染み渡る安寧
文字数 6,728文字
「現在では民俗学という学問があります。民間伝承などを現在に伝える側面を持っています。ミシャグジ様、例え諏訪の方々が貴方様をほとんど覚えていなかったとしても、研究機関の方は知っています。創設当初よりもしっかり研究もされて認知も広がっておりますし、失われそうな風習も復活しつつあります」
ミシャグジ様が顔を勢いよく上げる。その眦には涙が浮かんでいた。
「ほんとう、なのか?
震える声を聞いて反射的に幽子はミシャグジ様を抱き締める。そのまま彼の背中をゆっくりと撫でた。全身が切り裂かれたように痛い。生温い液体が体をつたうのを感じるあたり、出血も少なくないのだろう。それでも幽子は抱き締める手を離さなかった。
「地元の方々と同じくらいの数の人々が既にミシャグジ様をご存知かもしれませんよ。もっとも、地元の方は簡単にミシャグジ様を忘れようとはなさらないかと。千年以上もこの土地と縁がありますから」
すすり泣くミシャグジ様。背中を撫でる幽子の手は止まらない。
「失われようとしても、それでも復活させたがる人間も一定数存在するんです。私の姉のような人もその部類です。それだけミシャグジ様には価値がおありなのですよ」
捨てる神あれば拾う神あり、ですよと付け加えた。
いつまでそうしていたのだろうか。ミシャグジ様はやがて顔を上げて幽子を真っ直ぐに見た。
「そなた……吾の憂いを払ったのか……」
感極まる声でミシャグジ様の口が動いた。
「うーん……そんなつもりではなかったのですが……話をして楽になりました?」
照れたようにぽりぽりと頬をかく幽子。
「誰も……誰もそんな風には言ってくれなんだ……言うとただ祀られるだけだと分かっておったから……」
(誰にもそんなこと言えなかったのね……)
ミシャグジ様はずっと一人だったのだ。誰にも悩みを打ち明けることなく千年以上も耐えてきた。
(独りが辛いのは知っているわ……)
もちろん幽子の感じていた孤独の期間に比べれば途方もなく長い期間ミシャグジ様は独りだ。それでも……
「私も独りでした。天野家に引き取られる前は」
(そんな顔なさらないで)
それを聞いてミシャグジ様の顔が歪んだ。悲しませたくてこんな話をしている訳じゃないのに。
「私は出来損ないでした。兄より霊力が劣り、両親から疎まれました。そしてこんな名前をつけられました。相談できる人なんて……いませんでした。いいえ、誰かに相談するなどという発想すらありませんでした」
どうしてだろう。凄く胸が苦しい気がした。目元に熱が集まって視界が滲むのを感じる。
「でも今は……陽子さんも朋樹さんも、天野君だって……私に良くしてくれます。まるで本当の家族のように」
今度はミシャグジ様が彼女の頭をゆるゆると撫でた。いつの間にか幽子がミシャグジ様に縋り付く形になっている。
「そうか、だからそなたは温かいのだな。真っ先に吾を見つけてくれたし……」
何かを得心したようなミシャグジ様は呟く。
「吾はそなたを気に入った。また諏訪の地に来てはくれぬか」
ミシャグジ様は幽子の頬を両手でやんわりと包んだ。その手の温かさに思わず涙ぐむ。
「ええ、必ず。しかし頻繁に会いたいのでしたら夢に出てきて下さい」
ミシャグジ様は悲しそうに首を振った。
「吾は諏訪の地からは出られぬ。この土地に縁づいているが故に」
「では私と縁を結びましょう」
突然するすると出てきた言葉にミシャグジ様どころか幽子も驚いた。
「縁を結ぶ、だと? そんなことが」
「きっとできます。大国主様は縁結びの神ですもの」
これはただの勘だ。しかし絶対の確信を持てる。大国主命は幽子を気に入っているのだ。呼びかけに応じてくれないはずが無い。
『全く、こんなことで呼び出すとは。浅葱の巫女も中々変わっておる』
呼びかけに応じてくれたようだ。土室に大国主命の低い声だけが辺りに響く。
「お忙しい中ありがとうございます。早速頼みたいことが」
『分かっておる。縁結びだろう? 我は縁結びの神。
あっさり承諾してくれるとは思わなかった。一悶着あると予想していた幽子は間抜けな表情になる。
「え、そんなあっさり」
『して、方法は簡単ぞ。……をすれば完了だ』
(あれ、聞こえなかった)
