4、くまさんのハンバーグ-7
文字数 2,647文字
くすんと鼻を鳴らして、郁也はシャワーの音を聴いた。郁也が煙草の煙を好かないので、キャバクラの仕事が終わると佑輔は何よりも先に匂いを落とす。煙草と、それから脂粉の匂い。佑輔は郁也を大事にして気遣ってくれている。
短い時間で、佑輔は風呂場から出た。大急ぎで髪を乾かし、膝を抱えうずくまる郁也の前に手を突いた。
「郁。もう泣いてないな。よし」
佑輔は郁也の頬を確かめると、そのまま郁也の頭を抱き寄せた。
「遅くなってごめんな。心配させたよな」
「佑輔クン」
郁也はまた泣きそうになり慌てて深呼吸した。
「郁?」
「佑輔クンが送って上げたのって、この間のくまさんのひと?」
「くまさん?」
佑輔は郁也の頭を離した。少し考えていたが、笑って郁也を覗き込んだ。
「ああ、あの差し入れな。そうだよ。よく分かったな」
ひょっとして超能力? そう言って佑輔は郁也の頬を突っついた。
「分かるよ。その女のひと、佑輔クンのこと狙ってるんだ」
「狙ってる? 俺を?」
「そうだよ。気付かない?」
佑輔は首を捻る。
「さあ……。よく分からんな。俺みたいな貧乏学生、どうしようってんだ」
(H大生っていう肩書きがどんな目で見られるか、分からないの佑輔クン)
将来性を高く買われ、一発逆転を狙う夜の女が目を付ける獲物としては上等だ。中にいると分からないが、外へ出ると見えて来る。郁也も夜のバイトへ行って、初めて世間に自分がどう見られるか知った。
「そのひとに誘われても、付いて行かないで」
「郁……?」
郁也は笑おうとした。せめて涙は見せまいとした。
「もうそのひとを送ってっちゃ駄目。そのひとから、差し入れなんて貰っちゃ嫌だ」
ボク、佑輔クンを取られちゃう。郁也は成る丈明るく言った。佑輔は目を丸くした。
「そんなこと考えてたのか、郁。変なヤツだな」
「だって、女のひとだもん」
郁也は目を伏せた。
「バーカ。どんな女だって、郁ほどキレイじゃないんだって。少なくとも、俺の目にはそう見えるんだって。もっと自信持てよ」
キレイかどうかなんて、人間の価値の中ではほんの小さな一部分だ。
だが、佑輔が言うのは、そんな上っ面一枚のことではない。それは郁也にも分かっていた。分かってはいた。
「本当?」
「本当だよ。郁、これに関しては、俺何度も言ってるぜ。俺の話聞いてくれよ、郁」
さ、もう遅いぞ。佑輔は立ち上がり郁也の腕を取った。
(佑輔クン。ほかのひとのものになっちゃ嫌だよ)
郁也は佑輔の肩にそっと頬を寄せた。
「瀬川くん、甘いもの、好き?」
佑輔はモップ掛けをしていた手を止めて、声のした方を振り返った。
「桃代さん」
童顔で小柄な、少女のような女が、手に小さな折を提げて佑輔に笑い掛けた。
「ウチのコ、これ好きなんだ。あたしの帰りが遅くて、あんまり一緒にいられないでしょ。ご機嫌が悪くなると、これ買って帰るの。美味しいよ」
夜の街の中心部で、遅くまで営業している菓子屋。その看板は佑輔もいつも見ていた。帰りの遅くなったお父さんが、家族への詫びに提げて返る土産菓子。佑輔は小さな手が嬉しそうに、マニキュアの光る母の手から折を受け取る図を想像して笑顔になった。素直に手を出し掛けてはっとした。
「そんな、いつもいつも頂けません。先日も差し入れを頂いたのに。どうぞ、お子さんにお持ちになって下さい」
「ウチの分は別に買ったもの。そんなに日持ちしないから。頼むわ」
縋るように佑輔を見上げ、桃代は佑輔の手に菓子を押し付けようとした。控え室からホステスたちが次々と出て来る。口さがない彼女らの冷やかしの的になるのも面倒だ。
「困ったな。じゃ、お言葉に甘えて。休憩のとき、ボーイのみんなで頂きます」
もう、そうじゃなく。桃代は唇を尖らせた。
佑輔はもうそれには取り合わず、急いで掃除の続きに取り掛かった。開店迄に、することは山のようにある。
カウンターの向こうで同じく開店の準備をしていたチーフが、その様子を眺めていた。
佑輔の爽やかな笑顔と真面目な人柄が、ホステスのお姐さん方の人気を集めるのに、そう時間は掛からなかった。お姐さん方に優しくして貰い働きやすい反面、ボーイ同士、客の視線に佑輔は気を遣った。野郎に反感を買ったのでは、この仕事は成り立たない。控えめ、控えめを心掛け、骨惜しみをしなかった。もともとの佑輔の性質からも、そうした働き振りは性に合っていた。
