第七話 半月が沈む朝

文字数 1,885文字

 空の中央へ半月(デュミムーナ)が昇る。
 市場通り(ルドゥマ)の喧噪は静まり、街もひっそりと眠りについた。
 雲もなく、青白い光がモスタディ(王都)アを包んでいる。

      *

 ブリディフ様とヤーフムが帰り、寝台で横になる父の寝顔を見つめる。
 今日は何度こうしたことだろう。
 呼吸のたびに父の胸が上下に動くだけで、ただただ安心を覚えた。
 もし動きが突然止まってしまったら……。
 わたしは泣き叫んだろうか。
 おろおろするばかりだっただろうか。
 きっと何も考えられず、立ちすくんだに違いない。

 わたしは母の顔を覚えていない。
 まだ幼い頃に、母は流行り病をこじらせて死んだそうだ。
 ずっと父と二人の生活が当たり前だと思っていた。
 当たり前のこと、いつも通りの時が幸せなことなのだと初めて知った。

 お医者様はもちろんのこと、ブリディフ様には何とお礼を言えばいいのか。
 昨日あの方の闘技を見ていなかったなら、あの方が(アウル)の魔道を使わなかったなら、言葉を掛けることなどなかっただろう。
 あの出会いがなければ、今こうして父が寝息を立てていることはなかったかもしれない。
 本当に命の恩人だ。
 今夜もヤーフムと一緒にお見舞いに来てくれた。
「あぁ……」
 ふいに彼と行った釣りのことを思い出した。

 ずいぶんと前のような気もするが、今朝のことだったのだ。
 初めての釣りに時間が経つのも忘れた。
 山育ちの私は、あの大きな湖(ムーナクト湖)を見ているだけで浮き立つ気分になる。
 弟のように小さな彼も私を慕ってくれている。

「来年も一緒に釣りが出来るといいな」

 楽しい思い出が浮かぶようになったのは、心が落ち着いてきたからかもしれない。
 父の手に右手をそっと重ねると、温もりが伝わってきた。

      *
 
 おじさんと一緒に帰ってくる道でも(ムーナ)がとても気になっていた。
 なんだか、とってもきれいに見えたから。
 こんな風に思うことが、「感じる」ってことなのかな。
 おじさんの言っていた感覚(パサイラ)はまだよく分からないけれど、少しでも早く魔力を身につけたい。
 そしてカリナのことを守れるようになりたい。

 僕に出来るのか、わからない。
 でも、いつもお父さんもお母さんも「何でも挑戦してみなさい」って言ってる。
 やる前から諦めたりしないで、やってみたい。
 きっと魔道を覚えるまでは大変なんだろうけれど。
 カリナのあんな悲しい顔はもう見たくない。
 
 またあいつのことを思い出しちゃった。
 僕はあいつが嫌いだ。
 みんなが決めた約束事を破るなんて、信じられない。
 怒られたこと、ないのかな。
 誰かが注意してあげなきゃ。

 あぁ、駄目だ。眠れなくなっちゃう。
 怒る気持ちは良くないって、おじさんも言ってたし。
 うーん……そうだ、魔力を使えるようになった時のことを考えよう。
 どんな魔道を見せたら、カリナは驚くかなぁ。

      *

 ヴァリダン様のご様子も、思ったより元気そうで安心した。
 もう心配ないであろう。
 しかし、モスタデ(ここ)ィアへ来てからというもの、日々が目まぐるしく動いている。
 師が仰っていた通り、今がその時だったということか。
 カリナと出会ったのも(えにし)だったやもしれぬ。

 さて、この後はどうしたものか。
 私には時間がない。
 やはり今宵の内に修練しておくべきであろう。
 あの男の言葉を信じるならば試してみる価値はある。
 それにしても――。

『貴様ならば扱えるやもしれぬが、せいぜい



 取り込まれぬように、か。
 確かに彼奴(あやつ)の言う通りかもしれぬ。
 生半可な心構えでは、詠唱はおろか我が身にも危険が及ぶであろう。
 心して掛からねば。

 もう夜も更けている。
 湖畔ならば修練の場として邪魔も入るまい。
 では、出掛けるとするか。 

      *

 半月(デュミムーナ)が地の縁へと沈み、替わりに陽が昇り始める。
 北門近くに建つ石造りの館から、緋色のローブを纏った男が出てきた。
 昨夜とは打って変わり、その端正な顔には生気がみなぎっている。
 彼の胸の内にある我欲が溢れ出んばかりとなっていた。

 魔闘技場に隣接する医務室では少女が目を覚ました。
 椅子に座ったまま、寝台にもたれて眠っていたらしい。
 しかし、彼女は疲れた様子もなく、まだ眠っている父を見やりながら幸福をかみしめていた。

 市場通り(ルドゥマ)の外れにある家では、少年が母親に起こされていた。
 寝台から跳ね起き、顔を洗い、父の元へ駆け寄る。
 彼が目を覚ましただけで、家の中は華やいだ。
 その瞳には希望が満ちている。

 少年の声が聞こえ、ブリディフはゆっくりと目を開ける。
 ただ横になっていただけなのか、精悍な表情には何かしらの決意がみなぎっていた。
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