失速する懸念
文字数 6,062文字
ぱち、と幽子の目が開かれる。ぼんやりとした茶色の天井を幽子の瞳が移す。既に朝になっていた。体がだるいが、霊力は昨日のあの件で半分以上失ったのに、今は元に戻っていたのが不可解である。武瑠は霊力が半分ほど失われると回復に丸一日以上かかると言っていたが、幽子にはそれも当てはまらないのかもしれない。変わったところと言えば少し膝裏の傷が痛いくらいか。
「幽子ちゃん! 起きたのね! さあこれを飲んで」
上体を起こすと、顔色の悪い陽子が湯呑みを持ってきた。どろりとして青臭い緑色のような液体が入っている。見た目もさることながら、匂いもあんまりよろしくない。幽子は顔を顰めたが、せっかくの陽子の好意を無下にはできず、息を止めてからぐいっと一気にのどに流し込んだ。
「陽子さん……この液体は」
喉越しが悪く、喉にへばりつく不思議な液体をやっとの思いで飲み干した後に陽子に尋ねた。
「御影家から分捕った薬湯よ。あいつら本当に許せない! 勝手に人様の娘さんを殺そうとするなんて!」
「みかげ……?」
「昨日幽子ちゃんを襲撃した連中よ! ふざけるんじゃないわよ。幽子ちゃんが例え妖怪に近かろうが掟破りしたのは事実なのに!」
命を狙われている。その事実が幽子を絶望のどん底に突き落とした。確かに誰かに恨みを買われるようなことはしていない。だが幽子の体質のせいで、人の迷惑になるのは納得がいかなかった。
(産まれない方が良かったのかな……)
掛け布団をギュッと両手で掴む。両親から最初にプレゼントされた名前すら、本当は良くない意味って知ってしまった時よりも辛い。
(望んでこんな体質になった訳じゃないのに。何とか抑えるように訓練も付き合ってもらっているのに)
幽子の眦に雫が浮かんだ。例え幽子が一生懸命頑張っていたとしても、周りには必ずしも成果のあるようには見えていない。その結果昨日の襲撃に繋がったのだろう。
「幽子ちゃん……」
陽子が幽子の手をそっと握った。温かい手だ。思わず目の奥が熱くなる。幽子を心配している、いつも温かい人。出会ってすぐに打ち解け、不慣れな幽子に優しく接してくれる。陽子は幽子にとって太陽のような存在だった。
部屋のドアがノックされる音で我に返る。
「朋樹か武瑠かしら」
陽子が鍵を開けに立ち上がる。
「姉貴いるか? 九鬼は大丈夫なのか?」
(天野君だ)
「開けるから待ちなさい」
すぐにドアが開かれて武瑠が姿を現した。幽子はそれをぼーっとして見やる。
「何でそんな顔してるんだ」
(どんな顔よ)
武瑠は幽子のいる布団の前に、どかりとあぐらをかいた。陽子は一瞬だけ武瑠を睨んだが、彼の隣に座る。
「何よ、変な顔してるとでも?」
見舞いに来てくれたのだろうか。少し嬉しかったが、さっきの一言で台無しである。どうしてもつっけんどんになった。
「悲壮感漂う表情だ。……傷が痛むのか?」
いつものような軽薄さは影を潜めている。本気で心配しているようだ。幽子に何かあった時は大体こんな感じである。
(調子狂うわ……)
「傷は見た目より深くないの。さっき陽子さんにまっずい薬湯飲まされたから早く治ると思うよ」
布団から出て傷を武瑠に見せる。確かに見た感じは深めな傷のようだが、本人がそれほど痛みを感じていないのが不思議であった。寧ろ傷を凝視している武瑠の方が、痛そうな顔をしている。
「なら良かった。霊力が元に戻っているのが気になるが……」
「きっと規格外の霊力だから問題ないのよ。天野君、昨日は助けてくれてありがとう」
そのままペコリと頭を下げた。
「礼には及ばんよ……まさか昨日のことを気にしてるのか?」
幽子の表情がさっと強張る。膝に置かれた手が震えていた。
(図星かよ)
