5、あなたを、誰にも渡さない-9

文字数 1,638文字

 誰も見てない。誰が見てても構わない。
 郁也は自転車の荷台に載り、佑輔の身体にしっかり腕を巻き付けた。
 佑輔は背中に天使の体温を感じ、その軽さを何よりも愛おしく思った。
 きらめくネオンの巷を抜け、静まり返ったオフィス街を通り過ぎ、深夜の街を自転車は走った。
「ごめんな、連絡しなくて」
 怒ってるか、と躊躇いがちに佑輔は訊いた。郁也は頬を佑輔の背中に付けたまま首を振った。
「ううん。怒ってないよ。いいんだ。佑輔クンが無事にいてくれただけで」
 何かあったのかって、心配しちゃった。
 郁也はそう言って小さく笑った。その声はすっかり掠れていた。ガラガラと煙草で潰した婆さんのような声だった。
「泣かせたな、俺」
 佑輔はしょんぼりとそう言った。
「佑輔クン……」
「松山にバレたら俺、また殴られる。いや、チャンスは一度きりって、今度こそ郁を取り上げられちまうかな」
「駄目だよそんなの。ボク、生きてけないもん」
 ……佑輔クンがいないと。郁也は消え入りそうな声で言った。泣き過ぎて潰れた声が切なく耳に残る。
「郁」
「ん」
 赤信号に佑輔は自転車を止めた。佑輔は自転車を降り、後ろを振り返った。見上げる郁也を見つめていたが、佑輔は素早く身を屈めその唇にキスをした。
「佑輔クン……」
 唇が離れ吐息のあと、郁也は佑輔を甘く見上げた。
「郁。……俺の、天使」
 キレイだよ。何よりも。
 ふたりの傍らを地響きを立てて長距離トラックが走り去った。轟音に佑輔の唇が何と言ったのか、郁也には聞こえなかった。だが。
 佑輔の唇はこう動いた。
(愛してる)
 佑輔クン。
 ボクも。
 ボクも……。
 また泣き出した郁也の肩をぎゅっと抱いて、佑輔は自転車を走らせた。


 何度も。
 何度も。
 ボクを抱いて。抱き締めて。
 佑輔クン。
 途方もなく甘い時間。
 気が狂うほど幸せで、身体が溶け合うほど熱くって。
 濃密な時間をふたりは過ごした。
 郁也の咽から漏れる喘ぎが佑輔の欲望を駆り立てる。
 佑輔の荒々しい動きが郁也の理性を弾き飛ばす。
 もう、離れない。
 このままずっとふたりでいよう。
 佑輔の囁きが郁也の耳朶を擽る。思わず郁也は背を撓らせる。
 揺れるカーテンの向こうに朝焼けが拡がっても。
 ふたりは与え合う感覚の海に溺れ続けた。


 ピロピロピロピロ。
 郁也は重い腕を伸ばしてケータイを取った。
「……はい、もしもし」
(あ、姫ちゃん。俺)
 烏飼だった。
 郁也は佑輔に抱き締められたまま、ケータイを耳に当てた。
「ああ。烏飼君。昨日は御免。ボク、すっかり慌ててて」
 迷惑、掛けたね。……須藤君にも。
 郁也は気怠くそう言った。烏飼は一瞬押し黙った。
「ありがとう」
(いや。こっちこそ御免。俺の紹介したバイト先でさ)
 いいんだ。郁也は、目を閉じた。もう、いい。
 改まって烏飼は尋ねて来た。
(姫ちゃん。次学校に行くのって、いつ)
「ええ? ああ、うーん。火曜の、午後かな。……うん。三時頃。そう、実験」
 あ。郁也はきゅっと目を閉じた。佑輔が郁也の胸を噛んだ。
「うん。分かった。じゃね」
 郁也は手から落とすようにケータイを離した。
「烏飼、何だって」
「あ。あぁ。……何か、ボクに話があるって。次の実験のときに会おうって」
 郁也の細い身体は痙攣した。小さな、しかし鋭い叫びが白い歯の間から漏れる。佑輔は指を休めない。
「あいつが郁に何の用だよ」
 知らないよ。きっとボクを心配させた、その詫びを言いたいんだろう。息も絶え絶えで、郁也はそう答えるのがやっとだった。ゆるやかに反応した身体に佑輔が決定的な一打をくれる。郁也は掠れた声で叫んだ。
「本当にそれだけか。郁。あいつ、郁に何かしようってんじゃないんだろうな」
 そんなこと、ないと思う。どうして分かるよ。だって。
「だって、烏飼君今夢中になってるひといるもん」
 頭に血が昇って見境なく殴りつけてしまうほど夢中な相手。
「そうなのか」
 もう、郁也は答えられない。
 ロゴスは郁也の許を飛び去り、パトスだけが残された。
 最高に。
 幸せ。
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