いてるの?」
さっきから何度、注意したことか。
黙れと言って、しばらくはおとなしくしてるのだが。ものの数分もすると、エミールは話しかけてくる。
「ねえ、隊長。あんた、いくつ?」
闇六刻から、明の一刻まで、五刻のあいだ、前庭の見まわりをするのが、ワレスの分隊の仕事だ。
じっさいには、一、二班と、三、四班の二班ごとに、二刻半ずつ交代で見張る。
分隊長のワレスは一班。さきに見まわりするほうだ。
行動の基本は二人組み。
定位置にいる他の四組み、八人のあいだを巡回していく。
ちゃんと隊長が見張ってないと、さぼり好きな傭兵は、持ち場をはなれて賭博 に興じたりする。
「ねえ、隊長」
エミールに腕をひっぱられて、ワレスはふりはらった。
「腕をつかむな。もしものとき、剣をぬけなかったら、どうする。もうひとつ、巡回中は、人の年より自分の命の心配をしろ。話していると、不審な音を聞きのがす。私語は禁じる」
「だって、昼間はずっと剣、にぎらされてさ。ろくに話もできなかったし。ねえ、それじゃあさあ。あんたはここに来て何年になるの?」
「まだ三ヶ月だ」
「へえ。隊長してるから、もっと長いのかと思った。じゃあ、ほかにもっと長くいるのは? 二十年とかさ」
「そんなに長く勤めている者は傭兵にはいないだろう。正規兵の将官クラスなら、城主が代わっても、そのまま残っている者がいるかもしれないが」
砦の城主は世襲 制ではない。五年から十年の任期で、皇帝の命を受けて赴任する。
今のボイクド城の城主は、コーマ伯爵という。ワレスが砦に来るちょっと前に入城したばかりの新任城主だ。
「そういう人にはどうやったら会えるんだろう?」
「会って、どうする」
「別に」
「我々のような下っぱが将官に会う機会はない。ひじょうな手柄でもあげれば別だが」
「ふうん……」
なんだかガッカリした顔で、やっとエミールは静かになった。
が、じきにまた、
「あのさあ。じゃあ」と、話しだしたので、ワレスはエミールの頬をかるくぶった。
「三度以上、同じ注意をさせるな。おれは巡回ちゅうは私語を禁じると言ったぞ」
エミールはビックリしたように、ワレスを見つめている。
「痛い……」
「あたりまえだ。痛むようにしたんだ」
「おれ、ぶたれたの……初めて」
エミールの色違いの両目から涙がこぼれる。
ワレスはあきれるのを通りこして、胸くそが悪くなった。
初めてぶたれたといって、子どものように泣くエミール。世間知らずにもほどがある。
「行くぞ」
ワレスが背をむけると、エミールはおとなしくついてきた。
用水路わきのふみかためられた通路。
やせほそった死人の指のように、暗い空をさす木々。
そのあいだを、足音をひそめて歩く。
夕焼けの紅が薄闇にかわる。
やがて、濃密な夜がやってくる。
ワレスたちの仕事は、そのころ始まる。
砦の東に広がるのは、誰一人として、その奥に到達したことのない暗黒の森。
いったい、どれだけ広いのか、その奥がどうなってるのか。誰も知らない。
わかるのは、そこが人間にとっては地獄だということ。
猛毒を持つ虫。
人を狂わせる花。
強酸を放つ木。
凶暴な大型獣。
何より恐ろしいのは、低脳な獣とはあきらかに異なる、異様な生き物。魔族である。
やつらは人間をあやつり、あるいは食物にし、人とは対立する価値観のもとに行動する。
ユイラ
やつらが我が物顔に国じゅうを横行していたころは、世界はもっと混沌としていた。
やつらに対抗するため、人間は魔術に力を求めた。三つの子どもでも魔術をもちいたと言われる魔術全盛時代。
その時代の
魔神と呼ばれるほどの強大な魔族は、神々との戦いにより封印されたという。
