第11話 【書評】証し(2023.9.9記)

文字数 1,542文字

【生きてる 生きている】

1.書名・著者名等

最相 葉月 (著)
『証し(副題)日本のキリスト者』
出版社 ‏ : ‎ KADOKAWA
発売日 ‏ : ‎ 2023/1/13
単行本 ‏ : ‎ 1096ページ

2.兎平亀作の意見です

「神と出会う」という言葉があるそうだ。
教会界隈をウロチョロしているが、信仰の道に入りそうもない人に対して、「あの人は、まだ神に出会っていないね」と言った言い方をするのだと言う。

本書を読んで、「神さまとの出会いも、人さまざまなんだな」と思った。
人の数だけ信仰がある。どんなに、しっかりした宗教でも、それを信じるか否かは本人が決めるのだから、そうなるのが当然である。当然、独りよがりも入り込むだろう。なるほど、教会に「司牧者」が必要なはずだ。

さて私は念仏、つまり異教徒である。これまで仏さまに出会った覚えはない。おシャカさまは過去の人だし、阿弥陀さまなんて、ただのフィクションだと思っている。見仏(見性成仏)と言う考えもあるらしいが、「私には縁のない話だ」と思っている。それで信心に何らの不都合もない。

「そうは言いつつ偶像崇拝だけは、しっかりやってるじゃないか」と言われたら、こう答える。
「あれはマトだ。弓と矢だけでは弓道が上達しない。マトも必要だ。お寺の落ち着いた雰囲気の中で、それらしい形をした物を拝んだ方が、祈りに集中できるから、能率が良いから、そうしているまでの事だ。手を合わせた先に、別に何があっても無くても構わないのだ」と。

私の事なんか、どうでもいい。本書にもどる。キリスト様にもどる。
以前から疑問に思っていた事がある。
「入信→洗礼はいいとして、キリスト者の人たちは、その後、何をやってるんだろう?」
その答えが本書に書いてあった。

当たり前ながら、人さまざまである。
宣教に献身している人もいるし、チャリティ・ボランティアに関わってる人もいる。普通の生活を送っているだけの人もいる。
ただ(私の見る所では)共通項もある。

それは「神を待っている」という事だ。いや、異教徒の目には、そう見える。

まるで羊の群れみたいだが、主体性のない、羊飼いに保護されて草を食べてるだけの羊ではない。狼の一匹くらいなら、自分たちで撃退してしまいそうな強さを感じる。この人たちは「99匹」の側なんだろう。

もちろん、教会に寄り付いたり、逃げ出したり、社会的に問題を起こしたりと、「これは、いかがなものか」と言う生き方しかできない100匹目の羊もいる。
どっちが、より幸いなのかは知らない。強かろうが弱かろうが、みんな「何か」を待っている。それが何かなのは、異教徒の私は、言及を避けるのが礼儀と言うものだろう。

考えてみれば、神を待っているのは『ヨハネの黙示録』だけの話じゃない。コヘレトだって、パウロだって、みんなそうなのだが、ここでは聖書の話はしない。
最相『証し』は、「異教徒は、聖書をこう読みました」と言う話じゃないからだ。
最相が訪ね歩いたのは「隣のキリスト者さん」だ。

キリスト者なら(数は少ないようだが)私の近所にもいる。歩いて行ける範囲にカトリック教会とバプテスト教会があるからだ。そこで「ちょっと、いいですか?」と声をかけて、お話を聞かせてもらえばいいだけの話である。

私にそれができないのは、なぜなんだろう?

(仮説A)「信心について、自慢たらしく口にするな。信心の度合いが深まれば、黙っていても自ずと伝わる」と言うのが、私が帰依している仏教宗派の教えだからか?

(仮説B)なんだか、失礼な事を口にしてしまいそうな、悪い予感がするからか?

(仮説C)それとも「愚か者は知ることをいとう」(箴言 序1:22)からなんだろうか?

仮説Cが、一番しっくり来るんだが。
我ながら、困ったものである。
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