7、ファミリー・アフェア-3
文字数 1,562文字
どうにかして、牧場を脱出した彼は、D大の修士であたしと会った。あたしの修士の一年先輩。そうそう。草壁さんや大野さんと一緒。ふふふ。懐かしい名前ね。
弘人さんったら、自分たちの研究発表から自分の名前を抜いてくれって言ったりして。普通じゃなかったわ。お婆さまの耳に自分の研究成果の及ぶのが、よっぽど怖ろしかったみたい。研究の成果をひとに譲るなんて、あたしから見れば何のために研究室に入ったのか分からない。本末転倒だと思ったわ。どうしてこのひと、そんなおかしなことを考えるんだろうって不思議に思ったの。それが始まり。
だから、あんな強烈なお婆さまがいなくて、あのひとがノイローゼ寸前になってなければ、あたしがあのひとに興味を持つこともなかったのよね。そうしたらあたしはここで所長さんになることも、今ここでこうしてあなたと向かい合っていることもない。
そう思うたび。人生って不思議なものだなあと思うの。
それからのあたしは必死よ。あのひとをあの世界から引き摺り出すことに。何とかしてあのひとを救い出したかったの。
そうして、あのひと、明るく笑ってくれるようになった。
「だから。分かるでしょ。あたし、あなたには自分の人生を、自分の幸せのために生きて貰いたいの。あなたって、似てるから、弘人さんに」
郁也は頬杖を突く振りをした。そうして目許を軽く押さえ言った。
「そう? 似てる、ボク」
「そっくりよ! いつもいつも自分を後回しにするところとか、進んで誰かのために苦労しちゃうようなとこがね」
郁也は「驚いたな」と小さく言った。
「佑輔クンも、同じこと言ってた……」
「ほらね」
淳子は自分の手柄のように誇らしげに胸を反らせた。
「心配になるのよ、あなた見てると。みぃんなね」
最後はしんみりそう言って、淳子はグラスの中身を飲み干した。
久し振りの自分の部屋。茶色のカーテン、ベージュの絨毯。
ゆっくり手脚を伸ばして眠るのも、いい。
ほろ酔い気分でパジャマに着替えたとき、ケータイが鳴った。郁也は飛び付いた。
「佑輔クン」
(ああ、郁。何してた)
郁也はケータイを握り締めた。
「何も。淳子サンとご飯食べて、今自分の部屋に上がって来たとこ。佑輔クンは」
(ああ。似たようなもん。……郁、ちゃんとメシ食ったかなと思って)
佑輔はそう言って自分の言葉に笑った。
(心配ないよな。お母さんと一緒なんだから)
「佑輔クン……」
郁也は電話の向こうの佑輔をとてつもなく愛おしく感じた。声は聞こえるのに、その身体がここにないなんて。今このときに、自分を抱き締めてくれないなんて。
(郁? どうした)
「何でもない。ただちょっと、淋しくなっただけ。だっていつも一緒なんだもん」
ふふふ、と笑って郁也は言った。明るくしてないと。佑輔クン、自転車でボクの家まで飛んで来ちゃう。だって、前にそんなことあったもんね。
幾ら何でも、付き合い初めの頃ならともかく、五年も付き合った今なら、ないかそんなこと。
(ああ。やっぱり郁もウチに呼べばよかった。もしくは俺がそっちに泊まるか)
「佑輔クン?」
(郁がそうやって電話で笑うと、実は泣いてるんじゃないかって、俺気になって気になって)
今にも錆だらけの自転車で、郁の家まで確かめに行っちまいそうになるよ。
佑輔クン……。
(郁? 郁、どうした?)
「佑輔クン」
受話器の向こうでほっとした空気。
(何だ)
「……愛してる」
今度は沈黙。きっと真っ赤になって固まってる。ふふふ、可愛いひと。
このひとは、ボクのものだ。
「明日、病院で会おう。何か足りないものあったら、いつでも電話して。ボク、自由に動けるから。何でも言ってね」
(分かった)
ありがとう、郁。ううん、いいんだ。郁?
