碧の勇気
文字数 3,951文字
「ないと言えば嘘になります。……朋樹さん、九鬼家のことはどこまで知っていますか?」
(ちゃんと話すことにしたのか。こいつにしてはやるじゃねえか)
ぽつぽつと話し始めた幽子を見て武瑠は目を細めた。そして幽子が淹れてくれたハーブティーを一口飲む。少し冷めるのを待っていたのだ。武瑠は猫舌である。
「……颯太から少し聞いたことはある。幽子ちゃんは家族仲が良くないって」
「ええ、そうです。霊力を封じられた私は落ちこぼれとみなされて両親から疎まれていました。颯太は最大級の霊力持ちだったということもあって期待が凄かったんだと思います。それで小さい頃いじめられたりしてました」
上手く伝わっているだろうか。考えあぐねる幽子はゆっくりと話すことにした。
「今でも颯太は苦手です。トラウマと言う訳ではなさそうですが、冷たく見下されるのが嫌でした。罵詈雑言を浴びせられたことも一度や二度じゃありません。暴力は振るわれなかったですが、恐らくは両親にバレるのを恐れいたからだと思います。
幽子は深呼吸をする。
「その時のことを謝りたいと、そう言われました……でも私はそれを拒絶しました……天野家を、そして天野君を悪く決めつけたので……」
呼吸が乱れそうになるのを何とか抑えつける。
「霊力が暴走したのは颯太を校門で見かけてからです。天野家の悪口を聞いた辺りからさらに霊力が膨れ上がりました。私は颯太の言葉を聞きたくなくて……霊力で彼を傷付けてしまいました……」
重たい沈黙がリビングに満ちた。武瑠も朋樹もほとんど驚かなかった。気を抜くと心痛に満ちた声を出しそうな幽子の心配が先立ち、驚きを上回ったのが正解なのだろうが。
「颯太……あいつ、何か抱えてるなと思ってたが……しょっちゅう俺に幽子ちゃんのことを聞いてたよ。当たり障りなく答えたのが駄目だったのかもしれないな」
朋樹と颯太は同じ高校に通っている。入学して2ヶ月程経った後に仲良くなり、今はクラスは離れてはいるが交流は続いていた。
「颯太は朋樹さんに私のことを聞いていた……?」
半ばオウム返しに細く紡がれる声音は疑問に満ちていた。
「ああ。二日に一回は聞いてきた。霊力の修業頑張ってるよ、とか封印はしっかり効いてるよって返事はしたんだよ。そうしたら満足そうにしていた。幽子ちゃんが連絡を寄越さないことを気にしてたよ」
(そうだ。鬱陶しくて返事してなかったんだった……)
幽子は颯太から連絡が来てたのは知っていたが、特に話すこともなかったので無視していたのである。
「そう、ですか。颯太がそんなことを……」
幽子が中学に入ってからはあまり話す機会も無かったし、喧嘩ばかりしていたので素の颯太を知ることは彼女にはできなかった。
「馬鹿だよね。あいつ。悪いなって思った時点で幽子ちゃんに謝れば良かったのに。変な意地を張ったんだろう。そんなもの張っても無意味なのにな」
呆れて溜息をついた朋樹は何か気づいたことがあるようで幽子を探るように見た。
「そういえば幽子ちゃん、答えたくなかったらそのままでいいんだけど、どうして実の兄を名前で呼んでるの?」
(あ、それ俺が聞こうと思ってたんだぞ)
不満そうな武瑠の視線を躱す朋樹。逆にちらっと笑って見せた。武瑠の眉間の皺が深くなるのを見て溜飲を下げる。
「それは身内と思っていないからです。私は身内がよく分からないので。颯太はただの同居人の認識です」
身内というより家族という概念が良く分からない。何せ両親も敵みたいなものだし、実の兄は言わずもがな。ひょっとしたら最大の幽子の敵は颯太なのかもしれなかった。
「……そういうことね。やっぱりあいつ馬鹿だわ。素直になれば幽子ちゃんとの仲も何とかなってたかもしれないのに。答えてくれてありがと」
高校生とも思えない、深い深い憂いがその瞳に浮かぶ。
「俺も聞きたいことがある。天野家と、あと俺の悪口って何だったんだ?」
ちらりと幽子が目線を武瑠の方によこす。その瞬間みるみる幽子は霊力を立ち上らせ、全身がわなないた。墨色の瞳に怒りを滾らせる。
「あの人、天野家を侮辱したのよ! 天野家で無理しているのか、ちゃんと食事を取っているのかなんて聞いてきた! 私が顔色が悪いのは天野家のせいではないのに! むしろ皆私に温かく接して下さっているのに! 天野君は私に厳しく当たってるなんて根も歯もないことまで……! 天野君は私を何度も助けてくれた! 自分を大事にしろって言ってくれたの! なのになのに! どうしてあんなことを言われないといけないの!」
(まずい、霊力がまた暴走してる)
幽子の濃い霊力が武瑠にも纏わりついてきた。ヒリヒリと皮膚が引きつれるように感じたその霊力は彼女の感情そのものだった。心臓が引き裂かれるような悲しみが奔流を作り、全身を巡った。幽子の瞳が潤んでいく。
「幽子ちゃん!」
「おい! 九鬼! あんまり暴走させると」
朋樹の声も武瑠の声も幽子には届かない。さらに激情が二人を襲う。はらはらと涙が落ち、テーブルクロスに丸いしみを作った。
「どうして! どうして悪口言うのよ! 颯太はひどいことしたのに! 家に顔を見せろ? 冗談じゃないわ! あの人が自分の安心の為に私を確認したかっただけじゃないの!」
(くそっ!)