しかしミシャグジ様にははっきりと聞こえていたようだ。ミシャグジ様は幽子の頬を両手で覆ったまま、顔をゆっくりと近づける。その瞬間、奔流となったミシャグジ様の霊力が、あとからあとから押し寄せて、幽子の身を圧倒した。唐突に起こったことに、幽子は驚愕して身を固くしていたが、彼の霊力が激しかったのは少しの間のみで、幽子の唇からはじんわりと温かい霊力が伝わり、やがて全身を巡った。それを見計らい、ミシャグジ様は顔を離す。無邪気に笑った顔がそこにあった。
「どどど、どういうこと!」
何テンポか遅れて幽子の口から言葉が迸る。
『これにて完了だ。我は見届けたぞ。これで汝の縁は結ばれた』
慌てて唇を両手で隠す。まさかそんなことで縁結びが完了するとは夢にも思っていなかった。
「礼を言う。これで吾は幽子の夢で会えるな」
満足そうな顔のミシャグジ様は、斜め上を眺めて頭を下げた。
『浅葱の巫女の呼びかけに応じただけだ。あまりここにいると汝が疲れる故、これにて失礼する。また会おうぞ、浅葱の巫女』
ふわりと風が吹き、大国主命の霊力が消えた。わざわざ幽界からやって来るのも大変だろうに、呼びかけに応じてくれたのはとても嬉しかった。
(事前に説明はして欲しかったけど)
まさか縁結びの方法が口づけとは、幽子の考慮の外である。他に方法があったのではないかとなじりたかったのに、あっという間に大国主命の霊力が消えてしまい、幽子はくすぶる思いを抱える羽目になった。
(大国主様は何だかノリノリだったわね……面白くないわ)
「そなたに感謝申し上げる。これでいつでも幽子に会えるな! 楽しみだ!」
混じりけのないミシャグジ様の笑顔が眩しい。年相応の少年の笑顔だった。
「さて、そろそろそなたを帰さねばならんな。護衛も待っているであろ?」
(あ、忘れてた。天野君置いてきてたんだった)
「あ、はい、ありがとうございます……ところでここは何処なんですか?」
今更すぎる質問だと幽子は思ったが、あっさりとミシャグジ様は教えてくれた。
「上社前宮だぞ。ここは何百年か昔の風景よ。大木の側にこの土室はあってだな、吾の神域だぞ」
(神域……? 幽界とは違うの?)
「神域とは神霊が持つ固有の領域のことだ。幽界とは似て非なるものよ。なるほど、幽子はそういった場所に来たことはないのだな? 案ずることはない。幽子の肉体はあちらに残したまま故、行方不明になってる訳ではないぞ」
内心を読み取られ、幽子はびくっとしてミシャグジ様を見る。
「神域ではそこにいる者の心は筒抜けだ。吾には幽子のことはまるっとお見通しだぞ」
ミシャグジ様は目を白黒させている幽子を見て、口元に笑みを浮かべる。幽子は恥ずかしくなり、ミシャグジ様から目を反らすため、自身のいる建物を見渡していた。
「かつてこのような物がここにあったのですね……驚きました」
「あの祠はここの跡地だ。ほとんどの参拝客は見逃すが、そなたはすぐに見つけてくれた。嬉しかったぞ」
(見つけたというか、引き込まれたというか)
「もう少し大きければいいですのに……言っても仕方ないかもしれませんが」
「いや、気づいてくれる人の子もおるよ。吾は裏の祭神であるからこの土地にあのような祠があるだけ幸せなことかもしれぬ。さあ、護衛の元に戻るが良い。目を閉じておくれ」
「はい……また会いましょう。ミシャグジ様」
そう言って目を閉じた幽子の頭に小さな手のひらが乗っかった。
「ああ。楽しみにしておるぞ。幽子」
幽子はゆっくりと目を開ける。目の前には小さな祠があった。
(帰って来れたのね……)
「やっと目を覚ましたか」
隣に武瑠がしゃがんでいた。心配そうな表情で幽子の顔を覗き込んでいる。
「あ、私どれくらいここに?」
「数分程だ。祈るにしては長いがお前が思うほど時間は経ってない」
あちらは時間の流れが違うのかもしれない。ミシャグジ様と30分以上話をしていた心地がしていた。実際には数分だったとは。
「ここの神に会ったのか」
幽子は頷く。どうして分かったのだろうかと首を傾げた。
「ええ、ミシャグジ様……守矢大神に会ったわ……」
そっと右手を唇に当てる。ミシャグジ様の湿った唇の感触がまだ残っているような気がした。キスをされる前に頬に触れられた感覚も蘇る。
(嘘……私……まだ誰ともしたことなんて無いのに!)