「あのな、襲撃の件はあいつらが絶対的に悪い。俺達帝に使える霊力持ちの家は互いの人間を正当な理由なく傷付けるのはご法度なんだ。ましてや殺すなんてあり得ない。いくらお前が妖怪に近いとはいえ言い訳にならん。相応の罰を受けてもらう」
「で、でも……あの人達……私のこと……」
今にも泣きそうな顔をしている幽子。彼女は泣いている顔を武瑠に見られたくなくて、思わず顔を伏せた。
「お前、あいつらに何か言われたのか」
見たこともないほど武瑠が怒っていた。霊力は抑えているものの、幽子を震え上がらせるには充分な気迫である。
幽子は何も答えなかった。すると鋭い声が飛んできて体が跳ねた。
「答えろ」
一段と気迫が増した。陽子が強烈に武瑠の頭をはたいたことで気迫が霧散したのが救いだった。
「武瑠、幽子ちゃんが怯えるからそんな風に凄むの止めなさい」
「……悪かったよ。姉貴」
「謝るなら幽子ちゃんに謝りな。この愚弟」
陽子はびしびし決めつけた。
「……その、悪かったな……怒らないから教えてくれないか?」
打って変わってしおらしくなった武瑠。幽子は唇を強く噛む。
「わ、私のこと……化け物、だって」
震える声を隠せない。武瑠は今どんな顔をしているのだろうという思いが幽子の頭を掠めた。
「それは違う! 何てこと言ったんだあいつらは!」
武瑠は思わず幽子の手を握った。幽子の手は冷たくなって震えていた。
「お前はちゃんとした人間だ。そこは俺が保証する。封印も機能しているし、霊力の訓練だってしっかり成果が出ている。お前が化け物だとしたらとっくに何か引き起こしているのにそんな兆候すら見当たらないぞ」
幽子の手の震えが徐々に収まってきているのを感じて、いくらか武瑠は胸を撫で下ろした。
「俺の言うことが信じられないか?」
幽子は勢いよく首を横に振った。
「辛かったな。まさかそんな酷いこと言われていたとは思わなかった。やっぱりあいつら八つ裂きにして」
「やめなさい。あなたも処罰されるわよ」
また陽子の平手打ちが飛んできた。
「痛いぞ姉貴。相剋なんだから手加減してくれ」
じんじんと痛む頭を思わずさすった。幽子がゆっくりと顔を上げたので武瑠の手が止まる。
「あまの……くん、ほんとう、に」
注意しなければ聞き取れないくらい細く掠れた声で口にする。
「わたし、は」
「人間だぞ」
幽子の肩が震えた。いつもより小さく弱々しく見える幽子は、声もなく泣いていたのだ。見ていられなくて武瑠は幽子に向かって手を伸ばしたが、
「幽子ちゃん! 泣いていいのよ。泣くのは恥じゃないわ」
それよりも早く、陽子が幽子を抱きしめた。背中をさすると幽子がしゃくり上げる。幽子に対する愛しさが急に込み上げて、陽子は幽子をきつく抱きすくめた。幽子はギュッと陽子にしがみつく。
しばらく幽子のすすり泣きが部屋を支配したが、やがてぽつぽつと語り出した。
「あの時……急に膝裏を……切りつけられて……襲われた……から、電流で、き、気絶……させようかと、思った、けど、れ、霊力が……ごっそり、無くなってて、そしたら、あの人達が、化け物、だって」
「そう、なのね……辛かったわね……幽子ちゃん」
「頬、も蹴られたし……あの、恐ろしい、刀で……たぶん、私の、首を斬ろうと、したのだと、思うの……でも、その前に、天野君が」
「あいつ、確かにお前の首を狙ってたな。頬のアザはあいつらに蹴られたからか。全くもって許せんな」
時折幽子はしゃくり上げるが、それでも何とか話を続ける。
「こわ、かった……あの人たち、も。あの、刀も……」
「知りたいか? あの刀のことを」
面白くなさそうに武瑠が幽子の話を遮った。幽子は顔を武瑠に向けた。瞳が揺れたのも一瞬で、軽く顎を引く。
「あれは血吸だ。かつて酒呑童子を斬り殺したから童子切なんても呼ばれているな」
(やっぱりただの刀じゃなかった!)
