アイル-7
文字数 2,252文字
世界が終わろうとしている。
太陰、二の月、下旬。王の決定に業を煮やした軍幹部が、独断で前線への派兵を決めた。軍部でも有数の実力者で一個大隊を組織し、次兄が指揮官を務める魔獣使部隊と合わせての派遣だった。
まずは足の速い魔獣を駆る、魔獣使部隊が先遣隊として派兵された、太陰、二の月、末。友軍陣営壊滅の報と共に、魔獣使部隊壊滅の報が入って、アイルは愕然とする。
「ザイル兄様は!」
剣兵の訓練で報せを聞いたアイルは、その夜、部屋を訪れた長兄に、噛み付く勢いで次兄の安否を尋ねる。
長兄はアイルの勢いに驚いたようだったものの、縋る蒼玉の瞳にアイスブルーを伏せ、首を振った。
「……わからぬ」
長兄のローブの裾を握りしめたまま、アイルはその言葉の意味を理解するのに、かなりの時間を要した。安否不明。突きつけられた現実に、涙も、嗚咽も出なかった。
敵方後方に控えていた竜種が、前線に出たのだという。森を割る巨体は逃げる人々を踏み潰し、地面を溶岩に変えながら進み、辛うじて持ち堪えていた友軍本部を灰にした。竜種の前進を食い止めるべく、魔獣使が奮戦したものの、全てを燃やし尽くす竜の鱗に傷一つつけることなく、全員が行方不明となったらしい。
愕然とするアイルの金髪を、長兄が優しく撫でながら、
「心配はいらぬ、我らは龍の子だ」
慰める言葉に、アイルはその手を振り払って後ずさり、蒼玉の瞳で兄をきつく睨め付けた。
「僕はそんなことして欲しくない!」
今までになく強い拒絶に、アイスブルーの瞳が見張られる。
「僕が小さいからって、みんな本当のことを言わない、ちゃんと教えてくれない、僕だってちゃんとわかるのに!」
アイルがつらくて、もどかしい、たった一つの事実だ。小さいからわからないだろう、傷つけるのは可哀想だと置き去りにされて、対等に向き合ってもらえない。確かに微温湯は心地よかった。兄の庇護下という温室で、何も聞かず、何も知らず、ぬくぬくとしていることも出来た。けれども、アイルは選ばなかった。目標となる憧れがあるからだ。
アイルと同じく母を亡くした王子は、凛と強く、気遣いができる余裕まであった。年齢や性格の違いだと言ってしまえばそれまでだけれども、アイルの目指す人間像の中心には、手合わせで負けたあの日から、王子がいる。アイルの四番目の兄。彼のように強くなるために、逃げることはしたくない。耳を塞ぎ続けたくない。
「ザイル兄様は、無事なの?」
だから、もう一度、アイルは聞いた。動揺するアイスブルーを真っ直ぐに見つめて。
「──……わからぬ」
顔を伏せた長兄は、声を絞り出すように、それでもそう答えた。
アイルは絶望したように、蒼玉の瞳を伏せた。
四兄弟に悪感情を持つ、一部の人々がいることは、幼なかったアイルにも何となくわかってきた。そんな彼らが実しやかに囁いていた、魔獣使部隊の裏切りの噂は、アイルを途方もない不安に陥れた。だから、兄には面と向かって答えて欲しかったのに、結局、濁されて終わりだ。
もちろん、長兄が言っていることこそが真実なのかも知れない。消息不明だから生死も安易に答えられないなら、そのように諭してくれればいいのに。
太陰、三の月、始め。王立軍より一個大隊が前線へ向けて派兵。同日、王立軍の最高幹部である三将官上席が反逆罪で私室に軟禁後、自害。王立軍は反逆罪に加担したと見なされ、末端の兵士までが兵舎に謹慎させられた。
太陰、三の月、末。
次兄の安否が知れなくなってからは初めて、アイルは深く眠っていた。寝台の枕に頬をつけ、横を向いてぐっすりと。そんなアイルも、大気を震わす邪悪な咆哮に目を開ける。ぼんやりしたまま起き上がり、眠気を引きずりながら寝台の端に腰掛け、大きく欠伸をする。
