7、ファミリー・アフェア-1

文字数 3,246文字

「えっ。本当か」
 携帯電話を手に、佑輔の顔が見る見る険しいものになる。
 郁也はTVの音量を下げた。
「うん。……うん、そうだな。ああ。分かった。……じゃ」
 通話を切った佑輔の顔は強張っていた。郁也はTVを消した。
「どうしたの。お母さん、何だって」
 郁也はそっとそう尋ねた。佑輔は郁也を振り返った。
「ウチの親父、ガンだって」
「え」
 郁也は数度しか会ったことのない、佑輔の父を思い出そうとした。母そっくりの郁也と違い、どちらかと言うと父似の佑輔。かっちりとした雰囲気のお母さんの横で、いつもお酒で目許を赤くして、よく笑っていたお父さん。郁也は彼を見ると「日本のお父さん」だと思った。事情さえ許せば、もっとああいうひとに甘えて見たいと思っていた。
「お父さんが」
「ああ」
「……悪いの」
「まだ分からん。詳しい話は家族揃ってからって」
 郁也が震えているのを見て、佑輔は無理に笑顔を作った。
「大丈夫さあ。あいつがそんなに簡単にくたばる訳ねえもん。大体今時ガンなんてさ、パッと見付けてサッと切っちゃえば、跡形もなく治るんだろ。心配ないよ」
 そう言って佑輔は郁也の髪をぐしゃぐしゃっと撫でた。郁也はされるままになっていたが、気になってひとつだけ訊いた。
「どこのガン」
「腎臓、だって」
「……そう」
 バイトで互いに忙しい日々で唯一月曜の夜だけが、佑輔の家庭教師が早めに終わり、ふたりでゆっくり過ごす時間を持てる。そんな夜を狙ったような突然の電話。
「それで、いつ」
「何が」
「病院の先生の説明だよ」
「ああ」
 明日の夕方らしいが兄と母が行くからいい。ぼんやりした口調でそう言ったあと佑輔は洗いものに立った。ザーザーと水音を響かせ、いつも通りに食器を洗う佑輔の背中。
 郁也は勢い良く立ち上がった。
「あ、お兄ちゃん。ボク。……うん。あのね、明日の実験なんだけど……」
 佑輔は皿を水切り籠に乗せ終わって後ろを振り返った。そこでは郁也が着々とスケジュールの調整をしていた。
「どうしたんだ、郁」
「佑輔クンも早く。明日はゼミのある日でしょ。誰かに連絡しときなよ、休むって」
 それから農協の方にも。もうこの時間なら連絡付かない? ならそっちは明日の朝イチね。
「郁……」


 翌朝、一泊分の荷物を持ってふたりは駅へ向かった。
 郁也がカードでふたり分の往復切符を買い、ひとり分を佑輔に手渡した。
「済まん」
「何言ってんのさ。非常時でしょ」
 項垂れる佑輔に、郁也は元気よく笑って佑輔の背中を叩いた。
 刈り取られた田んぼに小鳥が遊ぶ。処々にまだ青い畑。何を作っているのか。故郷へ向かう一時間半の列車の景色。
「そう言えばさ」
「うん」
「今年の夏も帰らなかったね」
「ああ」
「お父さん、きっと『たまには帰って来い』ってことかも知れないよ」
「はは。そうだな」
 それにしちゃ、ひと騒がせなヤツ。佑輔はそう言って笑った。
 佑輔が笑う。
 佑輔の笑顔は郁也を幸せにする。
(佑輔クン……) 
 こんなときでも、郁也は列車の席で、佑輔の肩に寄り掛かることすら出来ない。
 故郷の駅に着いて、郁也は迷わずタクシーに乗った。タクシーの中で、郁也は佑輔に手提げ袋を手渡した。
「これ。お母さんと、お兄さんに。こっちの大きい方がお兄さんとこ」
「郁」
 佑輔は驚いて郁也の顔を見た。郁也はいたずらっぽくくすっと笑って付け足した。
「ボクからって、言っちゃ駄目だよ」
 佑輔は何度かパチパチと瞬きして、「分かった」と小さく頷いた。


