2、ボクを、受け取って-1

文字数 2,085文字

 郁也が研究室に入って行くと、松山が先に来ていた。
「お早う」
「おう、郁惠。見たぞ昨日の」
「お兄ちゃん……」
 郁也は声を潜めた。
「昨日のって。まほちゃんが?」
 松山は手許に目を戻し、曖昧に「ああ」と返事した。郁也が目を吊り上げているのを気配で察した松山は、(なだ)めるようにこう言った。
「分かってるって。亭主には内緒だろ。言わねえよ。安心しろ」
 郁也はむすっとして鞄を置き、作業台に向かった。
「相変わらずカワイイな、お前はよ」
 松山の声は笑っていた。郁也の頬は熱くなった。
「お兄ちゃん、ホントにそう思う?」
「何だよ。心細そうな声出して。本当だよ。キレイだよお前は、今でも」
 松山は軽く咳払いして続けた。
「まあ尤も、お前が一番気にしてるあの男なら、お前がどんなんなっても変わらず美しいと思うんだろうけどな」
 郁也は動けない。じっと一点を見つめて黙っていた。
「……見せて遣れよ。喜ぶぞ、あいつ。お前、何を(こだわ)ってるんだ」
 言えない。郁也はただ首を振った。
「お前ら、最近上手く行ってんのか」
 松山の声が一段低くなった。松山は郁也のことを器量ばっかりよくって我が儘な、出来損ないの妹のように思っている。何のかのと言っても、自慢の妹だ。
 郁也は頷いた。身体に昨夜の感触を思い出して、ふっと目許が朱く潤んだ。
「おうおう。カワイイ奴」
 松山はそう揶揄(からか)うように言って郁也の頭をぐいっと押し、自分の作業に戻った。  


 佑輔が大学斡旋のアルバイトを探しに掲示板を見ていると、背後を足音が近付いて、止まった。
「あれ、君、姫ちゃんの彼氏じゃない?」
 ぴっちりしたレザーのパンツにレザーのライダーズジャケット。気障な伊達眼鏡の奥の目が軽薄に笑っている。
「姫ちゃん元気? 講座に分かれてから全然見掛けなくなっちゃってさ」
 佑輔は黙って相手を眺めた。面識はない。人違いかと考えた佑輔は或ることに思い当たった。
「あ。あいつを口説こうとした……」
「あ、いや、あれは単なる礼儀ってヤツで」
 伊達眼鏡は慌てて顔の前で両手を振った。佑輔がふんと鼻息も粗くそいつを見据えた。
「御免御免。君たちの間に割って入ろうなんて、そんな気持ち微塵(みじん)もないから。俺、烏飼(うかい)ってんだ。数学科。君、バイト探してんの」
 佑輔は頷いた。
「夜だけ、週三回くらいの何かないかなと思って」
 昼は既に一本やっている。先輩のツテで農協の営業事務を週に四日。短時間だがラクな仕事だ。それと、家庭教師を二本。
「ふーん。心得とくよ。いつ迄に決めたいとか、ある?」
「特にないけど、ちょっと金要るんだよな」
 烏飼は佑輔の顔をちらっと見た。
「あんた信用出来そうだから、これ渡しとく。俺のビジネス用の名刺。学校の連中には秘密だぜ」
 多分そこ探すよりいいとこ紹介出来ると思うから、テキトーな頃合い見て連絡して。そう言って烏飼は軽く手を挙げ去って行った。


 郁也は学食のテーブルに肘を突き、ふうっと溜息を漏らした。
(お金かあ……)
 佑輔は苦学生覚悟の進学だった。実家は普通の勤め人で、佑輔の小学校の成績に夢を見た両親が彼を地元随一の名門校へ入れ、六年間の中高一貫教育で資産と言えるものは殆ど遣ってしまった。大学へ入ってからは、佑輔は奨学金とバイト代で暮らしているようなものだ。
 正確には、それと郁也の家の援助で。
 ふたりが住む部屋の家賃は淳子が出している。淳子は「このコがひとりで住んでもそのくらいの家賃は掛かるんだから」と言うが、佑輔はそれを気にしている。代わりに光熱費は持とうとしたが、バイトにハマり過ぎた佑輔は体調を崩し、以来郁也は佑輔のバイトを厳しく制限した。そのため、佑輔が負担しているのは食費や雑費の半分だけ。生真面目な佑輔がそれを心苦しく思う気持ちも、郁也には分かっていた。
 郁也の家はゆとりがある方だ。母の淳子は種苗メーカーの研究所の所長として充分なサラリーを得ており、父の弘人はアメリカの大学で研究を続けている。ふたりが往復する飛行機代くらいしか目立つ出費もない。
 四年生になって、講義が減った佑輔は事務のバイトを見付けて来た。それ迄は家庭教師の二本だけだったが、週四回の事務も時間はそう長くないし、大きな収入にはならなかろう。自動車学校なら二十万以上必要だ。それだけ稼ぐにはどれだけ働かなくてはならないものか。今からバイトしてお金を貯めて、卒業迄に免許を取り終えているためには。
 郁也はまた溜息を()いた。
 郁也ももうじき卒業研究が始まる。結局郁也は松山と一緒の高分子化学の講座に入ったので、実験実験、また実験の毎日だ。拘束時間が読めず、バイトはそうそう入れられない。自分が働いて稼ぐ手が封じられる。それにもともと郁也はそう丈夫な方でない。一年のとき佑輔が倒れたような、体力勝負のバイトは出来ない。
 郁也は何とか佑輔の力になりたかった。
 佑輔が郁也にくれた沢山のもの、その何分の一かでも返したかった。
 佑輔のお蔭で、今生きていられる自分。佑輔のために、郁也は生きて行きたかった。
 それ以外の処は、結局のところどうでもいい。
 そのために、今、自分が出来ることは。
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