大国主命といい、ミシャグジ様といい、彼らの考えることがさっぱり分からない。確かにキスは契約を交わす儀式であるのは事実だ。だがこうもあっさりと、キスをしろと言われて引き受けられるようなものなのだろうか。
(ミシャグジ様は人じゃないけども!)
神域にいた時は、頭が半分真っ白になっていたので、声を上げる程度で済んだが、思い返してみると、とんでもないことをしでかしたような気分になり、一向に心拍数は減ってくれなかった。
「どうした、何か言われたのか」
幽子の顔を覗き込んだ武瑠の目と合う。その瞬間幽子は自分の意に反して顔がみるみる紅潮していくのを感じた。
「な、な、何でもないわ!」
目が合っただけなのに、急に照れたような表情をされるのは心外だ。幽子が祈っている間に何かあったことは、その態度が口よりも雄弁に語っている。
「落ち着け」
幽子を立たせて膝についた土を払う。大した汚れになっていなくて良かったと彼は思った。綺麗な色のワンピースが汚れるのを見るのは嫌なのだ。
「色々と聞きたいことはあるが……それは上社本宮に行く途中で聞こう。あの看板を見てくれ」
武瑠は御室社と書かれた看板を指差す。その頃には幽子も落ち着いたようで、彼の指先の延長線上を眺めている。
「お前が考えていたことの答えはきっとこれだろ?
上社に御神木が存在しないのは、ここは
「大祝……現人神……」
(もしかしたら)
「ねえ、ひょっとして現人神って……小学校低学年くらいの男の子?」
「よく分かったな。依代は八歳の男児と決まっていて冬の三ヶ月間は土室と呼ばれる地下室のようなところにこもって神事を行っていたようだ。守矢大神の子孫の守矢氏、大祝の
看板の説明の通りである。中世以後は滅びたがこの神事が存在したと言うから驚きだ。しかも昔は今よりも寒かった筈。
「まさか現人神信仰が残っていたなんて……」
「原初の信仰だろうな。まだ神が人とずっと近かった頃の話なんだろう。あと聞いた話だと神長官がミシャグジ神を笹に降ろし、ソソウ神、つまり蛇神だが……と合わせる儀式という説もある」
蛇は脱皮するから再生の意味合いを持つ。季節の循環を表しているとされる蛇は確かにうってつけかもしれない。
「原初の信仰……
不思議な場所だ。他の土地は既に忘れ去られた信仰もこの諏訪ではひっそりとはいえ残っている。胸が一杯になり、幽子は泣きそうになった。
「神様は自然そのもので……自然の脅威の側面を持っている。祟りってひょっとしたら自然災害のことかしら」
自然に畏敬の念を抱いているからこそ、この信仰は続いてきたのかもしれないと幽子は思った。
「そうかもしれんな……晴れの日は必要だが過ぎると日照りで作物は枯れるし、雨の日は作物に必要だが降りすぎると家まで流す洪水と化す。人命すら奪うことだってある。だから信仰が生まれたんだな。ミシャグジ様を祀ったのはこれ以上暴れるなって意味もあるんだろが、やはり日頃の恵みに感謝もしていたと思う」
武瑠は祠に向かって一礼する。自然と頭が下がった。
「そうね。ミシャグジ様の信仰がこのままずっと続きますように」
幽子は祠に向かって手を合わせる。風もないのに祠の隣の大木がざわめいたのに二人は気づかなかった。
「すごい! 上社前宮は御柱が全部触れる!」
「触るのは止めろよな……」
「遠くにないって意味で言ったのよ」
恒例となった御柱探し。地図を見るとさして遠くない所に御柱があるようで幽子はとても満足したようだ。上社前宮の本殿を囲むように存在している御柱はよく見ると下の方に凹みがあったりする。御柱祭で強めに御柱を川に落とすからだろうか。あとは御柱の上部が歪な三角形を作っていた。意図的に削ったのだろうが意図が読めない。
御柱は四つ存在するが、注目すると一つ一つが違った特徴を持っており、その差異を探すのも楽しかった。