ぶるりと身を震わせた。あの禍々しい物を頭に浮かべるだけでも寒気がする。
「ああ、だから……あんなに怖かった……のね……」
幽子はまだ鼻をぐずぐずといわせていたが、ようやく落ち着いてきたようだ。陽子はまだ幽子の背中をさすっている。
「私、あの刀を見て全身が震えたの。そうしたら、この刀の意味が分かったのか、って」
「よりにもよってあれを持ち出すとはな。お前の一番の弱点かもしれん。血吸はその名の通り斬った者の血を吸う性質もある。当然断ち切る霊力も強い。確実にお前の正体を知った上で殺そうとしていたな」
妖怪や幽霊を斬った刀もお前の弱点になるぞ、と武瑠は付け加える。
「でもどうして私の正体がバレたの?」
「昨日御影の連中が言っていたが、出雲大社でお前が霊力を撒き散らしてそれを感知されたらしい」
(なるほどバレるのは時間の問題だったのか)
「それならかなりの人が私のことを知ってることになりそうね……」
また命を狙われるかもしれない。そんな思いが幽子の胸に渦巻く。御影家のように幽子の存在を快く思っていない連中はきっといる。否、いない訳がないのだ。
「言い忘れていたが今日の会議にお前も参加することになった。本当はお前には休んで欲しいんだが……」
陽子がそれを聞いてぎょっとした。幽子が口を開く前に陽子が叫ぶ。
「だめよ! 幽子ちゃんは怪我をしていて」
「議長命令だ。背負ってでも連れてこいとの仰せだ」
武瑠は目を覆い、首を振る。陽子はわなわなと口を震わせていたが、やがて息を大きく吐いた。
「相変わらず横暴ね。吐き気がするわ」
「あの、陽子さん。霊力も元に戻りましたし、大丈夫、ですよ?」
きっと今日は出た方が幽子のため、ひいては天野家のためになる、そんな気がした。いくら幽子の正体を知っていたとしても本人を見た人は少ない筈だ。そこで幽子が顔を出したら一気に状況が変わらないだろうか?
「出ますよ、会議。私が出たら封印も確認できるし、霊力抑制も完璧ってことが証明できます」
二人は揃って口を開きかけたが幽子が制した。幽子に拒否権はない。それなら会議で自分が危険な存在でないかをアピールしてみようと幽子は考えたのだ。
「本気なんだな?」
武瑠が真っ直ぐ幽子を見据えた。
「ええ。これを機に私が帝の脅威ではないってことをアピールしたいの」
「……分かった。今日の夜8時から会議だから、それまで今日は寝てろ」
「え、霊力も回復してるし歩けないほどの傷じゃないし、間欠泉センターに」
「駄目だ! お前はもっと自分を大事にしろ! 会議の件を承諾したなら今日は俺がついてるから休んどけ!」
ガシッと頭を掴まれた。また武瑠から霊力が撒き散らされているのを見て、陽子の腕の中で幽子は震えた。
「だから止めなさいったら! この愚弟! 幽子ちゃんは怪我人なんだからそんなにカッカしないの!」
陽子も負けじと霊力を開放する。幽子は平気だが武瑠は相剋なのでたまったものではない。武瑠は背中に冷や汗がつたうのを感じた。
「済まない、九鬼」
根負けして武瑠は頭を下げた。霊力を引っ込めるのも忘れない。
「あ、天野君にちょっと言いたいことがあって」
「……お前から何か話があるなんて珍しいな。どうした?」
疲れた顔をしている武瑠。陽子の霊力が効いているのだろう。それでも幽子の言葉には耳を傾けてくれるらしい。
「無断で追跡の術式を私の魂に埋め込んだって本当なの?」
低く言う幽子か、その発言内容に驚いたのか陽子は目を丸くして武瑠を見た。
「あんた……」
「……何でそれを」
バツの悪そうな顔をしたってもう遅い。
「昨日大国主様に会ったの。その時に教えて下さったわ」
バッと畳に手をつく武瑠。頭を畳にこすりつけた。
「あんた、術式を魂に刻んだって」
陽子の言葉は武瑠の謝罪にかき消される。
「済まない! 九鬼!」
「本当に悪いって思ってる? 今回はそれで助けられたけど」
二人の女性に見つめられてオロオロする武瑠。姉には口で勝てた試しがない。幽子は未知数だが、女性が二人なら舌先三寸で勝てる見込みがゼロだと本能的に理解した。こうなれば武瑠にできることは謝罪しかない。
「本当に済まなかった。でもストーキングとかはしないし」
「違うわよ! 分からない人ね。私が怒っているのは天野君が何も言わないで術式を刻んだことよ!」
(そっちかよ! そこは気持ち悪い、とかじゃないのか!)
