始まりの一歩

文字数 4,942文字

 あたしはいつの頃からかずっと、この世界の事を知りたいって思っていた。大きな街とは言えない地方都市ハイランの領主の家の生まれだけれど、あたしの世界の全てはハイラン領主の質実剛健な造りの館とそこの窓から見える極限られた外の風景だった。幼い頃はそんな光景しか知らなくて、何の疑問も持たずに、ただそれが当たり前の事として生きていた。
 あたしの意識が変わり始めたのは、魔術の才を見出された兄がムスペルの魔術アカデミーに入学する事を決めた時からだった。領主として父の跡を継ぐのか魔術アカデミーに入学して魔術師になるのかの選択で、兄は迷う事なく魔術師になる道を選んだ。
 兄が魔術アカデミーに行く事を最初は反対した父も兄の強固な決心を知って、最終的には兄が魔術アカデミーに行く事を承諾して積極的に応援するようになった。
 あたしはその時に、

以外の生き方がある事を知った。

 でも、不幸な事に兄とあたしは違う。それは魔術の才という一芸を持っているかの違いや、男か女かという違いだ。
 残念な事に、あたしは何の才も持たない普通の少女だった。そんなあたしが安心して生きていく為には、父の下でハイラン領主の館を自分の世界の全てとするしか方法は無かった。例えそれが、鳥籠の中で自由に空を飛び回る事を夢見る小鳥だったとしても……。
 あたしは外の世界に憧れを抱きながらも、その事を誰にも言わずに、否、言えずに数年を父の下で過ごした。憧れは、自分の中だけに抱えているとどんどんと大きくなるもの。あたしの胸の中は外への憧れと、その事を誰にも言えない自分の弱さに対する絶望と、そして、そんなあたしの様子に一向に気付かない父への不満で一杯になっていた。

 そんなある日、あたしは父や使用人の目を盗んで館を抜け出して、一人でハイランの街に出掛けた事があった。
 生まれて初めて直に目にする街の様子は、館の中の世界しか知らないあたしにとってはどれも刺激的だった。活気のある露店の賑わい、小さな教会から聞こえてくる祈りの声、簡素な服で自由闊達に遊ぶ子ども達、道端に座って施しを求める物乞い――。
 あたしは、自分の住んでいる街の事を何も知らなかったんだ……。そんな衝撃的な事実に驚くと同時に、喜びも沸き上がった。これが世界なんだ、って。外の世界は、きっともっと素晴らしいものなんじゃないかって。今思えば、あたしはその時に父の下から、あの館から、ハイランから離れて自分の足で世界を歩いてみようと決意したのだと思う。国亡き無法の世界を、ね。

「それにしても……、疲れたわね……」
 あたしは数歩前を歩くラシュウの背中に向かって、息も絶え絶えに言葉を発する。あたしの声が届いているのか届いていないのか、ラシュウは何の反応も見せない。
 考えてみれば当然だ。ずっと小さな館の中で生きて来て、旅と言うものをした事が無いあたしがムスペルから西に伸びる街道――通称『知識の街道』――を休みっこ無しに朝から半日以上も歩いているのだから。
「もう少し先に行くと小さな宿場町がある。日が落ちるまでには着くだろうな」
 あたしが声を発してから少し間を置いて、ラシュウが前を向いたまま背中越しにそう言葉を返してくる。『日が落ちるまでには』ですって!? ということは、つまり……。
「それまでは歩き通しってことですか!?」
 疲れと、初めての旅という緊張感から来る苛立ちで自然と語気が荒くなる。
「そういうこった」
 全く息を乱さずに一定のペースで歩き続けるラシュウの背中から、全く有り難くない言葉が飛んでくる。
「あたし、それまで歩けるかしら……?」
 殆ど無意識に出たあたしの呟きがラシュウに聞こえたのか、半面と視線をこちらに寄越してくる。
「この程度でへこたれてる様じゃ、西の最果てには到底行けんぞ」
 そして、皮肉だか叱咤激励だか分からない言葉があたしの鼓膜を震わせる。……ええ、そうね。あたしはデイア大陸の西の最果てにある、オール帝国の帝都だったオルクシティに行きたいんだった。今この瞬間の苦しさにかまけて、旅の目的を忘れるところだったわ。