再び、咆哮がした。今度はしっかり目が覚めて、窓辺に駆け寄る。
闇夜に、炎を吐く生き物が、空を舞っている。首と尾が長く、燃え盛る炎の明かりに照らされた体は、紅玉色の鱗に覆われている。前線にいたと言われる、竜種だ。
部屋を出たアイルは、城の端にある塔から城内に抜けて、再び、呆気に取られた。
ここも燃えている。侍女や侍従が逃げ惑い、或いは消火に追われ、騒々しい。
城を内側から焼いているのは、どうやら竜種の炎ではないようだった。まして、自然発火したものでもない。高温に達する赤い炎でも、城内に燃え広がるには早すぎた。誰かが魔法陣を多く展開して、城を落とそうとしている。
その誰かを、アイルは知っていた。とてもよく知っていた。もう二度と会えないかも知れないと思った背中を探して、アイルは走る。纏うローブの裾に火が移り、咄嗟に脱ぎ捨てて寝間着だけになっても、探し続けた。時に侍女や侍従とぶつかり、避難誘導する煤だらけの衛兵を横目に、全力で走った。
「兄様……!」
最も燃え盛る広間で、アイルはようやく、探していた背中を見つけた。炎に照らされる、赤銅色の髪。二度と会えないと思っていた次兄。
アイルの声に、背中はゆるりと振り向いた。返り血にぬらりと頬や服を汚し、龍のような瞳孔の翡翠の瞳は、燃え盛る炎の勢いに戸惑う末弟を見ても、何の揺らぎも見せなかった。
炎の中に、突き出た腕がある。ここだけが激しく燃え盛る原因は、人の脂のためなのだと知って、アイルは腰が抜けそうになる。
「にいさま!」
叫ぶアイルに背を向けて、次兄の姿は炎の向こうへ消えた。熱気に喉を焼かれながら、燃える死体に慄きながら、
「ひとりにしないで!」
声の限りに叫んだ。
太陰、二の月、下旬。王の決定に業を煮やした軍幹部が、独断で前線への派兵を決めた。軍部でも有数の実力者で一個大隊を組織し、次兄が指揮官を務める魔獣使部隊と合わせての派遣だった。
まずは足の速い魔獣を駆る、魔獣使部隊が先遣隊として派兵された、太陰、二の月、末。友軍陣営壊滅の報と共に、魔獣使部隊壊滅の報が入って、アイルは愕然とする。
「ザイル兄様は!」
剣兵の訓練で報せを聞いたアイルは、その夜、部屋を訪れた長兄に、噛み付く勢いで次兄の安否を尋ねる。
長兄はアイルの勢いに驚いたようだったものの、縋る蒼玉の瞳にアイスブルーを伏せ、首を振った。
「……わからぬ」
長兄のローブの裾を握りしめたまま、アイルはその言葉の意味を理解するのに、かなりの時間を要した。安否不明。突きつけられた現実に、涙も、嗚咽も出なかった。
敵方後方に控えていた竜種が、前線に出たのだという。森を割る巨体は逃げる人々を踏み潰し、地面を溶岩に変えながら進み、辛うじて持ち堪えていた友軍本部を灰にした。竜種の前進を食い止めるべく、魔獣使が奮戦したものの、全てを燃やし尽くす竜の鱗に傷一つつけることなく、全員が行方不明となったらしい。
愕然とするアイルの金髪を、長兄が優しく撫でながら、
「心配はいらぬ、我らは龍の子だ」
慰める言葉に、アイルはその手を振り払って後ずさり、蒼玉の瞳で兄をきつく睨め付けた。
「僕はそんなことして欲しくない!」
今までになく強い拒絶に、アイスブルーの瞳が見張られる。
「僕が小さいからって、みんな本当のことを言わない、ちゃんと教えてくれない、僕だってちゃんとわかるのに!」
