第12話 【書評】D.H.ロレンス『黙示録論』(2023.9.21記)

文字数 1,736文字

【独断と偏見、アゲ!暴論、アゲ!】

1.書名・著者名等

D・H・ロレンス (著), 井伊 順彦 (翻訳)
『黙示録論 ほか三篇(副題)D・H・ロレンス評論集』
出版社 ‏ : ‎ 論創社
発売日 ‏ : ‎ 2019/8/2
単行本 ‏ : ‎ 256ページ

2.兎平亀作の意見です

ある必要があって、『ヨハネの黙示録』について、集中的に調べています。「どこまで続くヌカルミぞ」と言うカンジです。
そりゃあ、良い注釈書は山ほど出ていますよ。それらが日本語に訳されてもいるんですが、要は「信じる者は救われる」と言う話じゃありませんか。

ちなみに私、念仏。つまり異教徒です。異教徒が新約聖書を読んで楽しいワケがありません。「イヤなら、読むのやめろ」と言うだけの話なので、ここにキリスト様の悪口を書く積もりはありません。
そんな今日この頃です。

さて、ここで筆を執ったのは、D・H・ロレンスの暴論が、こんな私の良いストレス解消になってくれたからです。
こりゃあ、ひどい内容だよ。(誉め言葉の積もりです。)
要するに、アンチ・キリストをモチーフにした現代文明批判なワケだけど、「ここまで言う必要あるぅ?」と言いたくなるような事まで、ガンガン書き込んでいるのです。

あのニーチェ先生の場合は、仮にも大学の先生上がりです。古典文献学でロジカルな思考力をみっちり鍛えた人ですから、そのアンチ・キリスト論は(賛否は別にして)読者に隙を見せません。例えて言えば、重武装した騎士みたいなカンジ。

対するに、D・H・ロレンスの『黙示録論』たるや、まるでフルチンのヨッパライが銭湯の洗い場で、大声を上げて会社批判してるみたいです。これが、けっこう面白い。
D・H・ロレンスの社会的スタンスは、パッと見、左っぽい資本主義批判みたいに見えない事もないけど、実際に共産党の人が本書を読んだら、カンカンになって怒るのではないでしょうか。そういう所もフィール・グッドだ。(これでも誉めてる積もりですけど。)

多少なりともキリスト教的発想に馴染んだ者の目から見れば、D・H・ロレンスはキリストとレーニンを無媒介的に結び付けて論じているように思えます。これは「そういう風に見えない事もない」と言うレベルの話で、共産党の中にもグラムシみたいに独自の大衆社会批判を展開した人は居ます。ああ見えて左翼にも、結構、端倪すべからざる所はあるのです。
D・H・ロレンスのキリスト教解釈の当否については、私の口からは敢えて申しません。
D・H・ロレンスは、ホンネではキリスト教の事もレーニンの事も、どうでも良かったんじゃないでしょうか。

「論理が破綻しているからこそ面白い」と言う、究極の近代文学ではありますわなあ。筆が滑ってる。でも、そこが面白いのだ。(これ、誉めてる積もりなんですけど。)
「出口のないルサンチマンと妄想の産物だ」と言ってしまったら、ミもフタもありません。本書が、D・H・ロレンスの遺言みたいな物なんですから、「はいはい」と言って、黙って聞いて上げるべきでしょう。

井伊順彦先生の訳文も、とっても良いぞ!

福田恆存氏は文體で創作してしまうやうな人。其の譯す處のシェイクスピアたるや、福田色に染め上げられた第弐の創作と言っても過言(くゎごん)ではなく、正に文學的狷介と老獪(ろうくゎい)を體現したやうな文士と申せませう。

その点、井伊順彦先生のフラット過ぎる訳文は、まるで高校生が訳したみたいだ。(誉めてます)D・H・ロレンスの赤裸の心を、更にすっぱだかにしてしまったと言うカンジ。
背広・ネクタイどころか、下着や靴下まで剥ぎ取ってしまったからこそ、見えてくる物もあるんだなあ、とシミジミ。
(確かに、新聞の論説委員とかが出したソッケない翻訳書に、時々、意外な名訳があったりします。)

まあ、暴論を吐くなら、ここまでイっちゃわなきゃウソだと、とても良い勉強になりました。「とんでも本」なのか、文芸評論なのか分からない、そのギリギリ感がナイスでした。

「実際ヨハネのアポカリプスは二流精神の所産だ。」(本書、20ページ)

D・H・ロレンスさん。アンタ、時代が時代なら火あぶりモンだよ。(これは、ちょっとだけ批判してます)

改めて、井伊先生の野心的な訳業に敬意を表します。
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