 太陽は西の地平線に消えて、辺りは闇に包まれようとしている。
 あたしの脚が文字通り棒になって動かなくなるんじゃないかっていう頃に、ようやく今日の目的地である宿場町に着いた。宿場町と言っても、質素な造りの民家が数軒とこれまた質素な宿屋があるだけの、集落とも呼べない様な寄合だった。
 街道に面した場所にある、建物としては一番大きな宿屋は明かりが少し漏れているものの外から見た限り人の気配が全く感じられない。
 まあ、無法の世に旅をしようなんて人はあたし達以外にはあまりいない筈だし、閑古鳥が鳴いていても何の不思議もないのだけれども。

 何の看板も無いその宿屋を宿屋だと認識出来たのは、扉の脇にドルネクの案山子(かかし)が置かれていたから。
 ドルネクの案山子とは短杖に三角帽子を被せただけの簡素な案山子で、ムスペルを中心とした大陸東部地域ではごく一般的な魔除けとして使われている。この魔除けは、悪霊を追い払ってくれると共に人を招き入れてくれると信じられていて、主に商売をする人が戸口などに置いている。
 つまり、宿場町でドルネクの案山子を置いているのは宿屋以外には有り得ないってこと。いくらあたしが箱入り娘だったと言っても、何も知らない訳ではないのよ。

 そのドルネクの案山子に見守られながら、あたしの目の前にいるラシュウが宿屋の木製の粗末な扉をゆっくりと開ける。中からは埃臭い、少しすえた臭いが漂ってくる。扉を完全に開くと、中の様子が見える。くすんで元の色が分からなくなった木製の柱や床。そこかしこに補修の跡があり、凹凸がある土壁。お世辞にも明るいとは言えない明かり――。贅沢を言うつもりは無いけれど、でも、ちょっと、ほんの少しだけ家に帰りたくなった。
 一見して中には誰の姿も見えない。客はおろか、宿屋の主人の姿すら見えない。扉を開けたラシュウは、そんな状況を気にする様子もなくズカズカと中に入っていく。あたしもラシュウから離れるのがどことなく心細く感じられて、ラシュウの後を付いて行く。
「誰かいるか!?」
 部屋のほぼ中央、一対の粗末なテーブルと椅子が申し訳程度に置かれた場所にやってくるとラシュウは声を張り上げた。大声、というほどでもない声量なのに、その声は何故かよく通る。でも、その声は不思議と不快には聞こえない。ラシュウの声が虚空に消えて数瞬、目立たない位置にある扉がバタンと音を立てて開かれる。扉から宿屋の主人と思しき白髪の男性が表れた。
「見慣れん顔だな。このご時世に男女二人旅とは珍しい。……ああ、泊まるなら勝手に泊ってってくれ。お代さえ貰えりゃ、儂は何でも構わんからな」
 その男性はあたし達を一瞥すると含みのある言い方をして男性が出てきた扉とは別の扉を指差し、さっさと行けと言わんばかりに手を前後に振る。そして、踵を返して再び扉の向こうに消えて行った。――バタン! と出てきた時よりも大きな音を立てて扉の閉まる音が部屋に響く。ラシュウはやれやれと言わんばかりに肩を竦めると、何も言わずに主人が指差した扉に向かっていく。あたしも心の中で肩を竦めてから、ラシュウの後を追った。

 宿の客室は――客室と呼べるものなのかは分からないけれども――薄い布切れ同然の毛布が敷かれているだけの粗末な小さいベッドが部屋の隅に一つ置いてある、極めて殺風景な部屋だった。
「ある程度の覚悟はしていたつもりだったけれど、これはちょっと……」
 部屋を見渡したあたしは、ほぼ無意識にそう呟いた。頭では比べてはいけないと分かっていながらも、どうしてもハイランのあたしのかつての

と比べて見てしまう。そして、そんな中で生きてきた自分が如何に恵まれていたのかを実感する。
「宿に泊まれるだけ有り難いと思え。オルクシティへの道中では、野宿をする羽目になる事もあるだろうからな」
 部屋に入ってすぐに鎧を脱ぎ出して寝る準備を進めるラシュウが、機械的な口調であたしを見ようともせずに言う。そう……よね、これよりももっと酷い状況も経験する事になるのよね……。これから先の事を考えて、あたしの心に不安と少しの恐怖が湧き上がる。ラシュウは、そんなあたしの心の内にお構いなしに鎧を脱いでいく。あたしは自分の感じている不安や恐怖から意識をずらそうと、ラシュウが鎧を脱いでいく姿に意識を向ける。