店全体を仕切る支配人の下で、彼ら数人のボーイとフロア及び厨房を切り盛りするチーフの山崎は、佑輔の働き振りを気に入っていた。実年齢は幾つなのか、五十前にはとても見えない山崎はパンチパーマにこけた頬で、ベストと蝶ネクタイがボクシングのレフェリーのようだった。それもドサ周り専門の。
「おぉ、瀬川よう」
「はい」
閉店後、ボーイは翌日準備がしやすいように店内を軽く整備して終わる。持ち上がる椅子はテーブルに上げ、ランプの類を一カ所に集める。酒がこぼれた跡があれば、そこだけざっと拭いて置く。乾くとベタ付いて落ちにくくなるからだ。そうした作業を続けながら、佑輔は声だけで返事をした。
チーフはウーロン茶のコップを揺すりつつ、にやにや笑っていた。
「桃代のヤツ、随分お前にご執心だな」
よっ、色男と山崎は冷やかした。
佑輔は山崎をちらっと見上げ、「勘弁して下さいよ」と呟いた。
「どうしてだよ。『据え膳食わぬは武士の恥』って言うだろ」
上手く逃げればこっちのもんだぜ、と山崎は佑輔の肩を叩く。佑輔は手許に目を落としたまま「俺、好きなコいるんで。もうこれ以上食えないっす」と答えた。
「どうしてだよ。お前さんくらいの歳なら、別腹にナンボでも入るもんだ」
「いやあ、無理ですよ」
「おかしなヤツだなあ。こういう店に働きに来る野郎はみんな、『あわよくば』くらいの気持ち持ってるもんだぜ。それともナニか。桃代みたいな子持ちは駄目か。どんなのだったら食指が動く」
静香か、それとも年増狙いできく乃姐さんか。山崎は面白そうに佑輔の脇腹を突いた。佑輔は振り払ったと感じられないようにそっと身体を離し、今夜使った雑巾をバケツにまとめた。
「一緒に住んでるんすよ俺、そいつと。何かあれば隠しようがない。そいつのこと、泣かせたくないんです」
山崎は鼻白んた。
佑輔はさくさく帰り支度を整え、「失礼します」と店を出た。
郁也の寝顔を思い浮かべてペダルを漕いだ。
俺、好きなコいるんで。
自分の言葉が、佑輔の胸を熱くした。
自転車は深夜のネオン街を、軽やかに走り抜けた。
短い時間で、佑輔は風呂場から出た。大急ぎで髪を乾かし、膝を抱えうずくまる郁也の前に手を突いた。
「郁。もう泣いてないな。よし」
佑輔は郁也の頬を確かめると、そのまま郁也の頭を抱き寄せた。
「遅くなってごめんな。心配させたよな」
「佑輔クン」
郁也はまた泣きそうになり慌てて深呼吸した。
「郁?」
「佑輔クンが送って上げたのって、この間のくまさんのひと?」
「くまさん?」
佑輔は郁也の頭を離した。少し考えていたが、笑って郁也を覗き込んだ。
「ああ、あの差し入れな。そうだよ。よく分かったな」
ひょっとして超能力? そう言って佑輔は郁也の頬を突っついた。
「分かるよ。その女のひと、佑輔クンのこと狙ってるんだ」
「狙ってる? 俺を?」
「そうだよ。気付かない?」
佑輔は首を捻る。
「さあ……。よく分からんな。俺みたいな貧乏学生、どうしようってんだ」
(H大生っていう肩書きがどんな目で見られるか、分からないの佑輔クン)
将来性を高く買われ、一発逆転を狙う夜の女が目を付ける獲物としては上等だ。中にいると分からないが、外へ出ると見えて来る。郁也も夜のバイトへ行って、初めて世間に自分がどう見られるか知った。
「そのひとに誘われても、付いて行かないで」
「郁……?」
郁也は笑おうとした。せめて涙は見せまいとした。
「もうそのひとを送ってっちゃ駄目。そのひとから、差し入れなんて貰っちゃ嫌だ」
ボク、佑輔クンを取られちゃう。郁也は成る丈明るく言った。佑輔は目を丸くした。
「そんなこと考えてたのか、郁。変なヤツだな」
「だって、女のひとだもん」
郁也は目を伏せた。
「バーカ。どんな女だって、郁ほどキレイじゃないんだって。少なくとも、俺の目にはそう見えるんだって。もっと自信持てよ」
キレイかどうかなんて、人間の価値の中ではほんの小さな一部分だ。
だが、佑輔が言うのは、そんな上っ面一枚のことではない。それは郁也にも分かっていた。分かってはいた。