やはり幽子はどこかズレている。頭脳明晰なのに自分の機微になると疎いのか、どこか的はずれなことを彼女は時折口にするのだ。
「分かった分かった! 今後そういうことする時は事前に伝えるから!」
頭を上げたくない。ジリジリと怒りの視線を浴びながら武瑠は思った。
「そうしてくれると助かるわ」
幽子のため息が聞こえた。思ったよりも怒っていないような?
「俺を殴ってくれ。罰なら受ける」
だが武瑠は極度の後ろめたさから一度顔を上げたものの、再び頭をこすりつける。
「人を殴る趣味なんてないわよ……」
呆れて武瑠を見やる幽子。武瑠は頭を下げたままだ。
「逆しまに行えば逆しまに」
据わった目で武瑠を見つめる幽子。何やらブツブツと呟いていたが、それの意味するところを理解すると武瑠は電光石火で動いた。幽子の両肩を強く掴む。
「やめろ! 本気で呪うな! お前が呪詛なんてしたら何が起こるか分からん!」
武瑠の顔が青を通り越して白くなっていた。幽子は木行なので呪いの類とも相性が良い。しかも本気で呪いたくば詠唱なんて不要でただ念じるだけでよい。
「……分かったわよ」
口をとがらせる幽子。本当に心臓に悪い。未だ動悸がする胸を思わず抑えた。
(いやいや本気でこっちが死ぬわ)
「じゃあその代わり、術式を刻む練習をさせて。もちろん相手は天野君で」
「お前自身で実験はするなよ? 全部俺に刻め。分かったな?」
幽子がマッドサイエンティストなのを忘れるところだった。いくら釘を差しても安心することはできない。
「全部……ね。分かったわ」
幽子の薄ら笑いに一瞬たじろいた。彼女のこんな表情は初めて見る。それと同時に寒気がしてきた。今日は諏訪でも真夏日だというのに、不思議なこともあるものである。
「幽子ちゃん、申し訳ないけど調査をするから……」
陽子が幽子から離れた。思わず幽子の表情が寂しさに歪む。
「そんな顔しないの。今日調査しないと課題に間に合わないのよ。分かってくれる?」
渋々と頷く。早く帰ってきてと目で訴えてみた。
「あ、武瑠は頑丈だから割ときつく霊力流し込んでも平気よ。術式の刻み方は教えてもらったらいいわ」
「おい、姉貴! 余計なことを」
「よ、陽子さん! あの、お気をつけて」
ドアを開けて陽子が振り返った。ふわりと笑う陽子に幽子の目は釘付けになる。がっくりと肩を落とした武瑠は無視した。
「ありがとう。幽子ちゃん。愚弟とは大違いだわ。夕方には帰ってくるから」
陽子の姿が見えなくなるまで幽子は手を振った。陽子も手を振り返す。
(嬉しい)
陽子の足音が遠ざかるのを待って幽子は武瑠に向かい合った。
「術式の刻み方はある程度天野君が教えてくれたけど、ちょっと試してみたいのがあって」
人の悪そうな笑みを浮かべて、じりじりと近付く幽子に武瑠は本気で慄く。しかし勝手なことをした手前何も出来ないのが悔しい。
「覚悟なさい!」
心底楽しそうに笑う幽子は、武瑠に少なくない霊力を流し込んだ。
(どうしてこうなった!)
声にならない武瑠の悲鳴がしばし部屋を支配した。