アイルがつらくて、もどかしい、たった一つの事実だ。小さいからわからないだろう、傷つけるのは可哀想だと置き去りにされて、対等に向き合ってもらえない。確かに微温湯は心地よかった。兄の庇護下という温室で、何も聞かず、何も知らず、ぬくぬくとしていることも出来た。けれども、アイルは選ばなかった。目標となる憧れがあるからだ。
アイルと同じく母を亡くした王子は、凛と強く、気遣いができる余裕まであった。年齢や性格の違いだと言ってしまえばそれまでだけれども、アイルの目指す人間像の中心には、手合わせで負けたあの日から、王子がいる。アイルの四番目の兄。彼のように強くなるために、逃げることはしたくない。耳を塞ぎ続けたくない。
「ザイル兄様は、無事なの?」
だから、もう一度、アイルは聞いた。動揺するアイスブルーを真っ直ぐに見つめて。
「──……わからぬ」
顔を伏せた長兄は、声を絞り出すように、それでもそう答えた。
アイルは絶望したように、蒼玉の瞳を伏せた。
四兄弟に悪感情を持つ、一部の人々がいることは、幼なかったアイルにも何となくわかってきた。そんな彼らが実しやかに囁いていた、魔獣使部隊の裏切りの噂は、アイルを途方もない不安に陥れた。だから、兄には面と向かって答えて欲しかったのに、結局、濁されて終わりだ。
もちろん、長兄が言っていることこそが真実なのかも知れない。消息不明だから生死も安易に答えられないなら、そのように諭してくれればいいのに。
太陰、三の月、始め。王立軍より一個大隊が前線へ向けて派兵。同日、王立軍の最高幹部である三将官上席が反逆罪で私室に軟禁後、自害。王立軍は反逆罪に加担したと見なされ、末端の兵士までが兵舎に謹慎させられた。
太陰、三の月、末。
次兄の安否が知れなくなってからは初めて、アイルは深く眠っていた。寝台の枕に頬をつけ、横を向いてぐっすりと。そんなアイルも、大気を震わす邪悪な咆哮に目を開ける。ぼんやりしたまま起き上がり、眠気を引きずりながら寝台の端に腰掛け、大きく欠伸をする。
再び、咆哮がした。今度はしっかり目が覚めて、窓辺に駆け寄る。
闇夜に、炎を吐く生き物が、空を舞っている。首と尾が長く、燃え盛る炎の明かりに照らされた体は、紅玉色の鱗に覆われている。前線にいたと言われる、竜種だ。
部屋を出たアイルは、城の端にある塔から城内に抜けて、再び、呆気に取られた。
ここも燃えている。侍女や侍従が逃げ惑い、或いは消火に追われ、騒々しい。
城を内側から焼いているのは、どうやら竜種の炎ではないようだった。まして、自然発火したものでもない。高温に達する赤い炎でも、城内に燃え広がるには早すぎた。誰かが魔法陣を多く展開して、城を落とそうとしている。
その誰かを、アイルは知っていた。とてもよく知っていた。もう二度と会えないかも知れないと思った背中を探して、アイルは走る。纏うローブの裾に火が移り、咄嗟に脱ぎ捨てて寝間着だけになっても、探し続けた。時に侍女や侍従とぶつかり、避難誘導する煤だらけの衛兵を横目に、全力で走った。
「兄様……!」
最も燃え盛る広間で、アイルはようやく、探していた背中を見つけた。炎に照らされる、赤銅色の髪。二度と会えないと思っていた次兄。
アイルの声に、背中はゆるりと振り向いた。返り血にぬらりと頬や服を汚し、龍のような瞳孔の翡翠の瞳は、燃え盛る炎の勢いに戸惑う末弟を見ても、何の揺らぎも見せなかった。
炎の中に、突き出た腕がある。ここだけが激しく燃え盛る原因は、人の脂のためなのだと知って、アイルは腰が抜けそうになる。
「にいさま!」
叫ぶアイルに背を向けて、次兄の姿は炎の向こうへ消えた。熱気に喉を焼かれながら、燃える死体に慄きながら、
「ひとりにしないで!」
声の限りに叫んだ。