「本当?」
「本当だよ。郁、これに関しては、俺何度も言ってるぜ。俺の話聞いてくれよ、郁」
さ、もう遅いぞ。佑輔は立ち上がり郁也の腕を取った。
(佑輔クン。ほかのひとのものになっちゃ嫌だよ)
郁也は佑輔の肩にそっと頬を寄せた。
「瀬川くん、甘いもの、好き?」
佑輔はモップ掛けをしていた手を止めて、声のした方を振り返った。
「桃代さん」
童顔で小柄な、少女のような女が、手に小さな折を提げて佑輔に笑い掛けた。
「ウチのコ、これ好きなんだ。あたしの帰りが遅くて、あんまり一緒にいられないでしょ。ご機嫌が悪くなると、これ買って帰るの。美味しいよ」
夜の街の中心部で、遅くまで営業している菓子屋。その看板は佑輔もいつも見ていた。帰りの遅くなったお父さんが、家族への詫びに提げて返る土産菓子。佑輔は小さな手が嬉しそうに、マニキュアの光る母の手から折を受け取る図を想像して笑顔になった。素直に手を出し掛けてはっとした。
「そんな、いつもいつも頂けません。先日も差し入れを頂いたのに。どうぞ、お子さんにお持ちになって下さい」
「ウチの分は別に買ったもの。そんなに日持ちしないから。頼むわ」
縋るように佑輔を見上げ、桃代は佑輔の手に菓子を押し付けようとした。控え室からホステスたちが次々と出て来る。口さがない彼女らの冷やかしの的になるのも面倒だ。
「困ったな。じゃ、お言葉に甘えて。休憩のとき、ボーイのみんなで頂きます」
もう、そうじゃなく。桃代は唇を尖らせた。
佑輔はもうそれには取り合わず、急いで掃除の続きに取り掛かった。開店迄に、することは山のようにある。
カウンターの向こうで同じく開店の準備をしていたチーフが、その様子を眺めていた。
佑輔の爽やかな笑顔と真面目な人柄が、ホステスのお姐さん方の人気を集めるのに、そう時間は掛からなかった。お姐さん方に優しくして貰い働きやすい反面、ボーイ同士、客の視線に佑輔は気を遣った。野郎に反感を買ったのでは、この仕事は成り立たない。控えめ、控えめを心掛け、骨惜しみをしなかった。もともとの佑輔の性質からも、そうした働き振りは性に合っていた。
店全体を仕切る支配人の下で、彼ら数人のボーイとフロア及び厨房を切り盛りするチーフの山崎は、佑輔の働き振りを気に入っていた。実年齢は幾つなのか、五十前にはとても見えない山崎はパンチパーマにこけた頬で、ベストと蝶ネクタイがボクシングのレフェリーのようだった。それもドサ周り専門の。
「おぉ、瀬川よう」
「はい」
閉店後、ボーイは翌日準備がしやすいように店内を軽く整備して終わる。持ち上がる椅子はテーブルに上げ、ランプの類を一カ所に集める。酒がこぼれた跡があれば、そこだけざっと拭いて置く。乾くとベタ付いて落ちにくくなるからだ。そうした作業を続けながら、佑輔は声だけで返事をした。
チーフはウーロン茶のコップを揺すりつつ、にやにや笑っていた。
「桃代のヤツ、随分お前にご執心だな」
よっ、色男と山崎は冷やかした。
佑輔は山崎をちらっと見上げ、「勘弁して下さいよ」と呟いた。
「どうしてだよ。『据え膳食わぬは武士の恥』って言うだろ」
上手く逃げればこっちのもんだぜ、と山崎は佑輔の肩を叩く。佑輔は手許に目を落としたまま「俺、好きなコいるんで。もうこれ以上食えないっす」と答えた。
「どうしてだよ。お前さんくらいの歳なら、別腹にナンボでも入るもんだ」
「いやあ、無理ですよ」
「おかしなヤツだなあ。こういう店に働きに来る野郎はみんな、『あわよくば』くらいの気持ち持ってるもんだぜ。それともナニか。桃代みたいな子持ちは駄目か。どんなのだったら食指が動く」
静香か、それとも年増狙いできく乃姐さんか。山崎は面白そうに佑輔の脇腹を突いた。佑輔は振り払ったと感じられないようにそっと身体を離し、今夜使った雑巾をバケツにまとめた。
「一緒に住んでるんすよ俺、そいつと。何かあれば隠しようがない。そいつのこと、泣かせたくないんです」
山崎は鼻白んた。
佑輔はさくさく帰り支度を整え、「失礼します」と店を出た。
郁也の寝顔を思い浮かべてペダルを漕いだ。
俺、好きなコいるんで。
自分の言葉が、佑輔の胸を熱くした。
自転車は深夜のネオン街を、軽やかに走り抜けた。