ほとんど反射的に幽子を自分の胸板に押し付けて彼女の体に腕を回す。落ち着かせるように背中を何度も擦る武瑠は、全身に彼女の霊力を感じながら苦悶混じりの声で諭す。
「……辛かったな、もう大丈夫だ。颯太さんはここにはいない。お前を縛る者も、お前を悲しませる者も、お前を虐げる者もいないんだ、だから……」
武瑠の胸のあたりがじんわりと冷たい。声を抑えようとしているらしく、しゃくり上げることもなく、ただただ体を震わせて涙を流しているだけの幽子は非常に痛々しい。陽子に抱き締められた時は声を出して泣いていたというのに。あの時の状況と全く違うのは理解しているが、幽子が武瑠に陽子ほど心を許していないことに少し腹が立った。
「辛かったら泣け。悲しかったら泣け。泣くのは恥ずかしいことじゃない。感情を吐き出すのを我慢するな」
幽子を抱き締める腕に力が入る。シャツの前部分が少し引っ張られる感触がしたと思ったら、やがてすすり泣く声が聞こえてきた。武瑠は幽子の頭をゆるゆると撫でると、シャツがさらに引っ張られたが、霊力は引っ張る力に反比例して収縮していった。
「辛かったな……苦しかったな……お前の苦しみはお前だけのものだ。お前しかお前を解放できないんだよ……泣いたら泣いただけ、お前は楽になれるんだ」
すすり泣く声が大きくなった。僅かにしゃくり上げる声も聞こえる。武瑠は幽子がぐずぐずと鼻をいわせ、ティッシュを要求するまで、ずっと抱きしめて彼女の頭を撫でていた。
しばらく鼻をぐずぐず言わせていた幽子は目の前にある武瑠のシャツを確認して反射的に謝る。何分武瑠に縋り付いていたかは不明だが、彼のシャツは幽子の涙で見事にぐしゃぐしゃになっていた。
「謝罪よりも文字通り胸を貸した礼が欲しいんだがな」
しおらしくなっている幽子は珍しい。それをいいことに少しからかってみた。
「うん……ありがとう、ね」
素直に礼を微笑みながら言われ、不意を突かれて心臓が跳ねる。
「お、おう……」
朋樹は幽子が泣きじゃくっている間に台所に行ったようでここにはいない。夢中で泣いていたので陽子が帰ってきたのも気づかず、リビングにいて何故か生暖かい目で見られて文字通り飛び上がった。
「ただいま、幽子ちゃん。後でたっぷり話を聞かせてね? 大変なことがあったんだって?」
幽子は顔を紅潮させた。いつから陽子は帰宅してここにいたのだろう。武瑠に縋り付いて泣いているところを見られたかもしれないと感じた幽子は、目に見えておろおろしていた。
「え、えっと……はい、色々ありまして……」
何となく陽子と目を合わせるのが憚られる。眼球がせわしなく動いて全く落ち着かない。心臓もやたらとその存在を主張するべく早鐘を打っている。
「ふふふ。楽しみね。ご飯作るから待っててね。朋樹、そこ退いて。超特急で仕上げるから」
後半は台所にいる朋樹に声をかける。
「姉さん何張り切ってるの?」
テンションの高い陽子は肉の解凍もフライパンの火力も調整して手早く料理を作っている。朋樹が野菜を切ってまな板に並べてくれたので手間が省けて助かった。
「んー、やっぱり幽子ちゃん関連かしら?」
リビングにいる二人に聞こえないようにどうしても小声になった陽子。調理の音が大きいのであんまり意味はないが。
「幽子ちゃんを武瑠が不器用に宥めてたのを一部始終見てたなんて、姉さんも人が悪い」
「あら、朋樹は幽子ちゃんと話をしていたから一緒じゃないの。私も話をしたかったのに、ずるいわ」
ぷいと朋樹から顔を背ける。朋樹はにんまりしていた。
「ずるいも何も、姉さんが早く帰らないのが悪い」
「仕方ないじゃないの。ゼミの発表があったんだから。大学生は意外と忙しいのよ、ほらさっさとお皿に盛りなさい」
できたおかずを大皿に盛った朋樹はご飯ができたことを二人に告げる。幽子が先に現れて皆の分を配膳していた。遅れて来た武瑠は何故か左の頬だけ少し赤くなっていた。
「……武瑠、お前幽子ちゃんに何したの?」
慌てて頬を隠す武瑠。顔を背けるが無意味である。
「……何もしてないのに引っ叩かれた」
(何ニヤついてんだよ兄貴)
「ふーん? 幽子ちゃんも素直じゃないなあ。でも以前よりは気にされてるんだね? それともただの照れ隠しかな? かな?」
「……うるさい」
顔を背ける武瑠の背中から忍び笑いが聞こえた。