 ……流石と言うべきか、手慣れてる。そして、ラシュウのその行動を見ている内にある種の感動を覚えたあたしは、いつの間にかぼうっと見惚れていた。
「……ああ、そう、ラシュウさん、寝る前に聞いておきたい事があるのですが……」
 少しの間ラシュウの脱・衣・に目を奪われていたあたしは、ラシュウに聞きたい事がある事を思い出して我に返ってそう声を掛ける。
「明日も早く起きなけりゃならねえんだぞ。手早く済ませよ?」
 相変わらずあたしを見ずに、面倒臭そうに応えるラシュウ。鎧を脱ぎ終えると、想像していた以上に筋骨隆々な身体の線が露わになる。見世物小屋の怪力男の様な見せる為の筋肉じゃない、実用一辺倒の筋肉。闘いの事は全く分からないあたしにも分かる位の迫力。そして、それは、ラシュウが数々の闘いを経験してきた事を物語っている。ラシュウが言った『大陸最強の剣士』と言う売り文句も、強ち間違いじゃないのかも知れない。そう、感じさせる程のラシュウの身体……。
「ああ、それから、俺の事をさん付けで呼ぶな。あと、敬語も止めろ。俺はそんなに大した人間じゃねえ」
 相変わらず面倒臭そうな口調で、ラシュウが言葉を続ける。そう言ってから、ラシュウは無造作に床に寝転ぶと一つ大きな欠伸をする。ラシュウの身体に意識が集中していたあたしはラシュウの言葉と欠伸に促される様に部屋の隅のベッドまで行くと、ラシュウの方を向いてベッドの縁に腰掛ける。ラシュウはあたしとは反対の方向を向いて寝転んでいる。その姿を視界に入れながら、あたしはゆっくりと口を開く。
「ねえ、ラシュウさ……、いえラシュウ? あたしは貴方の事を何も知らないわ。でも、この先オルクシティにまで行くっていうのに、貴方の事を何も知らないっていうのは少し……その、都合が悪いわ。だから、貴方の事を聞かせて頂戴。貴方が、何者なのかを」
 言葉を選びながら、それでも変に卑屈な物言いにならない様に気を付けながら、あたしはラシュウに声を掛ける。あたしの言葉を聞いた筈のラシュウは、相変わらずあたしの方を見ずに少し身じろぎをする。

 数瞬の沈黙。ラシュウの表情は見えない。だから、あたしにはラシュウの心の内を読み取る事は出来ない。少しの気まずさ。ふと、聞かなければ良かったという後悔の念があたしの心に顔を出す。
「俺の事なんざ、大して言う程の事でもねえ。察しの通り、俺はずっと戦ってきた。それだけの人間さ。親兄弟もいねえ、妻や恋人だっていねえ。友人は少しだけいるが、今何処で何をしてるかは知らねえな。もしかしたら、もう死んでるのかもな。俺は、それだけの人間さ」
 ラシュウは一度もあたしを見ずに、ぶっきらぼうに吐き捨てる様な口調でそう言う。まるで、自分の事を語るのは御免だ、とでも言いたげな口調と態度。
「下らねえ話は終わりだ。早く寝ねえと明日が辛いぞ」
 ラシュウはつっけんどんにそう言うと、もう何も言わないとばかりに身体を丸めてわざとらしく欠伸をする。あたしは、望んだ様な答えが返って来なかった事への失望よりもラシュウが何故そんな生き方をしているのかという興味が先に立って、暫くそのままの体勢でラシュウの背中を見詰めていた。
 ラシュウの背中はとても大きいけれども、その背中には一体どんな想いが背負われているのだろう?本当に、貴方は『それだけの人間』なのかしら?

 あたしは寝息を立て始めたラシュウの背中に向かって一つ溜め息を吐いてから、寝心地の悪いベッドに寝転がった。幸い寝心地の悪さよりも睡魔の方が勝った様で、あたしはすぐに夢の世界へと落ちて行った。明日からの激動の旅を予感しながら……。
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