それは伝説だ。
ただし、すべての魔物が滅びたわけではない。国を追われた残りの魔物は、ユイラの国境をこえ、人の手の入っていない東の原生林のなかで生き続けている。
ワレスたち砦の兵士が守っているのは、その魔族の森との境界線だ。
砦の二重の塀と水堀をこえて、やつらが侵入してきたときには、身を盾にして戦わなければならない。
——そういうことを、昼のあいだじゅう、ワレスはエミールに話してきかせた。
だが、この新米の命知らずは、どうも、いまひとつ理解してない。
「ねえ、隊長」
昼間、あれほど人でにぎわった前庭。
夜になれば、ほぼ無人だ。
ワレスたちが見まわるのは、この前庭のごく一部だ。大部分が石畳の前庭のなかで、土がむきだしになった東端のあたりだ。
闇の六刻。
大部分の兵士がもっとも深い眠りにつく真夜中。
ワレスはエミールと二人で、ザマ林のなかを歩いていた。夕刻から真夜中にかけての見張りをする第四分隊と、さきほど交代したところだ。
前庭には、衛兵のもつ
「ねえ、隊長。聞いてるの?」
さっきから何度、注意したことか。
黙れと言って、しばらくはおとなしくしてるのだが。ものの数分もすると、エミールは話しかけてくる。
「ねえ、隊長。あんた、いくつ?」
闇六刻から、明の一刻まで、五刻のあいだ、前庭の見まわりをするのが、ワレスの分隊の仕事だ。
じっさいには、一、二班と、三、四班の二班ごとに、二刻半ずつ交代で見張る。
分隊長のワレスは一班。さきに見まわりするほうだ。
行動の基本は二人組み。
定位置にいる他の四組み、八人のあいだを巡回していく。
ちゃんと隊長が見張ってないと、さぼり好きな傭兵は、持ち場をはなれて
「ねえ、隊長」
エミールに腕をひっぱられて、ワレスはふりはらった。
「腕をつかむな。もしものとき、剣をぬけなかったら、どうする。もうひとつ、巡回中は、人の年より自分の命の心配をしろ。話していると、不審な音を聞きのがす。私語は禁じる」
「だって、昼間はずっと剣、にぎらされてさ。ろくに話もできなかったし。ねえ、それじゃあさあ。あんたはここに来て何年になるの?」
「まだ三ヶ月だ」
「へえ。隊長してるから、もっと長いのかと思った。じゃあ、ほかにもっと長くいるのは? 二十年とかさ」
「そんなに長く勤めている者は傭兵にはいないだろう。正規兵の将官クラスなら、城主が代わっても、そのまま残っている者がいるかもしれないが」
砦の城主は
今のボイクド城の城主は、コーマ伯爵という。ワレスが砦に来るちょっと前に入城したばかりの新任城主だ。
「そういう人にはどうやったら会えるんだろう?」
「会って、どうする」
「別に」
「我々のような下っぱが将官に会う機会はない。ひじょうな手柄でもあげれば別だが」
「ふうん……」
なんだかガッカリした顔で、やっとエミールは静かになった。
が、じきにまた、
「あのさあ。じゃあ」と、話しだしたので、ワレスはエミールの頬をかるくぶった。
「三度以上、同じ注意をさせるな。おれは巡回ちゅうは私語を禁じると言ったぞ」
エミールはビックリしたように、ワレスを見つめている。
「痛い……」
「あたりまえだ。痛むようにしたんだ」
「おれ、ぶたれたの……初めて」
エミールの色違いの両目から涙がこぼれる。
ワレスはあきれるのを通りこして、胸くそが悪くなった。
初めてぶたれたといって、子どものように泣くエミール。世間知らずにもほどがある。
「行くぞ」
ワレスが背をむけると、エミールはおとなしくついてきた。
用水路わきのふみかためられた通路。
やせほそった死人の指のように、暗い空をさす木々。
そのあいだを、足音をひそめて歩く。