 病室の廊下に、佑輔の兄が座っていた。「よお。来たな」と顔を上げた兄は、後ろに従いて来た郁也を見て渋い顔をした。兄は郁也を嫌っている。嫌ってはいないまでも、よく思っていないのは確かだった。
 それもやむを得ない。郁也はそう諦めていた。理由があるのだ。
 四年前、まだふたりが東栄学院に通っていた頃。別々に実家に住んでいたふたりは、つい別れ難くて佑輔の家の前で短いキスをしたことがあった。誰の目もないと確認してそうしたのに、運の悪いことに兄がそれを見ていた。それを誤魔化すため郁也は佑輔とひと芝居打ち、兄のことを小馬鹿にするような金持ちの坊ちゃんを演じたのだ。鼻持ちならない坊ちゃんと、引き摺られてその仲間になった弟。兄が苦々しく思ったのも当然だった。
 進学したら一緒に暮らす。そう決めていたふたりにとって、その時点でふたりの本当の関係を知られる訳には行かなかった。もし知られたら、郁也の方はともかく、佑輔の家族は絶対許してくれないと思った。ふたりはただの友人だと押し通すしかなかったのだ。
 兄に嫌われても、結果郁也は佑輔と四年間一緒に暮らすことが出来た。全てを取ることは不可能だ。
(それにどのみち、知られればこのひとたちには、間違いなく嫌われるんだ)
 郁也のような人間は理解されない。分かり切ったことだった。
 だからこそ、郁也は佑輔を大切に思う。理解して、愛してくれるひとになんて、この世で出会えると思っていなかったのだから。
 郁也は控えめに「ご無沙汰してます」と頭を下げた。兄はそれには何とも答えず、佑輔に「そこの四一二号室だ」と指し示した。
「義姉さんは」
「保育園にこども迎えに行った。閉園に間に合わないかも知れないと思って」
「ああ」
 結婚当初、佑輔の「しばらくこどもは作るな」との忠告を守っていたらしい兄も、結婚二年目にして子宝に恵まれた。今年三歳になるだろう。佑輔は「あいつんとこにもうひとり産まれれば、もう俺には何の責任もないな」と笑っていた。郁也は(あと三人じゃないのかな)と思ったが、言わなかった。何を以て責任を果たしたと判定するか。人口統計的になのか生物学的になのか、切り取り方は無数にある。
 佑輔は声を潜めて兄に訊いた。
「悪いのか」
「分からん。詳しいことはこれからだ」
「そうか」
 佑輔は兄の指差した病室へ入って行った。郁也も続く。
「よぉ。どうだ」
「おお。済まんな、忙しいとこ」
 佑輔の父は顔色もよく、病人らしいところがなかった。郁也は佑輔の後ろでそっと安堵の溜息を漏らした。これなら疲れた顔をしたお母さんと入れ替わってもおかしくない。佑輔の母がふたり分の椅子を並べて出した。
「まあ、忙しいのにわざわざ。谷口さんまで」
 お母さんは身体を小さくして済まながる。郁也は佑輔の蔭で遠慮がちに首を振った。郁也は佑輔の父母、特に母には気に入られている。小学校の成績に舞い上がって東栄学院に入れたものの、秀才ばかりが集まるそこで泣かず飛ばずの状態だった佑輔が、地元一の大学に入れたのも郁也のお蔭だと、ふたりは確信しているのだ。そしてそれは事実だった。ふたりで一緒の大学に行く。そのことがふたりをあんなに努力させたのだから。
「何だか顔色いいな。仮病じゃないのか」
「あははは」
 佑輔の軽口に、父は腹を抱えた。
 看護師が呼びに来た。一家はカンファレンス室へ移動する。
「じゃボク、一階のロビーで待ってる」「おう、済まん」そう小さく遣り取りして佑輔は兄の後ろを従いて行った。郁也はひとりエレベーターを降りた。
 病院とは不思議なところだ。ひとはここで産まれここで死ぬ。例外はあるが現在では大半がそうだ。
 郁也は自分が入院したときのことを思い出した。
 あれはここのような基幹病院ではなかった。
 十六歳のとき。
 暗闇の中にずっといるより、僅かに差し込んだ光に去られる方が辛い。十六の郁也はそれを知った。
 学院の二階の窓から転落した郁也は、自死を疑われ精神科医の尋問を何度も受けた。
 それ以来、病院にはどこか恐怖のイメージが付きまとう。
 目の前を親子連れが通り過ぎる。小さなこどもを抱きかかえて小走りに入り口を入って来る女性。その腕が郁也には逞しく見えた。柔らかなピンク色のレインコートから突き出た腕も脚も、細いのに随分力強く感じた。
(「お母さん」って感じかな)
 見るともなしに見ていると、そのひとはすれ違いざま郁也にすっと笑い、頭を下げたような気がした。佑輔の兄嫁も、確かそんな歳だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み