「天野君、もしかして最初から分かってたの?ここの本当の祭神が誰かを」
ジトッとした目線が武瑠を貫く。藪から棒に言われた武瑠だったが大して驚きの色を見せない。
「バレたか。知っていたよ。姉貴と兄貴からたんまり聞いたからな。お前がミシャグジ様に会ったのは予想外だったが」
全く意に介さない武瑠を見て幽子は少しムッとしたが何も言わなかった。興味が他に逸れたのである。
「あ、水が流れてるよ」
日光をキラキラと反射して涼しげな音をさせて水が流れている。小さな川だろうか。
「御手洗川上流の山の中から湧き出した
幽子はその水に触れようと手を伸ばしていたが説明を聞いて手を引っ込めた。
「ここが手水舎の代わりになっているぞ」
武瑠が手招きしてくれた先にあったのは水眼の清流に直接竹が寝転び、そこから石でできた桶にその清流が溜まっていた所である。柄杓が置いてあり、ここで手を清められるらしい。
「え! 清流そのもので清めていいの?」
「ここの最大の特徴だろうな。他では滅多に見られないだろう」
上社前宮は自然の中に建立された神社という表現がしっくり来る。本殿自体は装飾も注連縄のみといった地味なものだがその分建物の存在が引き立っていた。個人的には本殿よりもやはりミシャグジ様のおわす祠の方が気に入ったのだが。
ハンカチで手を拭きながら御柱探しと並行して本殿を観察する。小さな灯籠が左右にあり、その間に階段があって本殿を間近に見ることができた。絢爛豪華には程遠いが、見ていて心が凪いだ海のように感じられた。どっしりとした柱や屋根は伊勢神宮の御用材で作られているので下社の二つの社とだいぶ印象が違う。下社のように御神木は見当たらないが、奥にある守屋山が実質の御神体のようなものだろうと幽子は思った。ミシャグジ様は自然そのものの神様だからだ。それに、勝手な想像だがミシャグジ様は山にも木にも宿る気がするので御神体のようなはっきりとした存在は必要ないと考える。
(ひょっとしたらミシャグジ様がいらっしゃるから、上社前宮だけ本殿があるって考え方もできるわね)
左回りで本殿をぐるりと回る。湿気をほとんど含まない風が心地良かった。ひぐらしが何故か昼間から鳴いていて驚く。涼しい地域はひぐらしは昼間にも鳴いているらしい。夕方にしか聞かない音色が昼間に目立っているのは妙な感じだった。
(すさまじきもの、昼吠ゆる犬、春の網代と言うけれど、昼間に鳴いているひぐらしも追加して欲しいかな……)
枕草子の一節がさっと脳に飛来する。平安時代は今よりも平均気温が低かったから昼でもひぐらしが都にいたから興醒めしなかったのかな、と幽子の頭の中で想像が膨らんだ。
「天野君、私ここが一番気に入ったかも」
本殿を一周して元に戻った途端、思わず言葉が漏れた。武瑠の吹き出す声が聞こえる。
「まだ上社本宮が残ってるぞ。まあ俺もこの神社の見方が変わったがな。下社に比べて地味だと感じたが、ここに来ると自然そのものを大切にしてきたことが良くわかる」
「うん。ミシャグジ様にも会えたし、嬉しかったわ。また来たい」
小さな微笑みを浮かべている幽子。武瑠は面白くなさそうな顔をして、
「時間が押すから上社本宮へ移動すんぞ。ミシャグジ様に何を言われたか、何をされたか洗いざらい話してくれ」
と言い放つ。その声に怒りが混じっているのを感じて幽子は首を傾げた。
(何で天野君怒ってるの? あ、さっきのあれで……)
罰の悪そうな顔をしても遅い。
「べ、別に……何かされた訳じゃ……」
しどろもどろになる辺り余計に変な疑惑が掛かりそうだが一度言った言葉は取り消せない。
「全部俺に言え。嘘ついたら分かるからそのつもりでな」
思い切り逃げ場を塞がれた気分だ。とはいえ武瑠の言った通り嘘をついてもどうにもならないのも確かである。
「は、はい……ワカリマシタ……」
片言気味に返事をする幽子。そのまま彼らは上社前宮を辞した。