「ん?」
(俺も、愛してるよ)
郁也はケータイを佑輔の代わりに抱き締めて眠った。
弘人さんったら、自分たちの研究発表から自分の名前を抜いてくれって言ったりして。普通じゃなかったわ。お婆さまの耳に自分の研究成果の及ぶのが、よっぽど怖ろしかったみたい。研究の成果をひとに譲るなんて、あたしから見れば何のために研究室に入ったのか分からない。本末転倒だと思ったわ。どうしてこのひと、そんなおかしなことを考えるんだろうって不思議に思ったの。それが始まり。
だから、あんな強烈なお婆さまがいなくて、あのひとがノイローゼ寸前になってなければ、あたしがあのひとに興味を持つこともなかったのよね。そうしたらあたしはここで所長さんになることも、今ここでこうしてあなたと向かい合っていることもない。
そう思うたび。人生って不思議なものだなあと思うの。
それからのあたしは必死よ。あのひとをあの世界から引き摺り出すことに。何とかしてあのひとを救い出したかったの。
そうして、あのひと、明るく笑ってくれるようになった。
「だから。分かるでしょ。あたし、あなたには自分の人生を、自分の幸せのために生きて貰いたいの。あなたって、似てるから、弘人さんに」
郁也は頬杖を突く振りをした。そうして目許を軽く押さえ言った。
「そう? 似てる、ボク」
「そっくりよ! いつもいつも自分を後回しにするところとか、進んで誰かのために苦労しちゃうようなとこがね」
郁也は「驚いたな」と小さく言った。
「佑輔クンも、同じこと言ってた……」
「ほらね」
淳子は自分の手柄のように誇らしげに胸を反らせた。
「心配になるのよ、あなた見てると。みぃんなね」
最後はしんみりそう言って、淳子はグラスの中身を飲み干した。
久し振りの自分の部屋。茶色のカーテン、ベージュの絨毯。
ゆっくり手脚を伸ばして眠るのも、いい。
ほろ酔い気分でパジャマに着替えたとき、ケータイが鳴った。郁也は飛び付いた。
「佑輔クン」
(ああ、郁。何してた)
郁也はケータイを握り締めた。
「何も。淳子サンとご飯食べて、今自分の部屋に上がって来たとこ。佑輔クンは」
(ああ。似たようなもん。……郁、ちゃんとメシ食ったかなと思って)
佑輔はそう言って自分の言葉に笑った。
(心配ないよな。お母さんと一緒なんだから)
「佑輔クン……」
郁也は電話の向こうの佑輔をとてつもなく愛おしく感じた。声は聞こえるのに、その身体がここにないなんて。今このときに、自分を抱き締めてくれないなんて。
(郁? どうした)
「何でもない。ただちょっと、淋しくなっただけ。だっていつも一緒なんだもん」
ふふふ、と笑って郁也は言った。明るくしてないと。佑輔クン、自転車でボクの家まで飛んで来ちゃう。だって、前にそんなことあったもんね。
幾ら何でも、付き合い初めの頃ならともかく、五年も付き合った今なら、ないかそんなこと。
(ああ。やっぱり郁もウチに呼べばよかった。もしくは俺がそっちに泊まるか)
「佑輔クン?」
(郁がそうやって電話で笑うと、実は泣いてるんじゃないかって、俺気になって気になって)
今にも錆だらけの自転車で、郁の家まで確かめに行っちまいそうになるよ。
佑輔クン……。
(郁? 郁、どうした?)
「佑輔クン」
受話器の向こうでほっとした空気。
(何だ)
「……愛してる」
今度は沈黙。きっと真っ赤になって固まってる。ふふふ、可愛いひと。
このひとは、ボクのものだ。
「明日、病院で会おう。何か足りないものあったら、いつでも電話して。ボク、自由に動けるから。何でも言ってね」
(分かった)
ありがとう、郁。ううん、いいんだ。郁?
「ん?」
(俺も、愛してるよ)
郁也はケータイを佑輔の代わりに抱き締めて眠った。